ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

するべき仕事が、青年を救うのか。いらいらと学び、働いても、安心立命は夢である。

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清水幾太郎だったか、次のように言っていたと記憶する。

顔色悪く陰気で、人生の意味だの生だの死だのと、何かしら青臭い問題らしいものを抱えて悶々としている風の学生たちが、就職が決まるや否や、一応に明るく晴れ晴れとして憑き物が取れたように元気になった云々。

社会の一員として認められた「職業人」「仕事」が、青年を人生の大問題とやらから、救ったのである。気持ちを明るくしたのである。お疲れ様。

青年は、社会の歯車の一つとして、ぐるぐる回る立場を得ることが、当面の大目標である。それ以外に幸せはない。

人には、職業が必要である。食むためのみではない、生きる意味を知るためである。
坊主神父の類は、宗教が仕事である。

何々を救え、が看板の「ボランティア」という職業もある。

 

 

知人が言うには、現役教員だった時、まとまった休みがあれば、あれもしたいこれもやりたいと考えた。高校生のころ、厳しい受験勉強の中で、半日でも数時間でも、ほんの数分でも、自由な時間があれば、本を読みたい、と渇望したのであった。
ところが、毎日が日曜日になった今、一向に気が晴れない。束縛がなくなって、自由な時間があふれると、逆にやる気が起こらない、無為に日々が流れていく、と嘆く。

 

人は、気難しく、ややこしい。

定年退職後は趣味人として悠々自適に暮らす、は絵空事である。
歳を経て、職を退いた者には、何が残っているだろう。

諦念であり、ある種の悟りである。無頼の徒に過ぎないことの自覚である。さもなければ、永遠に往生しないだろう。
ほとんどの退職者は、自らが無用の長物であることを、自覚できない。自覚したくない。隠居を潔しとしないで、うろうろと職を求めて、「現役職業人」の真似事をして、消えかかった生き甲斐を、探し求める。

以上は、個々各々の経済事情を斟酌していない。それを言えば、話は混乱する。誰でもが、安心して老後を迎えることのできる時代はとっくに去ったのである。というより、日本には、そういう幸せな時代は、これまで一度もなかった。今もないし、これからもないだろう。

思えば、働き者の日本人は、昔から不幸を背負って生きている。

安心立命という。豊かな老後という。明るい未来という。現在の幸福という。

どれも日本には、ないものである。これまでもなかったし、今もないし、これからもないだろう。いらいらと働き続けるしかないだろう。

日本人の不幸でもあり、悲しい強さでもあり、宿命でもある。

 

小学校中学校高校大学その他さまざまな場面で、人みな苦労して努力して、学ぶ姿を見た。何の因果だろう。だれもが、よく勉強する。努力する。模範的な点取り虫である。