ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

教員の実力がはっきりする三つのこと。ノート、声、板書と向き。授業参観の見どころ。

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公立の小学校や中学校は、年に数回、授業風景を公開する。

昔で言う、父親参観日や日曜参観日と同じことである。

某中学校を例にする。

客(参観の保護者や地域の人)は、それほど多くない

受付をすませたものの、
どこのクラスで何の授業をしているのか、その案内がない。参観者にとって不親切だ。時間表のプリントぐらい、準備しておくのが常識だ。
下駄箱の横に、B4大で、授業の一覧が貼り付けてある。
仕方がないので、それをいちいちメモして、まず、全クラスの雰囲気を知るために、足早に各教室を覗く。この時点で、学校の落ち着きというか、子供の学習への意欲・雰囲気が、ある程度まで分かる。

2時間目から、20分程度ずつ各教室に居座って、じっくりと観察する。

我が子の顔さえ見れば満足、というような人は別として、授業参観には、やはり見所のようなものがある。
授業では、まず教員(授業者)の技量を見る。力のある教員がいれば、その学校は一流に近づく。そのような教員は、多ければ多いほどよい。中学は学級担任制ではなく、教科担任制なので、各教科とも(国語数学英語の3教科は特に)、実力のある教員がそろっていることが理想である。

教員の実力は、授業が、子どもの学力を現実的に高めるものになっているのかどうか、で判断できる。
これを無視して、子どもに優しいだの、話が分かるだの、生徒指導がどうのこうのだのは、まったくもって、教員の本務を誤解している。
授業あっての教員である。それができなくて、他のことが満足にできるわけがない。

詳しく教員の技量を見分けるには、参観者自身が、20年以上の教員経験があり、教科においても授業者以上の学力、見識、教授技術を持っていることが望ましい。だから、誰にでもできることではない。
しかし、そんなことを言ってもおれないので、とりあえず、見所のヒントを3点挙げる。

1 ノート
子供のノートを、横からちらりと見る。
どの子供のノートも、ある一定の水準を超えていればよしとする。水準について、具体的なことは言えない。当該授業の内容による。とりあえずは普通の字できちんと書いていればよろしい。ただし、良いノートは、知性が感じられるものである。
ノートを見るには、 教室の後ろの壁に張り付いていてはダメだ。どんどん生徒の机の横にまで行って、覗かなくてならない。そんなあなたの姿を見て、授業者は嫌な顔は、しないはずだ(机間巡視は、教員の「いろは」である)。参観者は遠慮してはならない。他の保護者の視線を気にしてはならない。
2 声と間合い
授業者の声の大きさ、間合い、リズムに注目する。
怒鳴り上げたり、いらいらしていたり、不必要な大声や、早口はいただけない。
うろうろと動き回ったり、逆に石のように一つ所にいたりするのも、よくない。
教員個人の、独特の知的リズムによる、動きや声の間合いが必要だ。

3 子供へどう向かっているか
授業者の字が上手で、板書が多ければ、参観者はすぐに感心してしまうようだが、これは大きな間違い。板書は少なければ少ないほどよい。板書がなくてもよいくらいだ。
というのも、教員は、すぐに板書に頼ってしまう。少なくとも板書していれば、間を持たせることができるし、黒板の文字を、子供がノートに写していれば、なんとなく時間がたつ。一見、授業をしているような気になってしまう。
板書の字を、まるで硬筆の発表のように馬鹿丁寧に書く教員がいる。あのな、どうせすぐに消す。頑張って書いても無駄だ。普通に読めればそれでいい。あまりに「奇麗」だと肝心の子供が前で板書しにくくなる。そのぐらい察しろ。
板書がなくて、しかも生徒のノートがきちんととれているのが一番である。
それに、板書をしている間は、授業者は子供の方を向くことができない。板書をしながら、背中で子供の発言を聞くなど、もっての他である。発言者の顔を見て、聞いて、対応するのが原則である。
板書は、ここぞと言うときにのみ、無言でするものだ。
説明をする必要があるのなら、板書後、子供が確実にノートに書いたかを確認した上で、真正面を見て(黒板を背にして)するものだ。
 
 

〇 一時期、妙に流行った。流行り物は廃り物というが、果たしてそうか。

文庫だから安い。買って読むといい。

時間と自由 (岩波文庫)

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NHK等マスコミ関係者の自己欺瞞、軽率、無教養、無定見、傲慢無礼の原因は、学校教育にあるのか?

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常々疑問に思うことがある。
日本のマスコミ関係者の、度を越した無教養、意気地なし、無節操、無定見、傲慢無礼、恥知らずは、いったい、どこから出てきたのだろう。

私たちは、ネットなどの媒体を通して、他国のマスコミ情報を見ることができる。
公開情報には、真実が少ない、虚偽がある、操作されている、と知人は言う。その通りである。しかし、すべての公開情報が、嘘っぱちではない。
そんなことは不可能である。逆に、公開情報は、事実であることが多い、と仮定するほうが、「事実」にかなっているのではないか。


さて、そんな公開情報は、いわゆるマスコミ人を通じて、マスコミ媒体に出る。
だから、私たちは、世界中の、マスコミ人の仕事ぶりと成果とを、
お約束の虚偽や誘導が含まれているにしても、目にすることができる。
彼らの応答、単語選択、顔、声調子、構成、実績のようなものですら、各家庭で、各種情報機器、書籍雑誌の類から判断できる。そして、ある種の利益のようなものを、得ることができる。

しかし、しかしである。
諸外国に比べて、日本のマスコミ人の、判断力や情報収集力や知性の不足、そのあまりの能天気、遊び半分、お調子者、不勉強、不誠実、いい加減、阿呆さ、痴呆顔、意味のないプライドと傲慢、高給を得て楽チン仕事で充満した雰囲気、それらを、否が応でも、日々常に実感しなければならない。

これはいったい、どういうことなのだろう。

一例を示せば、外国人の特定分野の専門家に、日本人の「マスコミ人」が対応したとしようか。
ここに書くのも、くだくだしく、また恥ずかしい。

かかる輩どもの不勉強無教養ぶりに驚かない外国人はいないだろう。

一応、外交辞令で、受け答えのようなものはする。取材らしきものを終えて、双方、にっこり笑って別れる。
取材、収録の成功のように、日本のマスコミ人は思う。それはそうだろう。自らの痴態醜態に、自分では気づかないものだ。愚か者の常である。

しかし、しかしである。当該外国人の脳に、日本マスコミ人への侮蔑は永遠に刻まれるだろう。
日本のすべてのマスコミ関係者は、薄笑いするだけのサルである。不勉強で、不見識、ジャーナリズムの何であるかの、その千分の一歩にも達していない馬鹿で間抜けなことに、呆れるどころか、もはや怒りすら覚えるであろう。

だから、日本人は、永遠に、外国ジャーナリズムから馬鹿にされる。アメリカ人にすら馬鹿にされる。英国は言うに及ばず、イスラエル、フランス、ドイツ、ロシア、シナ人その他、種々の国家国民から、日本人は馬鹿にされ続ける。
日本のマスコミ人の駄目さ加減が、日本人全体の評価になってしまうのである。

さて、教育批評の中身はこれからである。
かくなるマスコミ人をつくりあげた責任の大半は、日本の学校教育である。
小中高大学の類の、すべてに罪がある。中でも、もっとも重罪は、初等教育ではないか。たぶんそうだろう、そうに違いない。
理由は書かない、書きたくない。
各々、自分で考えてくれ。多分、答えが出るだろう。

 

 

 

テレビやラジオは日本語の敵である。他人の意見を遮る「討論番組」の芸人。 大学院の怪談。

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あのNHK等のテレビ放送。

そこから流れ出す日本語の卑しさ、不快、劣悪にして唾棄すべき音声、言い回しのごみ溜め。
明快に落ち着いて話すと、内容空疎で出鱈目なことが、ばれてしまうからだろう。口角泡を立てて慌ててしゃべり続ける。煩い。やかましい。下品である。

荷風は、近所から漏れ聞くラジオ放送の煩さに、夕餉とともに、家を出て街を徘徊した。


拙宅は、近隣の家から離れているし、テレビを持たないので、不快な音声を聞かずに済む。
しかし、そうはいっても、音声言語も情報手段の一つである。ネットでニュースも見るし、動画も静止画も見る。雑多な意見も知らねばならない。

日本語の使用が、かくも薄汚くなったのは、学校教育に原因があるばかりではない。赤子には、家庭が言語の学校である。親のことばが、祖父母のことばが、すでにしてテレビ漬けである。
しかし、その親たちもまた、学校教育の汚水をかぶってきたのだから、日本語の有様は、学校の責任も看過できない。
言語教育の基本は、日本の古典に親しませることだ。古典の音読は、ことばそれ自身の意味を知らしめることになる。ものの言い方を知ることができる。

ツイッター、ライン、フェイスブック等々のネットサービスに、十代から夢中になるのは、仕方がない。流れである。止めさせることはできないだろう。
あれは言語教育の代わりにはならない。しかし、国語を変えていくだろうし、現に、変えてきている。

読み書きの力は、明らかに低下した。
聞く話すの方は、これからである。スマホを使ったSNSは、まだ文字中心の視覚媒体である。それが、複数の同時音声交換が活発になったら、どうなるだろう。話し言葉はますます混乱するだろう。

悪化は良貨を駆逐する。できてしまったものは、ない昔に戻れない。いったん崩れたものは、元に直らない。崩れっぱなしになる、どころか、落ちるところまで落ちる、無間地獄へ、なだれ込むだろう。
それもまたアリである。なんでもあるのが、人の歴史だろう。

ことばは、使う本人が、よほど気を付けなければ、すぐに腐る。美しい日本語を話そうと努力しなければ、現状維持どころか、低下する。腐敗に気付くことさえ、できなくなる、鼻が利かなくなるのである。汚臭をも忘れる。

「臭きこと厠に忘れ」。

大学院は、学力試験と論文と面接とで入学させるのが普通である。
面接は、あらかじめ、担当教官と、コネをつけている者が多い。

外国語の巧拙、些末知識やコネのあるなしよりも、論文が優れていれば、どこからも文句は出ない。当人の研究力は、論文に如実に出る。


それがどうやら、近頃、風向きが変わってきた。
面接を重視する。
どういうことだろう。五月蠅いくらいに、しゃべり続ける子供が、受かるのである。早口である。軽口である。一つ問えば、十応える。内容空疎なこともなんのその。条件反射的、臨機即応的、瞬発的、即答即決、読書不足も構わないのである。
知人に言わせると、例えが古いが、テレビバラエティである。お笑いタレントである。日曜討論である。おしゃべりセブンである。笑っていいともである。朝イチである。
ともかく、話す内容そのものよりも、意味不明のことばの連発で、相手を圧倒するのである。または、ごまかして、笑いを誘うのである。雰囲気である。仲良しである。愛想である。おもてなしである。
しゃべり続けることが、学力なのである。試験委員もまた、そうやって、院に入った者がほとんどだから、お互い様である。グルである。もっとやれやれ、である。

日本語はゆっくり話すものである。
唐突だが、小津安二郎の映画を見よ。

ついでに言えば、他人の意見を途中で遮るのが、今の風潮である。例えば、これも古いが、「朝まで生テレビ」とかのバラエティ番組で、盛んに顔出ししていた田原某と称する司会者崩れの芸人がいた。
相手の言うことを、全部聞かない。都合が悪くなると、常に、途中で遮る。
相手は、仮にも生番組で話している。急に止められると、調子が崩れる。何をしゃべっていたかを視聴者のみならず、肝心の当人が忘れてしまう。それをいいことに、発言の邪魔をするのが、田原某のお得意芸だった。
かくも出鱈目にして、下劣最悪な司会進行の放送が増えていることが、日本語の乱れを、後押しした。あんなものが、「討論」だと思うのは大間違いで、低俗テレビ番組に過ぎない。どころか、害悪以外のなにものでもない。
疑問な向きは、動画共有サイトyoutubeにいくらでも証拠が残っている。テレビ放送は、消え去るが、ネットで、検証できる。一目瞭然である。
日本語は論理的であるとかないとかの話ではない。十分に話させない。雰囲気で、その場の流れで、情緒的にごまかそうとする。
テレビを憎む所以の一つでもある。

テレビ放送は、日本語の敵である。

 

 

するべき仕事が、青年を救うのか。いらいらと学び、働いても、安心立命は夢である。

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清水幾太郎だったか、次のように言っていたと記憶する。

顔色悪く陰気で、人生の意味だの生だの死だのと、何かしら青臭い問題らしいものを抱えて悶々としている風の学生たちが、就職が決まるや否や、一応に明るく晴れ晴れとして憑き物が取れたように元気になった云々。

社会の一員として認められた「職業人」「仕事」が、青年を人生の大問題とやらから、救ったのである。気持ちを明るくしたのである。お疲れ様。

青年は、社会の歯車の一つとして、ぐるぐる回る立場を得ることが、当面の大目標である。それ以外に幸せはない。

人には、職業が必要である。食むためのみではない、生きる意味を知るためである。
坊主神父の類は、宗教が仕事である。

何々を救え、が看板の「ボランティア」という職業もある。

 

 

知人が言うには、現役教員だった時、まとまった休みがあれば、あれもしたいこれもやりたいと考えた。高校生のころ、厳しい受験勉強の中で、半日でも数時間でも、ほんの数分でも、自由な時間があれば、本を読みたい、と渇望したのであった。
ところが、毎日が日曜日になった今、一向に気が晴れない。束縛がなくなって、自由な時間があふれると、逆にやる気が起こらない、無為に日々が流れていく、と嘆く。

 

人は、気難しく、ややこしい。

定年退職後は趣味人として悠々自適に暮らす、は絵空事である。
歳を経て、職を退いた者には、何が残っているだろう。

諦念であり、ある種の悟りである。無頼の徒に過ぎないことの自覚である。さもなければ、永遠に往生しないだろう。
ほとんどの退職者は、自らが無用の長物であることを、自覚できない。自覚したくない。隠居を潔しとしないで、うろうろと職を求めて、「現役職業人」の真似事をして、消えかかった生き甲斐を、探し求める。

以上は、個々各々の経済事情を斟酌していない。それを言えば、話は混乱する。誰でもが、安心して老後を迎えることのできる時代はとっくに去ったのである。というより、日本には、そういう幸せな時代は、これまで一度もなかった。今もないし、これからもないだろう。

思えば、働き者の日本人は、昔から不幸を背負って生きている。

安心立命という。豊かな老後という。明るい未来という。現在の幸福という。

どれも日本には、ないものである。これまでもなかったし、今もないし、これからもないだろう。いらいらと働き続けるしかないだろう。

日本人の不幸でもあり、悲しい強さでもあり、宿命でもある。

 

小学校中学校高校大学その他さまざまな場面で、人みな苦労して努力して、学ぶ姿を見た。何の因果だろう。だれもが、よく勉強する。努力する。模範的な点取り虫である。

 

 

中高生に告ぐ。スマホで目を悪くするよりも、フロイト全集を読め。兄弟より、姉妹は難しい。

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知人が言う。

中学生の頃、たまたまフロイトを読んで、たちまちにとりこになり、夢中になった。
中学生といえば、身体も精神も、疾風怒濤の時期である。勝手に苦しんだり、戸惑いもしたが、そんな時、フロイト全集で、どれほど救われたことだろう。
性は、だれもが持つ不思議な闇である。闇といえば、負のイメージのようだが、そうではない。生物の深奥の混沌を指すのである。

性とは愛でもある。
愛は様々な形をとる。母性愛、父性愛、異性愛、同性愛、物性愛、自己愛、その他様々である。
性愛という言葉に奇異の感を持つのならば、好みと言い換えようか。傾向とも、癖とも、趣味とも、雰囲気とも、言ってもいい。言葉で簡潔に説明しようにも、対象が流動して固定できないから、とらえようがない。まさに、闇である。
何を言っても正しいし、間違ってもいる。すべては個々人の問題で、答案は自分自身で書くしかない。正解は、ひとり一人が、自分なりに折り合いをつけるしかないのである。

 

折り合いで思い出したが、母と男子に比べて、母と女子とは難しい。父と男子に比べて、父と女子とは難しい。
なんだそれなら、息子より娘が常に難しいのか、と言われそうだが、その通りである。しかし、実際は、人それぞれである。あなたが納得すればそうであるし、しないのならばそれでいい。

娘は生まれた時から外に出ることを考える。息子は家に戻ることを考える。当否を言うのではない。大方の事実を言っている。

女子は目が外にある。男子は中(家)にある。娘は家を出て、再び帰らないことを願うし、息子は家を出ても帰ってくることを願う。現にそうなる。女子は嫁ぐという、男子は継ぐ、と言うではないか。

 

姉妹は不幸だという。姉が美人で妹が不美人なら、何事にも比較される。姉にその気がなくても、妹のほうは、拗ねる僻む妬む、ついには憎む。 両方とも相応の美人であることは滅多にない。あればあったで、どこかに差を見つけようとする。当人がしなくても、他人が評価する、区別する、差別する、陰で笑う。ならば、女の子は一人娘が最高で、姉妹なんか、ないほうがいい。二人なら、兄弟のほうがよほど気楽だ、と知人は言うのである。

男子には、美人という形容をしない。不思議である。女にあるのなら、男にもあるはずだが、美人は女専用である。男には、外形の美しさよりも物理的な力を優先したのである。古代ギリシャも然り、あれは兼備を良しとしたのである。ごくまれに、男子も、才知を出し抜くほどの美を持つことがある。結果は悲劇が多かった。
とすれば、兄弟には姉妹のようなわだかまりは、まだしも少ないだろう。

フロイトが、エディプスコンプレックスを説いたのは、男子でユダヤ人であったからだ、と何かで読んだ。たぶんそうだろう。 ユングも、我儘なプリンスだった。こんな二人が仲良しになれるわけがない。互いに自分が主役である。主役は二入も、いらないのである。

かつて小林秀雄が、自分は観客のままでいることができない。我慢できずに舞台にかけ上るだろうと話した。正直である。自分で演技できなくても、他人の真似には自信があったのだろう。真似は、演技の始まりだから、許されたのである。

話が、あちこちしたが、十代の諸君は、スマホピコピコで喜んでばかりいないで、たまにはフロイト全集をじっくり読めと、言いたいのである。どうせ春休みは、暇なのだろう。

 

 

 

子育てに不安な親と、それに群がる商売人。他人や他国に甘えるのは、日本の国民性なのか。

 子育てに、不安を持った経験のない親は、いないだろう。どんなに「良い子」でも、妙に変になる時期がある。

 

学校では、わが子はどうしているのだろう。

子供の成長は、教員によって大きく変わる。成長させてくれる教員は「大当たり」である。それほどでもない、または、子供の足を引っ張る教員は「外れ」である。

かように、担任教員には、当たり外れがある。これはどうしようもないことで、運命と諦めるしかない。

 

家庭では、どうだろうか。

全部とは言わないが、日本の親には、次のような傾向がある。

親と子供とは、互いに理解し合っていると、勝手に思い込む。自分にとっての、理想的な親子関係ができて当然と、勘違いする。神経質な親が多い。特に母親が。

 

不安をもつ母親に、商売人が目をつけないはずがない。心理療法の亜流の、その横道みたいな各種の団体または個人が、施術、技法、面接おしゃべり、あれこれ不可思議な類が、雨後の筍、湿った倉庫のカビのごとくに生え広がった。

子育て相談、子供を伸ばす方法、母親の悩みを解決、親子連鎖論、母子関係父子関係等々、勝手に屁理屈をつけて、派手に宣伝する。簡単にネットで拡散できるから、これは金になる安直ビジネスと、商売人なら気づくだろう。

 

少し話が脱線するが、日本人はお説教が大好きで、するのも、されるのも、快感である。

あれはああだ、これはこうだ、実は何々で、こうしなさい、ああしてはいけません、などと一方的に言わてしまうと、嬉しくて仕方がない。簡単に言えば、独立心がなく、依存心が強く、甘えっ子なのである。

安倍某総理が、トランプ某大統領に、頭をなでてもらって、ニコニコと心底嬉しそうなのも、同類の説明で事足りる、と我が友は言う。それを馬鹿なマスコミが、例によって手放しで持ち上げるのだと。

相手はビジネスマンである。頭をなでるにはそれなりの理由がある。たっぷりと日本国民の税金を、分捕ってきた、分捕っている、これかもそうするに違いない。

アメリカのトランプカードで、日本のお子様プレイヤーは、散々踊らされることだろう。その結果、日本国民は、またしても負債が増え続けることだろう。と、これもまた酔眼の友が、話したのである。

 

 

それはともかく、話を戻すと、

「あなたの子育ては、ここが間違いだ。あなたに、こんな原因があるから、子供がこうなった」などと、説教されると、即座に信じ込んで、熱心な会員、信徒、信者、檀家、弟子、となる。一件落着する。

思えば、これほど他人の言説を信じやすい、信じたがりの、甘えん坊の、神経質の、繊細で、ナイーブで、信念の希薄な、幼い国民、または親たちは、世界中を探しても、なかなか見つからないのではなかろうか。

鏡の中の間抜け面をつくづく見て、我ながら思うのである。