ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

大学は出たものの。給金が低すぎる。教育費を返せ。明日の薄ぼんやりとした暗さ。

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桜咲く頃。大学に入ってはみたものの。

人は、生まれたときから、何かを見たり、知ったりすることに、喜びを感じる傾向がある(ようだ)。
赤子は、周りのすべてを吸収しようとキョトキョトしている。
知識の獲得が、本性としたら、学習は快楽と同義である。

毎日の勉強が、楽しみとなり、快楽を日々味わっていることになる。
たいへん都合がよろしい。

知識を得る、何かを知る、発見する。日々新た、という。勉強を続けるならば、そうなる(はずだ)。

受験勉強とは、競争に勝つために、ある一定期間、ある範囲を学習して、当該科目の問題解決力を得ることをいう。
競争試験は悪い風習ではない。短期に集中して勉強する経験は、なかなかに善い面もある。

なぜ、試験に受かりたいかといえば、その学校に入りたいからである。
なぜ、入りたいかといえば、校風が好きだとか、尊敬する先生がいるとか、就職に有利だとか、卒業生に政済界の実力者がいるから、とか様々であろう。司法試験や、外交官試験の合格者が多いから、医者その他になるため云々。裕福のイメージも加わる。収益と社会認知の高さとに直結する学部や大学は、幸福への近道のような気がしてくる。
これは、常識人の考え方である。否定はできない。
しかし、学ぶことの楽しみを味わえるのかどうか。

猛烈な受験勉強の結果、首尾よく目的の学校に入ったはいいが、勉強しなくなったり、ノイローゼになったり、学業不振になったりで、転落する例が多くあるからである。

しかしながら、極端な例を出して、それがほとんどであるかのような言い方は公平とはいえないだろう。多くの場合は、順調に進級する。でなければ、あれほどに、みながみな、受験勉強に熱心になるわけがない。ちゃんと、メリットがあるからである。

受験勉強は、まんざら悪くないどころか、むしろ奨励すべきもののようである。
すればするほど、それなりのご褒美を受け取ることが多い。単純だが実例の多い結論である。


と、ここまではこれまで通用した例だが、どうやら、だんだん雲行きが怪しくなってきた。
就職は、ここ数年上向きである。しかし、給金がいかにも少ない。少なすぎる。
先日、教え子の初任給を聞いて、愕然としたのである。よくもまあ、莫大な教育費を費やし、努力をして、人も知る某大学を出て、しかも、某大企業に勤めて、それで月給がたったのこれだけなのか。

あまりにバランスを欠いているのではないか。しかも、仕事内容は○○〇である、以下略したい。

これでは大学に行く意味がない。
学問のためだけなら、自学自習に極まる。しかも、大学は、無能無益無駄無用無視すべき低能教員だらけである。あんな教員を食わすために、どうして学費と称する「上納金」を出さなければならないのか。そして実際に出してやり、その挙句が、低給金の卒業生だらけなのか。
いやはや、大学の意味はない。これは集団詐欺制度である。

とまでは言わないが、それにしても、新社会人の諸君の給料があまりにも低いのである。半面、税金は高く、物価も高い。
それでも、おとなしく、真面目に、誠実に、真剣に、細やかに、おもてなし精神で、懸命に、健気に、素直に、働く若者たちの明日は、はたして、明るいのか、暗いのか。
大学は出たものの、やっぱり、薄ぼんやりと暗いのではあるまいか。

 

 

 

 

 

先生に感謝の涙。医者と教員は、どちらが「先生」なのか。

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医者と教員とは、世間で先生と呼ばれる職業の典型だろう。
しかし両者を比べると、収入の面からも社会的な認知度からも、大きな違いがある。
医者は病人相手である。教員は、健康な子供が相手である(一部例外あり)。
どちらが社会的に建設的な仕事かと言えば、断然教員である。
ところが、世間は、医者の方を、収入でも社会的評価でも、価値ある仕事として認めている。

なぜだろうか。

簡単である。
誰しも我が身が一番かわいい。

教員は子どもを伸ばすことができるが、瀕死の子供を助けることはできない。
医者も同じで、死にかかった子どもを助けることはほとんどできないが(それどころか、不手際で往々死なせてしまうことがある)、まれに助けることがある。子供の親にしてみれば、こんなに嬉しいことはない。

健康はありがたいものだが、健康なときは、そのありがたさが実感できない。
少しでも不具合があると、健康万歳となる。歯が痛くなっただけでも、私たちは、自分は地獄の渦中と考える。
とすると、その痛みを和らげたり、なくしたりできるなら、これはもう、神様仏様である。
だから医者は、ありがたいのである。

しかしこれらは、あくまで尋常ではない。異常である。異常なときに役に立つことが、それほど立派なことだろうか。

繰り返すと、教員は、健康な子供に対して、その子供の成長のために学問を教えている。
これは相当に価値のある仕事である。立派な営みである。本当の「先生」なのである。

 

あえて教員のために言ってやろうか。
給料をたんとやれ。暇もやれ。優秀な教員は(そうでもない教員も)、暇だからといって遊びはしない。彼らは悲しいほどに勤勉だ。
授業研究だの、なんとか指導だの、研修だので、目一杯の毎日を送っている(だから、立派だとは言わない。余裕のある方が良いに決まっている)。
教員は、他人が一々チェックしなくても、真面目なのである。大企業社員や役所の職員や政治屋とは、大違いだ。

子供や親には、そんなこと(教員の勤勉さ有難さ霊験あらたかさ)は、いずれ分かる。
なぜなら、子供が実際に伸びる。担任教員を憎く思っている親も、我が子の成長を目の当たりにすると、認めざるを得ない。
形式的なアンケートなどしなくても、すぐに、結果が出るのである。

学校教員は、まさに「先生」である。敬すべき存在である。神聖にして、何事かおわしますのである。随喜の涙である。

小学校高学年の担任の大切さは、前に話したが、何度でも言う。
小学校高学年、特に6年生5年生の時の担任は、子どもに、絶大な影響を及ぼす。
この時期に、強い学問的感化を子供に与える担任教員に会うことができるか、それとも、並か並以下の教員に担任されるかが、子供の将来を決める。

そんな馬鹿な、と思いたいだろう。その気持ちもわかる。普段、見下している小学校教員なんかに、我が子の将来がかかっている、なんて認めたくないだろう。

しかし、それが現実である。現実だと認めたくないのは、子供の人生は、結局、一回限りのやり直しのできないものだからだ。
すでに小学校時代が終わっているからだ。または、今さら担任の変更ができないからだ。

人生は残酷で、不公平なものである。
良い担任に当たらないからといって、良い担任が存在しないという証明にはならない。

これは恐ろしいことである。
担任の当たり外れは、運である。
宝くじと同じである。

宝くじに当たったからといって、必ずしも幸福を約束しない。しかし、小学校高学年のとき、当たりの担任に受け持ってもらえるならば、それは幸福を意味する。
げに恐るべきことである。
先生に感謝。涙涙である。

 

 

教員の花見。春休みはない。夏休みは、研修ごっこと会議が満載。

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3月終わりから4月のはじめまで、学校は休みである。子供は、家で、または遊び場でごろごろする。
教員は何をするのだろう。ゆっくりと休めるのだろうか。
自堕落な大学教員は別として、教員にとって3月4月も忙しい。体調を崩す教員が多いけれども、休んでいる暇はない。

だから、教員の「長い休み」があるのならば、夏休みしかないのである。

しかし、教員の夏休みは、正確には、「ない」。
学校が、夏期休業中なのであって、教員には、正規の勤務時間であることには、変わりはない。
だから、教員には、夏休みは、ないのである。

だが、研究または研修の時期ではある。
その期間は、本来は大学や各種研究機関あるいはフィールドでするのが建前というか本筋なのだが、簡単には認めなくなった。
すべて勤務先で行え、ということになった。仕方がないので、教員はせっせと児童生徒のいない学校へやってくる。

一流の執刀医がいたとしようか。彼または彼女が難しい手術を終えて、海外の保養地で休暇をとることを、世間は許すだろうか。
許すだろう。

教員が夏休みに、各種機関で研修をしたら、世間は許すだろうか。
許すだろう。

それが、風邪向きが変わった。

教員を馬鹿にしているのである。
親は、自分が選んで金を払って行かせている学習塾の講師は、有難く感じる。しかし、我が子の通う学校の教員は、自分が選んだわけではない。

なお、悪いことに、世間は、教員へ嫉妬する。薄給の教員なんかに嫉妬するのは怪訝であるが、するのである。
なぜなら、みなさん、「学校ごっこ」が大好きで、できれば自分も「先生」と呼ばれたい。子供に命令したい。そんな方々のパーティがPTAである。ボランティアである。YouTubeで今日は何々を解説します、とやる人々である。


教員は特殊な仕事である。毎日、気難しい「生もの」を扱って、気の休まるときがない。
子どもの将来への影響を考えれば、親は教員を正視する事はできないのではないか。ひたすら、ひれ伏すしかない(または、殴り倒すしかない)。
だから、教員を世間の他の職業人と同列に扱ってはいけないのである。

すべての職業は、世間が、どのように見るか、どのように扱うかで、価値が決まる。
例えば、単細胞で優柔不断で私利私欲の塊のような男でも、総理大臣職にあれば、やはり一国の総理大臣として認めざるを得ない。
利己主義の冷酷な拝金主義者であっても、大統領の立場にあれば、国民にとっては偶像であり、「尊敬」すべき大統領なのである。

大学の教員に対して、世間は甘い。それというのも、世間は彼らを、何となく「認めている」からである。

大学教員よりも小中学校の教員の方が、何十倍も偉いと思うが、世間の大部分はそうは思わないし、思いたくない。

職種の価値を等閑にしたら、その内容も評価に見合った程度のものになる。
寄って集って、教員に対して失礼な態度に出れば、教員の価値を貶めることになり、結局は、子どもの教育にマイナスとなる。
それが分からないのだろうか。
わかりたくないのだろう。

 

 

 

 

桜散る春。進学浪人する子が減ったなあ。

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詳しい統計を見ていないけれども、近年は進学浪人する子供の割合が、少ないようだ。

浪人までして入るのは、またはそうしなければ、なかなか入れないのは、医学部や、皆さんごひいきの東大法くらいか。

わざわざ浪人までしていきたい学校があるわけではなし、入ったからとて、どうなるわけでもなし、先の見えない今日この頃。変わり易いは入試制度に秋の空、それにお上の御政事とやら云々。

 

進学にも、どうやら向き不向きがある。
勉強する、学習する、学ぶ、どう言ってもよいが、学習の基本は読み書き算盤である。
倦まず怠らず弛まず、続けて学び続けることが肝要だろうが、好きでなければ難しい。
好きでもないのに、多くの子供が嫌々ながら学んでいるのは、強制されているからである。将来、自力で食っていかなければならないことを漠然とまたは強烈に、感じているからである。


平成生まれの子供は、答えはすぐ出るものだと考えている節がある。
簡単に手の届く知識にしか興味を持たない子が多い。
「OK、グーグル」なんて感じで、済まそうとする。
昔の子供も、答えを早く出そうという気持ちは同じだったろう。しかし、ある種の事柄には、長い時間をかけねばならないことを、体験上知っていた。

今の子供は、すぐに答えが出る問いには、反応が速くなったが、粘り強く考えて解決するのは、苦手のようである。難問を遠ざけようとする。
考え続けることの沈黙や静寂に耐えることが、苦手なのである。


「演算」まがいの問題形式がある。一時期、流行ったもので、問題文の中に数式の約束があって、約束通りに解くのである。基礎的な読解力と計算力とがあれば、簡単に解けるのに、苦手とする子が多い。
授業で習ったパターン以外の問題は極端に正答率が悪くなる。これは以前にはなかったことだ。

玩具は分解したいという気がおこるものだが、電子ゲーム、PC、スマートフォンにはその気はおこらない。分解したって何がなんだかわからないことを、すでに子供自身が気づいている。

演算問題も同じことだ、とは言わないが、簡単に結果が出る問題以外は、難問だということになるらしい。少しの手間ですぐわかることなのに、待つことができない。答えをすぐに見つけたがる。

新しい課題が出たときに、基本の考え方を身につけていれば、原則から考えて、応用可能なはずである。であるのに、原則を等閑にしているから、暗記した事例の数で対処しようとする。ご苦労である。


近ごろは、高校生は灰色の青春を送っている、とは誰も言わない。ネットが、原色をばらまいて、モノクロはどこかに吹き飛んでしまった。
あれしきの勉強で灰色ならば、フランスの高校生は真っ黒を通り越している。
日本の子供はよく勉強する、勉強しすぎだ、という意見が、昔はあったが、今はない。どこの国の子供でも、少しばかりは、または、多すぎるぐらい勉強する。

日本のような天然資源の少ない国では、豊富ものは「人材」だけである。技術立国であることは、万人承知のことである。そんな国で、子供が勉強しなくなったらどうなる。

勉強、勉強、勉強でよいのである。どうせそんなには、しやしない。
十代の少年少女が四六時中、机に向かうはずがない。そんな子がいれば、おそらく、病気である。
大人が先取りして、勉強し過ぎだ、遊びが少なすぎる、などと言っては、子供が本気にする恐れがある。1990年代までは、そんな子供がいた。今はないようなので、やれやれである。


ピアノは忍耐強い運指訓練が必要だろう。学習も同じことである。
最初は強制だとしても、やがて自分からするようになる。
上手になるには訓練が必要ということだろう。それには、時間が、必要だろう。

 

 

 

 

日本愚民化政策は、テレビと教育との、二つからである。

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某人が言うには。

 

日本人を、小さな生活のささやかな平和ごっこの中に閉じ込めておくためには、二つのアプローチがある。
1には、マスコミ、特にテレビと新聞とを使って、国民から批判力と論理的思考力とを奪う。
2には、教育を不安定で筋の通らないものにして、日本人の国家意識を喪失させ、体制に従順な労働者として育成する。

1 マスコミを使った作戦
テレビと新聞は、長い間、気楽に商売を行ってきた。日本人は活字好きだし、文字を信じ込む傾向がある。毎朝、いわゆる地方紙、全国紙の類に目を通さないと落ち着かない、という知人がいる。ご苦労なことである。
かつて清水幾太郎だったか、朝から新聞を読んで、あんな駄文で頭を汚したくない、と書いた。新聞はいわば一夜限りの言説(のようなもの)で、購読者のご機嫌を取れば上出来である。そのくせ、妙に知識人を気取って、読者を馬鹿にする。「新聞は言論の雄」などと、あらぬことを口走るようになる。
困ったものである。商売人を甘やかすとああなる。

 

新聞は批判されるべきものの代表である。言説を大量に吐くものは、批判されて、襟を正さねばならないはずである。マスコミの独善ほど、国家国民にとって、危険なものはない。
マスコミ人(マスコミ関係業界人)は、新聞を批判しない。新聞やテレビは、マスコミ人のお得意先だから、敵に回すと、飯の食い上げである。批判されることもなく、おだて上げられて、新聞テレビは独善的になる、神になる。
テレビは、短絡、直情、煽動、洗脳、雰囲気重視、ご都合主義である。

新聞は、ともかく文字である。少しは証拠が残るから、慎重ぶる。そのくせ、嘘を書いても反省しない。しないどころか、威張る。

テレビに至っては、編集済みの映像と音声とを、濁流のごとく垂れ流して、視聴者を泥まみれにする、あるいは溺れさせる。映像の力は大きい。油断するな。

 

2 教育を使った作戦
不思議なことに、日本の政治状況は、教育の変質と歩調を同じくしている。
教育は100年の計というが、まことにそうである。教育をねじ曲げれば、いずれ国は倒れる。
敗戦後、GHQは、憲法教育基本法を意図的に歪めて制定し、日本の伝統教育を根本から異質にした。怪しげな教育観を日本人に植え付けた。NHKも喜んでGHQの言うとおりにした。

現代人のほとんどは、戦後生まれで、戦後教育の立派な落とし子である。日本悪玉論が、骨身に染みついている。負け犬根性、対米依存、左翼願望が習性である。平和憲法(1946年憲法)万歳、みんな仲良く、戦争放棄、何々は許せない、反核のうねり、おもてなし等の夢物語が大好きである。
 
日本愚民化政策は、これまでと同じく、今もこれからも続く。むしろ、情報による人心操作によって、頻繁かつ巧妙に、強烈に、愚民化を進めていくだろう。その推進力は、米国であり、シナやロシアであり、外国資本であり、獅子身中の虫である日本人自身である。マスコミ人や、政府官僚大学教員その他、戦後利得者達である。

敵は多く、大きく、強力である。対抗する術は、皆無に思える。しかしながら、国民は、金を出す方で、買う方で、お客様なのである。どんなときでも、金を払う方が強く、お金を受け取る方が弱い。テレビ新聞を、見るか見ないかを選ぶのは、私たちである。
ならば、もう少し、私たちが冷静な判断力を持てばいいだけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

公務員や教員の自殺は、パニック障害だろうか。それとも、誰かへの面当てなのか。

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人が死ぬのは、よほどのことである。まして自殺となると、何を好き好んで自殺なんか、と訝しがる。

高校生のころ、クラスメートに自殺を考えた子の多いことに、驚いたことがある。
優秀な子供になればなるほど、十代なら、自殺くらいは考える。疾風怒濤の時期である。当然である。ほとんどの子供が生き残っているのは、実行しないだけである。一種の通過儀礼である。


話は変わるが、年長の男性から一度も誘惑されたことのない少年は田夫野人の類であると、誰かが書いていた。稲垣足穂だったか。

眉目秀麗可憐は目立つにしても、言い過ぎである。
同性の級友から想われたことのない少女もまた、たいしたことはない云々。
私は家人に訊ねてみて、色々と知ったのである。

さて、公務員の自殺であるが、なるほど公務員は天国である。楽ちんである。
嘘だと思うなら、都庁に行け、各役所に行け。議員になるがいい。または、身近な公務員に問うてみよ。
公務員は、天国極楽楽勝である。なにより、公務員本人が、そのことを一番知っている。それすら、余裕で、または平気で、またはやっとこさで、仕事をすることができないのなら、これはつまりは甘ちゃんである。

役所人間が自死すると、さぞつらかったのだろう、責任を感じたのだろう、などと人は噂をするが、公務員は、そんな人種ではない。
あれは甘えているだけである。力不足である。苦労を知らないのである。普段があまりに楽だと、たまに世間並みの波をかぶると、驚いて困惑する。その挙句、どうしていいかわからない。パニックになって、死んでしまえ、ということになる。
役所の中だけが世界だから、こうなる。

しかし、人は自分の体験からしか、苦労を知ることができない。自分自身が尺度であって、他人の気持ちを推し量ることができないのである。
つまりは人それぞれである。小中高校と塾付け、予備校付けで、某大学に入って、某官庁に勤めて、目をキョトキョトしながら生きていけば、大失策も小失策も、自ずと致命傷だと感じるようになる。傷が治せないのなら、死ぬしかない。勝手に思い詰める。煮詰まる。

ただしこれは、例外中の例外である。だからこそ、公務員の自殺が、話題になる。圧倒的大多数は、極楽とんぼで毎日を過ごしている。
省庁役人の自殺、官僚の自殺、公務員の自殺など、取るに足らないものである。死ぬ人は死ぬ。

『李陵』(中島敦)を読むがいい。憤怒だけでも、自死する。まして、失策をや。
それに、世間には、面当て自殺が案外多い。


次に教員の自殺であるが、みなさん、大学教員の自殺をご存知か。私立高校の教員の自殺をご存知か。
寡聞にして、私は知らない。
大学教員の自殺は、滅多にない。あったとしても、あれは最初から、重い精神病の類ではないか。

教員の自殺で多いのは、公立の小中学校教員である。児童生徒の指導に悩んで死ぬのである。
公立高校では、校長がときどき死ぬ。職員の制御ができないことを苦にしたのである。

頭を冷やせば、どうとということもない、時間が解決する、などと他人は言うが、当人にとっては、地球崩壊ぐらいの圧力である。
教員職は、対象が狭いだけに、落ち込むと他が全然見えなくなる。
同僚の対応が唯一の救いとなるのだが、これについては、拙文「ぱるるの教育批評」のどこかに書いたはず。興味のある向きは、探して読んでくれ。