ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

何が悲しくて教員なんか。都会と地方の教員のメンタルヘルスケア。

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働き方改革だそうである。メンタルヘルスケアだそうである。
教員は、体力気力とも、無理を続ける人が多い。ふとしたはずみで、精神を病む。
疲れが残る、気持ちが落ち込む、などというが、そんな生易しいものではない。死にかかるほどの疲労で、起き上がることができない人もいる。

教員には、骨休みがない。俗に、骨惜しみなく働くというが、教育現場は骨を惜しんで、できることではない。
現在の日本の教育を、どうやら形にしているのは、小学校教員の自己犠牲のたまものである、と言えば、言い過ぎだろうか。

日本人の気質は全体にあって個にない。個人は、常に全体を優先しようとする。
個は全体を、基準にしようとするから、無理をする。全体は常に、いっそうの効率を求める。個は、それに流され、または進んで流れを速め、拡大しようとする。

先の大戦のおり、軍が暴走したにせよ、それに抗う者は少く、多くの国民は、進んで追随し、応援した。日本人の哀しい気質であり、一種の美徳である。

 


日本の公教育、特に小学校教育は、教員の自主的な善意に寄りかかりすぎである。
しかし、コレは教員自身にも責任がある。

かつて、某米国人が、日本人は働き過ぎだ。彼らにはプライベートな時間があるのか。
休みを取らない。時間超過も進んでするし、さして苦とも思っていないようだ。
家庭や自分の時間を大切にしない。いったい何のために生きているのだろう、と評した。
図星である。教員を見ているとよくわかる。朝から晩まで働きづめで、しかも、個人の時間を持たない。持ちたくない。帰宅しても、まだ採点している。

 

話は変わるが、都会と地方との教員の、自殺やメンタルを病む確率は、地方の方が断然高い。
不思議なようだが、これには理由がある。

都会の典型として、東京都を例に挙げるなら、教員のほとんどは、地下鉄電車等の公共交通手段で通勤している。
一方、地方の教員は、自家用車がほとんどである。それがどうしたと言われそうだが、大きな差があるのである。

電車通勤の教員は、帰宅途中で、居酒屋に寄りたい放題である。酒を飲んで、今日の鬱屈を発散する。同僚と飲むこともあれば、一人酒で、知らぬ相手と一期一会である。新橋神田上野等の駅裏をのぞくといい。みんなよろしくやっている。
コレが意外にも、教員の精神衛生に影響があるのである。

ところが、地方はどうだろう。そのほとんどは自家用車で来る。
地方教員が自家用車で通勤するのは、便利なようだが、そうでもない。
学校を出たら、家まで直行である。居酒屋なんて、もってのほかである。助手席には山ほど提出物や教材を詰めこんでいる。くたくたになって帰宅すると、翌日の準備や今日一日の後悔にますます疲れはてる。そして、翌朝、寝不足のまま青い顔で出勤する。

自家用車でも、車を置いて街に出ればいいじゃないか、と思うだろうが、無理である。わざわざ飲み屋に出かけるだろうか。まずあり得ない。第一、翌日の授業その他が気になって、出かける時間が、惜しいのである。
メンタル面も、体力面も、すでにして、アウト寸前である。

一方、都会の教員は、ほろ酔い気分で、ご機嫌で帰宅して、ネットなりテレビなり、寝転がって楽しんで、朝までぐっすりと眠る。しかも、休日ともなれば、遊びの山である。大都会では、何をしてもどこに行っても、遊びに事欠かない。東京の教員がメンタルを病むわけがない。それでも病むなら、もとから病人である。仕方がない。

 

地方の教員は、なるほど、住居だけは東京人から見ると億円以上の建物に住んでいる。しかしながら、大邸宅とメンタルとは、あまり関係がない。
人は1畳あれば眠ることができる。狭い都会暮らしは、なーに、街中が自分の庭だと思えばいいのである。

 

 以上は、居酒屋で、某教員から聞いた戯言である。ふざけ話にも、真実は隠れている。

どうして私たちは、毎日を楽しまないのだろうか。働きづめに働いて、それで満足なのだろう。二宮金次郎の像は、為政者にとってあまりに望ましく、一人ひとりの国民にとって、あまりにも不気味だと、ついでながら、聞いたことがある。