ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

学校は躾の場ではない。子供の品位は、親の問題。コロナに飽きたら次は何。

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学校は、学業を教えるところであって、躾をする場所ではない。

「勉強は塾で、躾は学校で」と本気で信じている親がいる。性質(たち)の悪い冗談だろうと思っていたが、実際にいるのである。学校も学校で、「生活指導」という、わけのわからない名目で、喜んで首を突っ込む。

子供の人品は、育ちで決まる。または遺伝で決まる。
道徳教育を、学校ごときに押し付けようなんて、どうかしている。砂漠の真ん中で、雪合戦を試みるようなものである。

道徳は、宗教なしでは不可能である。道徳は宗教そのものであり、宗教の本体は、道徳である。
宗教を否定すると、共産主義指導者や将軍様が、まるごと宗教になってしまう。すなわち生き神様であり、偉大なる首領様となって、特定の人間の気まぐれや残虐行為が、すべて道徳となってしまう。

学校は、まず学問を教えるところである。
道徳は、親が、家庭が、社会が教えるのである。それが困難であることと、安易に学校教員に委ねることとは、別問題である。

もう少し言おうか。
親の意識が変わった、だから学校も変われ、などと、真顔で喧伝されるが、いかがなものか。
親の意識が変わったのではない。親の持つ不平不満を、学校に甘えて投影しているだけである。

例えば、小学校は、5年生になると、野外活動と称して、キャンプの真似事する。二泊三日で、公共施設に泊り込む。面倒至極なキャンプごっこなので、野外活動の引率は多くの教員にとって苦痛である。それ故に、5年生の担任希望者がいない。団長は校長が建前だが、本人も行きたくない。会議だとか何とかで、用事をでっち上げて、教頭に行かせる。

野外活動で、子供が、自分の不注意で、怪我をしたとする。以前なら、ご迷惑をおかけしました、落ち着きのない子供でして、と親が謝る。
今は、まったく逆で、学校の安全教育はどうなっている、怪我防止の事前指導は十分だったのか、活動の安全妥当性を確認したのか、等々、親が居丈高に噛みついてくる。

お笑いである。
何がお笑いかと言えば、噛みついてきたら、振り払えばいいものを、平身低頭、お涙ちょうだいで、教員は平謝りする。
腰抜けもここまで来ると保身の鏡である。

学校にいれば、学校行事ならば、安全だとは、限らない。自分の家を一歩出たら、何が起こるかわからない。そんなに心配なら、首に縄付けて押入に押し込めておけ、と怒鳴りつけたいところである。

四六時中、平穏無事な場所なんてない。子供にとっても、毎日の行動が、事故となるかどうかは、一種の賭である。
不幸な結果になったとしたら、それも運命である。先のことは誰にもわからない。
学校は危険がいっぱいである。その覚悟はしておくがいい。

しかしながら、明らかに学校関係者のミス、教員、管理者、委員会等の人的ミスで、児童生徒学生の不幸な事件事故が起こる。この場合は、表に出るかどうかは、政治とマスコミの利害得失、関係者の人間関係によって決まる。


話を変える。

学級によって、子供の雰囲気や学力が違う。学校全体で見るとき、地域で大きな傾向がある。
それなりの学校は、それなりの場所にあること、あなたがご存じの通り。

近頃、某調査を見て、思うところがあった。
地域の条件は複雑だから、単純な比較はできないが、それを承知で、大雑把に言えば、

アパートが多く、一軒家の点在する地域の学校はよくない。
一軒家の立ち並ぶ団地で、一戸あたりの土地面積が比較的広く、都市中心部へ近い学校はよい。
校外の農村部で、一戸あたりの面積が広い、いわゆる豪農が点在する地域の学校はよい。
街中であっても、大手企業銀行や警察官自衛官等の各種官舎等のある地域の学校は極めてよい。
高層住宅の立ち並ぶ地域の学校はよくない。

道路が整然として、一定以上の空間が残っている地域の学校はよい。
学校は校舎や設備が新しく、広々としていて、静かな場所がいい。

以上は、当然のような話で、不快でもあろうが、しかし事実である。
家庭が金銭的にも情緒的にも、安定していれば、子供は落ち着く。遺伝と躾と環境とが、人の本性であって、これが現実なのだろう。

ーーーーーー

以上は、以前に書いたものである。

コロナごっこも、マスコミ・行政が、どうやら宣伝を弱めてきたようなので、(コロナは連中の商戦だから、再々キャンペーンはあるにしても。ついでに医療従事者も儲かった)、学校は学校の仕事をしなければならなくなった。いつまでも、コロナに甘えて、居眠りばかりでは、いくらなんでも腐りきってしまうことを、当人たちが気づいてきたのだろう。

善き、である。

 

 

ネット乞食と出版乞食。半世紀前の良書を耽読せよ。生きている者や金をせびる奴等の言説は、無視でよし。

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ここ2回ほど、ネットを利用して金を巻き上げようとする、乞食どもについて書いた。今回で一応、完結とする。

題して、「ネット乞食と出版乞食。半世紀前の良書を耽読せよ。生きている者や金をせびる奴等の言説は、無視でよし」。

これを読んでわかる人には瞬間にわかるだろう。わからない人には、無縁である。それでいい。

 

ネットも出版業も、そのほとんどが出鱈目で、目的は金銭欲にあることは、人が時間がたてば空腹になることと同じである。
「本当は怖くないコロナウイルス」「コロナウイルスたった一つの真実」「コロナ時代を乗り切る知恵」とかの類の、ゴミ本が書店に所狭しと並べてある。こんなものを、買って読む人がいるのかしらん。

真実はここに書いてある、私だけが知っていて、お前も知りたけりゃ、金を出せ、と他人様に懇願する類の、世にも不思議な商売である。こんな詐欺が、堂々と商売として成立していることが、それこそ不思議でたまらない。

事実、真実、正しい報道、そんなものは金を出すべき対象ではない。日が没し、また陽が出ること、事実であって、それを指摘する言説は真実である。これを知ることに金が必要だろうか。

すべてのネット情報、書籍の類は、金目当ての詐欺である。無料であることが、事実の入り口である。金銭と引き換えに、事実を教えてやるなんて、子供騙しもいい加減にしろ。

ネット乞食と出版乞食とは、互いに連動する。真っ当に汗を出して稼げばよいものを、頓智と詐欺とで、他人を騙し、ついには自分までも騙して、我が口から出た嘘まで、自身で本当だと思い込む。卑しい料簡である。


ラッセルの『西洋哲学史』は面白い本で、著者自ら楽しんで書いている様子が感じられる。無学な私には、読んで益になること大である。論理学を職とする個人が、哲学を正直に考え抜いて書いた味がある。これこそが、読書の楽しみである。
日本語訳が出てから半世紀以上過ぎても、今でも一読の価値があり、現に、世界中の読者家の支持を得ている。
自費で買って読むのなら、このレベルが最低限で、よりもよって、今日の詐欺師どもの殴り書きを、金と時間とを費やして目を汚す価値があるかどうか。言わずとも了解せよ。

現今の情報ごときが、売り買いの対象になるらしいことに、私は驚き、遺憾に思っている。


ネットは、そもそも無料ではない。現に当家でも、某所に光回線料を毎月支払っている。それで必要十分なはずである。それ以上、ネットを眺めることで金を出すなんて、1円たりとも、お断りである。
時間と目の疲労と体力とを使って、こうしてネットを見てやっているのだ。無駄なゴミを見せるんじゃない。金をせびるんじゃあない。

結局は、本物と偽物とを見分ける当人の能力が、問われるのだろうか。おそらくそうだろう。
なおなお恐ろしき。

 

 

ネット詐欺師が喜ぶオンライン授業。有益情報なら、無料が当然。有料なら、インチキの証拠。ネット対策を授業で教えよう。

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前回、ネットを利用して陰謀論の類を売り付け、利を得る詐欺商売人たちについて、話した。

そもそも、真実だの事実だの正義だのを振りかざすのなら、無料が当然である。正しい知識を、隠して金をとって売りつけようなんて、子供でも、それがインチキと理解できる。
有料会員、有料記事、会員限定、カード払いのみ。書店にない本です、書店にはユダヤ筋の圧力で、置くことができません。本気で現状を憂いているあなただけに、金と引き換えに送ります云々。

いかほどお人好しだろうとも、ネット上の宣伝文句を鵜呑みにするなんて、底抜け間抜けに驚くのである。というより、がっかりである。

情報が事実であるなら、無料が当然である。事実に値段はつけられない。自然に広がって、常識となるだろう。インチキで偽物だから、先に金をとって、知らんぷりをするのである。

思えば、ネットは他人を騙す罠に満ち満ちている。ソーシャルメディアは、実体のない架空の交際手段である。偽情報を販売するには、はなはだ都合がよい。広告収入で成り立つ組織であるSNSとは、「売り付け業」の別名である。

 

さて、学校教育で、ネット詐欺師に騙されることなく、冷静な分析と批判とができる力を、子供に育てることができるだろうか。
難しい。限りなく難しい。

今回のコロナ騒動で、ネットはますます重要視されて、信用を高めた。怪しいと警戒していたものすら、逆に重用されるようになった。
子供には、IPadの類が配られた。教員と子供とが、同一教室で対面授業が可能な状態であっても、なぜか電子端末を使用して授業をする教員が増えた。当人は、それが自慢らしいが、肝心の授業は、ますます出鱈目になった。

授業中、携帯端末を盗み見したり、書き込んだりする生徒は少数だった。今では、教室全員が、大っぴらに同級生の悪口を動画で拡散できる。

 

自己宣伝や承認欲求の爆発で、各種フィルターで、実際の容姿容貌をマシに加工することが当然となった(TwitterFacebook、LINE、TikTokの類に蔓延)。虚実混合の実態のない「実体」が、つまりは、当人である。
ネットは、虚にすぎないのに、実となって、嘘と合体して巨大かつ強力になった。教育が後押しをした。


ネット詐欺師たちは喜んでいる。人々を騙して収益を上げるために、ほとんど無限の手段が可能になった。これを「ビジネスモデル」という。ターゲティング広告という。
ノートやデスクトップPCで、すでにウンザリであったが、スマホに形を変えて、個人全員にPCを持たせて、一日中見させることに成功したから、さあ大変。
スマホは、広告宣伝の塊で、携帯端末からSNSと広告とを取り去ったら、後には音声電話しか残らないだろう。

何度でも言う。ネットを信用するな。ネット商売には1円たりとも金を払うな。ネットで信用できるかもしれない情報の入り口は、まず、無料であることである。有料と名がつけば、それはすべてインチキで、他人を騙す怪しい詐欺師による悪徳商売である。
このくらいの覚悟でちょうどいい。

続く。。。

 

 

ネット時代の詐欺師。十代で古典の読書経験がなければ、陰謀論や説教好きになる。

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ある人来りて、嘆じていわく。

 

人は説教をするのも聞かされるのも、大好きで、上から目線で、何かを言ってもらいたくて仕方がない。

よくある「陰謀論」も、その類で、説教を拝聴して、嬉しくて、あなたは知らないが私は知っていると、思いたい。
自分は人より優れていると、他人に思わせ、自分でもそう信じたい。

その気持ちにつけ込むのが、商売人、特に陰謀論を振りまく連中である。私たちは、一部の国際資本主義者に操られている、ユダヤロスチャイルド、ロックフェラー、天皇家その他云々が支配し、それに気づかされていない等の、事実判定不可の「説教」で、小金を稼ぐアレである。

 

私たちは、自分で考えることをせず、他人の言うことを頭から信じたくて仕方がない、それが楽であり、嬉しいのである。私は知っているが、あなたは、知らないでしょ、と自分一人だけで悦に入りたいのである。哀れな優越感、卑小な自尊心、ではあるが、それが人間である。電通が言ったとかの「世の中には想像もできないほどの馬鹿が、考えられないほどたくさん存在する」という言葉がどんぴしゃりである。

私たちは、自分の頭で考えない。自分で何かを考えるための、基礎教養となる古典を読んでいないのだ。受験参考書に記載された書名と著者名と怪しげな梗概を、うろ覚えしただけである。

だから、同じく、無教養ではったりで商売屋の塊である他人の、わかりやすい「断定する結論」のみを、頭から信じ込む方がはるかに楽で、それが、いつもの自分らしさなのである。

 

他人の言説を論証することが苦手なのは、日本人の特徴である。日本語がすでに論証向きではない。現にこの文章もそうだが、順序だてて論証せずに、一方的に決めつけると短文で済む。しかし、これは私のために書いているので、他人様に信じててもらうために書いているのではない。

 

最も憎むべきは、他人をだまして、一儲けしている輩たちである。私が、マスコミやテレビを蛇蝎のごとく嫌う所以である。しかし、これらはまだ害が少ない。害が最も大きいのは、ネットで販売する説教屋たちである。
コロナごっこで、人心はますます混乱した。スマホピコピコのネット人は急激に増大した。
紙の本を読んで落ち着いて考える習慣もなければ、訓練もなくなった。その場の反射的思い付きで判断するようになった。フェイスブック、グーグル、ツイッター以下、他人の心を操る網の目が確立した。もはや、これまでである。ビッグデータは、何でもできると考えているし、現にそうだろう。

大衆は馬鹿である、という説がある。その証拠を私たちは周りに見て、自分にも見ることができる。

馬鹿の馬鹿たるゆえんは、自分自身で文章を書かないことである。見るだけで、聞くだけで、せいぜい読むだけで、当該言説の批判分析ができない、したくない。面倒くさい。せいぜい要約ができれば上等で、それすらも感想文である。

いったい、本を実際に手に取って、中身を一瞥することもなく、宣伝文句だけの通販で書籍を買うなんて、どれほど愚かなことだろう。

YouTubeは巨大な広告サイトで、そこでは動画を販売する。この続きは有料、だの、大事なお知らせは有料会員限定だの、中学1年生ですら、その怪しさを笑って見抜けるような広告に、まんまと騙されて、大喜びで登録しカード番号を教え、口座から大枚引き落とされても、ご満悦、または泣きべそである。

ああ、どうして、こうも、私たちは愚かなのだろう。ずるく立ち回る乞食どもに、まんまと騙されるのだろう。

 

不安なのである。自分自身が本気で信じることのできる信念理想をもっていない。端的に言えば、自己のよって立つ識見がないのである。
無くても、もちろん構わない、ないのが普通である。ある人は珍しいとすらいえる。しかし、ヒトには常識があるはずだ。なんだか変だぞ、という感覚だが、いかんせん、真面目で騙されやすく、他人から説教してもらいたくてたまらない多くの人々にとっては、自分の持つ常識らしき感覚だけでは、物足りないのである。

ネットの言説を見る。ネットでおススメされた有料機関誌をとる。怪しげな言論人の講演会(もちろん有料)とやらに行く。ついには、ダイレクトメール、ダイレクト出版、デジタル配信まで、そのすべてが、ありえないほど高額であるにもかかわらず、喜んで、カード払いして、幼稚で証明不可の陰謀論を聞いて見て読んで、ご満悦である。

まことに不思議な心理だが、こういう人は、一様に、読書人の経験がなかった人である。驚くほど、真っ当な本を読んではいない。生真面目な受験人であって、十代二十代で、教養の基礎とされる古典を読んでいない。

 

日本人は騙されていた。戦争はユダヤの陰謀だった。日本人は悪くない、一部の暗躍する者どもに操作され誘導されていた。

こういう話が大好きで、事実は隠されていた、その事実は有料記事に載っている。一刻もはやく購読して目を覚まさなければ大変なことになるのだそうである。

そうか、それならば、千歩万歩譲りに譲って、よしんば仰せの通りだったとしようか。
しかしながら、それがどうした。それが、あなたやあなたの周りの人々とって何の関係があるのだろう。明日も、インフラは壊れない。明日も好物のスイーツを食べることができるだろう。ご近所さんも、いきなりゾンビになったり、消えたりはしない。

どうも困ったものである。例えば、多くのバリエーションがある「ユダヤ陰謀論」は、知っても無駄で、知らなくても無駄、それを叫んで商売する連中にとってのみ、ネタになる。そのようなゴミネタを、金銭を払って、耳打ちされた気になって、喜んでいるのである。

寂しい、さもしい、哀しい。
しかし、コロナごっこで頭の中が、ますます不穏になってしまったネット世代の多くのカモは、太った財布を手にして、ピヨピヨとうろついている。
大量の論証不可の言説を売るネット詐欺師どもは、今日も明日も、にんまりと「愚かなる大衆」を相手に、儲け続けることだろう。

恐々謹言。

 

とかいう話である。

小中学校での国語教育が、どれほど大切かの証拠になるだろうが、あの教科書と教員たちである。いかほどの国語教育が可能であるかは、想像がつく。

どうにもこうにも、困ったことだが、子供達には、ともかく、古典を読め、としか言いようがない。今生きている人の本を、読んではいけない。それらはすべてが商売ネタである。五十年百年の時間の風雪に耐えた本をのみ、十代のときから、じっくりと読むべきだろう。

 

 

公務員はコロナが大好き。教員が、「問題」の子供を、びくびくしながら叱っても、無駄である。逆に、ぺちゃんこ。

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コロナごっこで、学校も行政も楽しくて仕方がない。

なぜなら本来の学校教育に対しては、誰も無関心になった。親も子も、つまりは世間も、気がかりなのは、マスコミが煽りに煽っているコロナウイルス、ワクチン、俗称「コロナごっこ」だけである。

行政も、コロナに振り回されているふりをしていさえすれば、すべてが免罪符である。仕事なんかしなくたっていい。まったくの平気の平左である。密禁止の合言葉は、甘い蜜の味の錦の旗だ。

各種住民サービス、公民館から公営スポーツセンター、集会施設運動公園その他諸々、すべてを閉じても、なーに、平気の平左で、関係諸機関職員には、満額給料が支払われている。

 

はて、怪訝である。仕事もしないのに、給与があるとは、あまりに虫の良い話ではなかろうか。しかし、これが公務員の強さで、だから、男と生まれたからには(ジェンダーLGBTのご時世故に、人間と生まれたからには)、公務員にならなければ、大損なのである。

 

それはともかく。

ーーー
学校で教員が、「問題」の子どもを叱っても、無駄である。指導が入らない。
何より、叱ることは悪いことだと、親は考えている。
親の機嫌を損ねることを恐れて、びくびくしながら叱るのだから、教員には、迫力がない。
子供は、教員を自分達のご機嫌を取る存在に過ぎないと思っている。教員に叱られた子供は、ぎょっとして教員の顔をまじまじと見る。叱るなんて、越権行為である。


教員が叱るとどうなるか。

親から、いわゆる教育委員会(まれに学校へ直訴)、そこから校長へ、校長から教員へと、苦情が伝わる。
一撃で、教員はぺちゃんこである。なぜぺちゃんこかと言えば、行政には、絶対に逆らえない。逆らったら、それは教員を辞めるときである。
教育委員会」とは、大仰な名称だが、つまりは教育事務所である。そこの職員は、指導主事という、たいそうな名前で、各学校への指導監督権らしきものを持つ。人事権も握っている。
こんな連中に対して、教員が逆らえるわけがない。

以前は、教員組合が逆らった。組合員は、この数年で、不景気を味方にした行政組織によって、根絶やしにされた。

今、各学校では、管理職が異常に強い。行政の天下である。指導主事の管理がますます強くなり、逆らうことができなくなった。
指導主事を操るのは、小役人である。彼らを睨んでいるのは、議員である。議員を表向きだけでも操っているのは、有権者である。すなわち、子供の親である。
親が一番、強いのである。

しかしながら、その親を操るのは、その子供である。
子供はなるほど、現代の王様である。気の小さい教員ごときが、王に逆らうことができようか。
できるわけがない。

当節の子供は、教員をなめきっている。教員への敬意が全然ない。
それは当然で、敬意を持つことのできないような教員ばかりじゃないか、と反論しても無駄である。
敬意は先に持つべきもので、相手を見て持とうとしたならば、生涯、敬意なんて、誰に対しても持てるわけがない。

子供が教員への敬意を忘れたのは、親が教員を馬鹿にしきっているからである。
この現象は、大元を探ると、敗戦後のGHQ占領政策や、社会主義思想の浸透に、日本国民がまんまとやられた結果である。
1946年憲法で、世界をリアルに見ないようにさせ、嘘っぱちの平和ごっこの中に押し込んだ。
子供の親世代がすでに、GHQの落とし子である。孫である。

親が、教員へ批判的であるのはよいことだが、しかし、教員と親との間には、相応の距離感がなければ、学校教育は円滑に動かない。子供が親の強い影響下にある初等教育では、特にそうである。
しかも、児童生徒学生諸君は、子供とはいえ、あまりにもお粗末で未熟である。
あの親の子だもの、無理はない、と嘆いても解決しない。
教員が、うっかり、子供を強い調子で注意(指導)したりすると、親のみならず、子供までもが、マスコミの口真似をする。
「人権を無視した、侵害だ。ココロが傷ついた」とか、叫び出しかねない。
教育行政の末端である教育事務所の職員も、尻馬に乗って神経質に反応する。
「子供の気持ちを大切に。しっかりと配慮するように」ということになる。

笑止である。
誰でも自分が可愛い。もちろんそれでいい。しかし、子や親のわがままを、真(ま)に受けてどうするのだろう。

教育事務所職員、人事、議員、選挙、企業や消費者その他の力関係が、学校をびっしりと囲んでいる。
選挙民は親である。マスコミのお得意様は、親である。
学校教育や「教育問題」を、各々の立場で利用したい気持ちは、よくわかる。

しかし、学校は、そっとしておいてやれ。騒いでもろくなことにはならない。騒げば騒ぐほど、不良少年を、これ以上大量生産するだけのことである。

教員は、旧ソ連やシナの工作員の類は別として、のびのびと授業に集中させてやればいいのである。教員は呆れるほど、まじめな働き者が多い。おだてて、上手に使ってやれ。

ーーー

以上は、コロナごっこ前の、どうやら普通の生活があったころのお話で、2021年9月末の今日、学校生活は完全にコロナウイルスごっこの渦中にある。

もう、これが楽勝で、教員や(唐突ながら)議員の、笑いが止まらない。コロナを長引かせたいのは、学校公務員(むろん、私立学校職員も含む)及び議員連中、並びにテレビ新聞雑誌等のマスコミ。加えるに、医療関係者。その他利益を受ける者ども。

コロナ騒動で、利益拡大がこれほどまんまと成功したとは、あの中国人ですら予想だにしなかった。

一体全体、何が起こるかわからないのがこの世である、という事実に、唖然とするばかりだが、この分では、いずれ大戦争が起こるだろう。そして、やっぱり何が起こるかわからないものだと、思い知ることだろう。あな恐ろしや。

 

 

 

 

プリントに頼る授業は最悪。音読のない授業は最低である。

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高校から小学校高学年に至るまで、相も変わらぬプリント地獄である。
授業では、子供は教科書とノートを持てばよい(ちなみにIPADの類など不要である)。教員は、教科書とチョーク1本で足るはずである。

それがどうだろう。教員は、プリントを山ほど刷って、子供に配る。

なーに、授業に自信がないからである。プリントを配って、書き込ませれば、あっという間に、時間が過ぎていく。それは子供にとっても安楽な選択であること、教員と一緒である。

 

も少し言うと。

近頃の子供は小学生から高校生に至るまで、プリントで学習することに慣れきってしまって、授業でプリントがあって当然と考えている。
プリントの内容たるや、穴埋めか誘導かのどちらかで、何も考えさせない、考えなくても、機械的にできるような代物である。またそうでなければ、子供が承知しない。できないのである。
白紙を渡して、ここにポイントを書け、学習内容の骨子を書け、当該問題に対処せよ、などと言い渡したところで、どこ吹く風、何をどうしていいかが、さっぱりわからないのである。

 

授業でのプリント万歳の悪習は、2000年ごろから顕著になって、数年後には、たちまち全国を席巻した。コピー機印刷機の大量普及で、プリントの簡易な作成が可能となって、蔓延したのである。教育出版業者の商売上の目論見で、プリントの元版があふれかえったこともある。教員の教養不足と、教授力が落ちたこともあり、プリントが教育活動の「王道」となったわけである。

 

プリントを使用した授業は、安直かつ浅薄で、子供に実力がつかない。にもかかわらず、なんとなく何か学習のようなものがあったかのごとき感覚を、教員も子供も、得られるのが取柄である。
これが流行らなくて、何が流行るだろう。双方めでたくニンマリである。


そういえば、平成の子は昭和の子に比べて、格段に音読が下手である。令和の時代にはどうなることだろう。

小学校から、音読をさせない学級が増えた。小学1年生ですら、プリントの穴埋めばかりで、国語の時間なのに、教科書を音読させない。
小学校高学年になっても、一文読み(句点まで読んで、次の子供に代わること)が精一杯で、段落ごとに読ませるとしどろもどろである。1ページまたは数ページを音読することのできる子供など、学年に数名いるかどうかである。

これはすべて、小学校教員の怠慢と不見識のなせる業である。音読の重要性がまったくわかってない、わかりたくない。指導が面倒なのである。プリントを渡して、穴埋めさせたほうが楽だからだ。

やれやれであるが、これが現実で、嘘だと思うなら、子供に、手近な本でも雑誌でも、声を出させて読ませてみたらいい。目の前の体たらくに、貴君は真っ青になるだろう。とはいえ、貴君自身が、すでに、音読が十分に「下手」だとしたら、何をかいわんや。

スマホをピコピコして、小さな画面を楽しんでいさえすれば、それで十分に満足である。親子ともども、手を取り合って、莞爾として笑うがいい。

 

音読指導はコツがある。しっかりと指導すれば、一週間で学級全員の音読力は、各段に向上し、授業も学級も、生まれ変わる。
などと書くと、そんな馬鹿なと言いたいだろうし、信じたくない気持ちもわからないではない。

せっかくだから、方法を伝授する。簡単である。次のごとし。

と言いたいところだが、言わない、言いたくない。


ケチで言わないのではなく、安直に真似させたくない。物真似ですむのなら、かつて、一部の教員間に流行った、法則化何とか運動と、同じになる。あれは、一時の流行で、未熟な教員のための「東京デートスポット」「彼女と行きたい店」「ぴあ」のごとく、安直な行動パンフレットのようなものだった。それでも無いよりはマシと、思いたいだろうが、そうでもない。
結局は簡易プリントに走った授業ごっこと同じになってしまう。

 

授業は、ひとり一人の教員が、自ら学んで経験して、持てる素養と見識と行動とで、行うべきもので、何も「名人芸」とやらの猿真似でもなければ、ああしなさいこうしなさい、とかの決まり言葉の連発でもない。
このあたりのことは、わかる人にはわかるだろう。

 

すでに書いたかもしれないが、再度言う。あなたが教員なら、今からでも遅くはない。露伴を読め、鴎外を読め。そこに音読の秘訣は山と書いてある。

それすら面倒くさがって、安直に音読力を高める方法を知ろうなんて、ちと甘すぎると云々。