ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

桜散る春。進学浪人する子が減ったなあ。

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詳しい統計を見ていないけれども、近年は進学浪人する子供の割合が、少ないようだ。

浪人までして入るのは、またはそうしなければ、なかなか入れないのは、医学部や、皆さんごひいきの東大法くらいか。

わざわざ浪人までしていきたい学校があるわけではなし、入ったからとて、どうなるわけでもなし、先の見えない今日この頃。変わり易いは入試制度に秋の空、それにお上の御政事とやら云々。

 

進学にも、どうやら向き不向きがある。
勉強する、学習する、学ぶ、どう言ってもよいが、学習の基本は読み書き算盤である。
倦まず怠らず弛まず、続けて学び続けることが肝要だろうが、好きでなければ難しい。
好きでもないのに、多くの子供が嫌々ながら学んでいるのは、強制されているからである。将来、自力で食っていかなければならないことを漠然とまたは強烈に、感じているからである。


平成生まれの子供は、答えはすぐ出るものだと考えている節がある。
簡単に手の届く知識にしか興味を持たない子が多い。
「OK、グーグル」なんて感じで、済まそうとする。
昔の子供も、答えを早く出そうという気持ちは同じだったろう。しかし、ある種の事柄には、長い時間をかけねばならないことを、体験上知っていた。

今の子供は、すぐに答えが出る問いには、反応が速くなったが、粘り強く考えて解決するのは、苦手のようである。難問を遠ざけようとする。
考え続けることの沈黙や静寂に耐えることが、苦手なのである。


「演算」まがいの問題形式がある。一時期、流行ったもので、問題文の中に数式の約束があって、約束通りに解くのである。基礎的な読解力と計算力とがあれば、簡単に解けるのに、苦手とする子が多い。
授業で習ったパターン以外の問題は極端に正答率が悪くなる。これは以前にはなかったことだ。

玩具は分解したいという気がおこるものだが、電子ゲーム、PC、スマートフォンにはその気はおこらない。分解したって何がなんだかわからないことを、すでに子供自身が気づいている。

演算問題も同じことだ、とは言わないが、簡単に結果が出る問題以外は、難問だということになるらしい。少しの手間ですぐわかることなのに、待つことができない。答えをすぐに見つけたがる。

新しい課題が出たときに、基本の考え方を身につけていれば、原則から考えて、応用可能なはずである。であるのに、原則を等閑にしているから、暗記した事例の数で対処しようとする。ご苦労である。


近ごろは、高校生は灰色の青春を送っている、とは誰も言わない。ネットが、原色をばらまいて、モノクロはどこかに吹き飛んでしまった。
あれしきの勉強で灰色ならば、フランスの高校生は真っ黒を通り越している。
日本の子供はよく勉強する、勉強しすぎだ、という意見が、昔はあったが、今はない。どこの国の子供でも、少しばかりは、または、多すぎるぐらい勉強する。

日本のような天然資源の少ない国では、豊富ものは「人材」だけである。技術立国であることは、万人承知のことである。そんな国で、子供が勉強しなくなったらどうなる。

勉強、勉強、勉強でよいのである。どうせそんなには、しやしない。
十代の少年少女が四六時中、机に向かうはずがない。そんな子がいれば、おそらく、病気である。
大人が先取りして、勉強し過ぎだ、遊びが少なすぎる、などと言っては、子供が本気にする恐れがある。1990年代までは、そんな子供がいた。今はないようなので、やれやれである。


ピアノは忍耐強い運指訓練が必要だろう。学習も同じことである。
最初は強制だとしても、やがて自分からするようになる。
上手になるには訓練が必要ということだろう。それには、時間が、必要だろう。