ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

最低の中学校の授業。子供が悪ければ、教員が助かるのか?

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この中学校の授業は、問題点が多い。

英語の授業。
英語に限らず、中学では、プリントを配って、それに書き込ませることで、授業を構成しようとすることが多い。ところがほとんどの場合、プリントの内容が、簡単で単純なため、学力向上の役に立たない。もちろん、だだっ子並みの中学生を、なだめたり、あやしたりしながら、授業をするご苦労はお察しする。

簡単なプリントの書き込みは、クラスでもっとも理解が遅れている子供には適するかも知れないが、後の9割にとっては、退屈で、緩慢で、知的興奮のない授業となって、学習意欲を減退させる。大いに迷惑である。

音楽の授業。
授業開始後、出席をとるのに5分、忘れ物調べで10分、実際の授業に入るまでが、長すぎる。
音楽の授業が成立しないので、他のことで、少しでも授業時間を短くしようとたくらんでいるとしか思えない。
ようやく始まったと思ったら、子供に歌わせない。無論、子供も歌おうとはしないし、歌う気もないらしい。
教員は「では歌いましょう」と言っておいて、子供を無視して、歌うのは自分だけ。子供を立たせることもなく、座ったままで歌うことができるのだろうか?
子供は、寝ているか、ばんやりしている。落書きに熱中している者もいる。
音楽教員だけの、時間つぶしの一人芝居だ。
怖いことは、それを知ってて、そのままですませようという教員の魂胆だ。こんなのを、力のない教員という。
しかも、クラスの一人も歌ってないのに、「よく歌ったね」はないだろう。
これはもう、完全に子供の状況を無視している。
歌も発声練習も音階練習も、音合わせもなんにもない。
「教科書23ページを開いてください。はい歌いましょう」 これでは指導にならない。
前任者がノイローゼで入院中なので、臨時教員とのことではあるが、だったら、よりいっそうがんばるべきだろう。
前任がノイローゼになるほど、ひどいクラスだから、私は私流にやりますよ、それが許されますよ、と言う甘い考えでは、どのみち、どこの学校に行っても、通用しないだろう。自分の授業力を高める良いチャンスなのに、最初から諦めている。

この学校で見た授業のワーストワンであった。

数学の授業。
宿題の答え合わせくらい、子供に事前にやらせておいたらどうだろう。答え合わせが、そのまま授業の内容となっている。
お決まりの、気の遠くなるほど低レベルの配布プリント。みんな、大欠伸をしている。

国語の授業。
授業で教員がしゃべりすぎだ。まるで沈黙が怖いかのように、間断なくしゃべり続けている。子どもの知性を鍛えるどころではない。あれでは、雑音だ。いたずらな繰り返しや、大声の連発は、聞く人の頭をすり抜ける。
子供が、読まない書かない話さないから(そのくせ、我が儘勝手な私語は、一人で三人分話す)、教員がしゃべり続けるわけだ。
無理矢理手を挙げさせて、子供が一人でも手を挙げれば、まるで餌に飛びつくダボハゼのように、「はい、何々君」と、喜色満面である。
それでも手が上がらなければ、ついには指名する。猫なで声で哀願して、かろうじて、子供にぼそっと、何か言わせる。教科書に書いてある内容を、そのまま確認しただけなのに、それを子供が面倒くさそうにつぶやくと、それでよしとする。教員は大喜びで、生徒を誉めまくる。

見ていて馬鹿らしくなる。これは生徒の人間性への冒涜だ。あきれるほどに甘やかし、レベルを下げ、一問一答のお答えごっこでは、子供の方がやりきれない。

一般的に、教員は、「子供の発言」を大げさに重大視しすぎる。子供は、元来おしゃべりな存在だ。話すときは狂ったように話すことを、あなたも、よく知っているだろう。だから、むしろ書かせるべきなのだ。

子供の私語が多くなると、教員が負けじとばかり、大声でしゃべり続ける、この悪い連鎖ははやく断ち切るべきだ。むしろ沈黙せよ。

社会科の授業。
義務教育では、一番問題のある教科である。
社会科は、教材が何でも有りのお気楽なので、授業のための準備がいらない。あっても時間が短くてすむ。簡単に言えば、授業そのものが、たいしたことはない。 
英数国理に比べて、教員次第で内容を自由に構成できる教科の筆頭である。だが、それだけに、社会科教員は、よほど迫力ある授業をしないといけない。教えやすい教科だけに、教員が甘えやすい。
教員に、暇ができる教科なので、「暇人のさばる」の例で、社会科教員は校内で幅を効かせやすい。しかも、授業では、歴史、憲法、国際情勢等、政治的な話題に、多少は関わることが多く、左翼的思考を子どもに刷り込む工作員の役割をする可能性もある。よほど注意してかからないと、危険である。
子供も、なんだか漠然としている教科なので、よく分からないなりに、取っつきやすい。
単純な知識の羅列と、教員の体験談や自慢話に、ご満悦になる傾向がある。その結果、知性の鍛錬よりも、時間つぶし、あるいは骨休めとなる。まあ、それも必要と言えば必要だが。

中学の授業では、教員が、授業をともかくも授業らしくしようとすることに全力を向けてしまって、学習内容を知的に教えようとする余裕がない。気の毒と言えば気の毒である。
もっとも、教員はがんばってるのだから、それでいいじゃないか、と言う人もいる。
しかし「がんばったからオーライ」ですませることができるのなら、世の中すべて「楽園」である。
ずっと昔、「自分を褒めてやりたい」なんて、幼稚な芸人運動選手の流行言葉があったが、現実は、そんなに褒められたものではない。
むしろ叱らなければならないのである。

 

大学は今でもレジャーランド。顔と身体が、就職のヒミツ。毎日通う高校。

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大学は、レジャーランドと化した。こう言われたのは、もう半世紀近く前のことである。

今ではどうか。

多くの学生や大学教員にとって、やはりレジャー施設であることには変わりはないのではないか。
中学高校と不自然なまでに、勉強と称する「暗記と条件反射」の練習をしてきたのは、この目的のためである。大学遊戯施設に入場したい。医学部等の終身雇用職制に滑り込みたい。

しかし、言いたいのは、そんなことではない。
義務教育期の小学校中学校はともかくとして、高等学校は毎日通うべき場所であるかどうか、である。

遠路はるばる、電車等を乗り継いで、通ってくる生徒諸君を見て、つくづく涙を禁じえない。
一体全体、君たちは何のためにこの学校に来ているのだろうか。高い月謝を出してまで、または自転車等を使用して交通事故の危険にさらされてまで、学校に来る理由があるのだろうか。


年頃の女子男子が、ごろごろ家におられても困る。家人は、鬱陶しくてやりきれない。朝から夕方まで学校でもどこでも、行ってくれた方が、精神衛生上、周りが楽である。

しかし、学校とは、毎日通うだけの成果のある場所かどうかを、冷静に考えると、費用対効果の甚だしい落差に愕然とするのである。


今や、学業は、すべからく就職のためにある。
教養のためとか、学問そのものの楽しみのためなんて、時代が違うのだろう。
就職を目的とするならば、高校や大学に通うなんて、無駄以外の何物でもない。
どのように無駄なのかと言えば、すべてが無駄なのだ。

例えば、
今、某大学の男子卒業生が大手の銀行に就職するには、第一に顔である。次には体格である。愛想のいい人好きのする物腰である。
今、某大学の女子卒業生が、商社に就職するには、第一に顔である。次には体格である。そして、、どうもこれ以上書くにはあまりに憚られる。

大卒資格とは、一つの飾りだが、その飾りは、あまりに虚しい。
高校なり大学なりの入試をパスしてきたということ以外に、本当の自信のよりどころになるものを持ってはいない。

むしろ自分の顔(美容形成を含むべきや否や?)や、持って生まれた身体つきや、その物腰こそが、結局、企業によっては、最も重要かつ戦力になる。
偏差値の高い大学を目指し、そこに入って遊びほうけて、やがて就職ごっこで汗をかくわけなのだが、結局は、持って生まれた資質のようなもので企業の子分になって、働くようになるのである。


土砂降りの雨の日に、カッパ姿で、自転車通学する高校生諸君に問う。毎日毎日、遠くから、学校に来るのは、一体全体何のためなのだろう。

教員と生徒、新学期は出だしが大切。自己開示は難しいぞ。

 

 

 

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子供にとって、新学期は、最初の一週間が大切である。
というのも、子供たちは互いを値踏みする。特に学業成績で値踏みする。
いい男いい女で価値を判断するのは、三流以下の学校で、あれはドラマの見過ぎである。

もちろん、外見だけが取り柄であるかのような子供も、いるにはいるが、ライバルが多いので、大変である。
平成生まれと、それ以前の昭和生まれとは外見が違う。これは大げさでもなく、顔がいい、姿格好がいい。稲垣足穂流に言えば、以前は石炭の中に、ダイヤがあったが、今では、おしなべて白砂である、とか云々。つまり平均が上がっている。化粧も上手だ。

さて、学期の初めは授業でも積極的に理解を示し、運動社交と友人の輪を広げた方がいい。これは子供本人にとって難しいようだが、そうでもない。

ここから、子供向けというより、教員向けの話となる。

子供が、最初の一週間に、自分の自分であるところのものを、学級で、出しやすいかどうかは、担任教員次第である。
教員がまず、自分から自己開示する必要がある。ありていにいえば、ぶっちゃけハチャメチャ自己露出がなければ駄目である。
その瞬間から、学級は開かれる。担任教員からして、そうなんだから、子供が逆らえようはずがない。

とまあ、書くと簡単だが、果たして、教員である君に、それができるのかどうか。
難しいと思うだろう。できないと思うだろう。地道に、悩みながら、半年かけて、学級を作るしかないと考えるだろう。
その間に、他の教員は、はるかに先を駆け抜けていくかもしれない。

こんな話がある。
二十代の教員が、中学2年生の担任になった。本人は意欲満々、熱中先生、GTO気取りである。ホームルームの時間に、自慢のギターを持ち出して、子供らの前で、歌を歌う。 一緒に歌おうなんて、叫ぶ。

さあ、どうなるか。
ご想像通りである。
一日目、二日目まではまあいい。三日目からは、無視される。「いいカッコシテ、恥ずいんだよ」などと子供から評される。
その教員は一挙に落ち込んだ。ノイローゼになった。

この程度の、子供の反応で、落ち込むようなら、最初から、無駄なパフォーマンスは止した方がいい。

子どもを圧倒するには、教員には圧倒的な生命力がいる。それは大声を出すことや有形無形の威圧ではない。教員自身の自信と教養と体験である。

難しいだろう。無理かもしれないと思うだろう。

左様、君には無理かもしれない。いやきっと無理だろう。
さあ、どうするのか。どうすればいい。
その気持ちが、新学期を迎える子供の持つ気持ちでもある。子供を知るとは、そういうことだ。

 

 

戦々恐々の始業式。「当たりの担任」を選ぶことができるかどうか。

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子供が、担任教員から一番影響を受けやすい時期は、小学校の高学年である。次に中学校、小学校低学年、高校、大学と続く。
大学や大学院の担当教員に感化を受けたというのは、そう言った方が保身につながるからで、実際は、無関係に等しい。

さて、4月には小学校高学年の子供と親にとって、最も恐ろしい時期である。
担任教員の発表があるのである。
めったにないことだが、あたりの教員に当たれば、それは「大当たり」で、子供の人生が変化する可能性がある。

中学校では、教科制なので、担任は、いくつかの教科担当のうちの一人だから、大したことはないが、朝と下校時のホームルームがある。このとき、担任教員の影響を受けてしまうので、やっぱり、中学校でも担任教員の当たり外れはある。

小学校高学年となると、目も当てられない現状となる。
「外れ」が怖いのではない。外れ教員を怖がっていたら、外れが圧倒的に多いのだから、そもそも学校教育が成り立たない。
当たりの教員の子供たちがあまりに得をして、そうでない子供との、格差が広がることが怖いのである。その怖さを親が感じ、子供が感じ、教員間でも感じてしまうことがあるからである。

これは保護者間の確執を生むのみならず、子供の間にも、微妙な優越、損失、劣等などの感情が生み出されることがある。

不平等はこの世の常である。みんなが同じ匙を銜えて生まれたわけがない。
就職や人事その他あれこれで、大人社会では運不運、不平等、不公平は、日常のことである。しかし、子供にとって、学校の担任決定は、自分たちが関与しないところで、自分の運命を他者により勝手に左右されてしまう最初の試練と言えるだろう。

どちらにしても、気分の良いものではない。

新学期の出発で、すでに不条理を嘆かなければならないくらいなら、せめて、担任は、子供本人が、くじ引きで決めることにしたらどうだろう。これなら、新入学生であれ、進級生であれ、外れを引いたとしても、少しは納得できるのではないか。

学習指導要領は文科省の宣伝ビラ。アクティブラーニングだと。日本語で言え、日本語で。

 

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次の指導要領改定案、今回のキャッチフレーズは、アクティブラーニングである。笑うしかない。

お暇な文科省が、恒例の学習指導要領の改定ごっこである。他にやることがないのだろうか。
教育は人類の知識遺産、我が国の文化伝統を、次代に受け継ぐことである。
小手先の変更で、どうにかなるものではない。

改定指導要領の「目玉」が、アクティブラーニング。日本語で言え、日本語で。

何様じゃあるまいし、教員に一体何をやらせたいのか。今の教員連中のほとんどが、今以上(または今以下)いったい何ができるのか。少しは頭を冷やしてからモノを言え。

文科省の職員も、本音では、ほぼ10年ごとの指導要領の改定が、下らないことを知ってはいる。知ってはいるいるけれども、給料相応に、仕事しているふりをしなければ立場がない。性根が、自分の立場だけを考えて生きてきた職員どもである。
まっとうな神経の持ち主なら、気付くはずだが、果たして、落ちこぼれ官僚予備軍の文科省職員には、気付く感性すら欠落しているのか。いずれにせよ、金のためである。くどいようだが、働いているふりをしなければならない。ご苦労である。


人材は一朝一夕に育つものではない。
人材育成の基本は、古典学習以外にはない。母国の言語と歴史以外にはない。人は言葉で思考する。頭脳とは言葉のことだ。歴史も、思想も、言葉である。
だからといって、古語の語尾変化をすべて覚えろ、というのではない。日本の歴史を読め、古典を読め、と言っているのだ。
古典を読むことによってのみ、わざとらしく急に流行りだした「AI時代」云々にも、対応できる。その嘘を見抜くことのできる源がある。

文科省に言っておく。
軽薄な「思考力判断力を重視した学力の質的転換を図る」なんて、三流学校の経営目標ではあるまいに、寝言は寝て言え。

聖徳太子を厩戸王と呼ばせてグローバル化に推進。さすがの文科省である。

 

 

 

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文科省が、次の学習指導要領で聖徳太子の名前を変更するという暴挙に出た。
国民の多くから反対されそうな情報を得るや否や、さっそく手のひら返して、変更を取りやめた。相変わらずの小心な役人根性である。

一体全体、学習指導要領なる代物は、文科省の存在意義を宣伝するためのプロパガンダパンフレットである。かつて役に立ったことが一度もない。常に事態を悪い方へ向けていく怪しげな努力の証である。
この一点をもってしても、文科省が、不要である以上に害悪であり国民の敵であることの証左であろう。

とここまで言うと、呆れられだろうが、ここまで言わなければならない。
それには理由がある。

聖徳太子を「厩戸王」に変更しようとした、その心根である。そこには、朝鮮やシナの意向が臭う。その意向に沿って動こうとする、文科省関係者の哀しく卑しい現実がある。
文科省は、日本国民の敵であり、無益どころか害悪の巣であること、NHKとよく似ている。

意見公募(パブリックコメントだそうな)で、味方してくれるだろうと考えた教員(教員といえば左巻きだから、聖徳太子を苦々しく思っているはず、と文科省は予想した)にまで、変更を反対されたものだから、諦めたのである。

聖徳太子は、ともかくも、日本の人物像として、その中心にある。その名称を、かくも下品な呼び名に変えようとするなんて、日本国民にあらざるものである。
文科省担当者が、シナ人か朝鮮人またはロシアかアメリかその他の手先であるかはつまびらかではないが、ともかくも、日本人ではないだろう。


歴史は、心である。神話である。
それは信じようとするから信じることができるものなので、歴史を試験管の実験と同一にしてはならない。
歴史は文学である。
文学は嘘八百ばかりではない。その逆に、真実ばかりでないことも、当然である。
しかし、文学には、日本国民の国民たる所以が表現されている。

だからこそ、文科省聖徳太子を憎むのである。グローバル化という、日本を日本でなくすための政策には、国民意識は、不都合だからである。聖徳太子以下歴史の事々を、下卑たものにしておけば、やがて、日本は日本でなくなるだろう。
それを文科省は、画策するのである。