ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

戦々恐々の始業式。「当たりの担任」を選ぶことができるかどうか。

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子供が、担任教員から一番影響を受けやすい時期は、小学校の高学年である。次に中学校、小学校低学年、高校、大学と続く。
大学や大学院の担当教員に感化を受けたというのは、そう言った方が保身につながるからで、実際は、無関係に等しい。

さて、4月には小学校高学年の子供と親にとって、最も恐ろしい時期である。
担任教員の発表があるのである。
めったにないことだが、あたりの教員に当たれば、それは「大当たり」で、子供の人生が変化する可能性がある。

中学校では、教科制なので、担任は、いくつかの教科担当のうちの一人だから、大したことはないが、朝と下校時のホームルームがある。このとき、担任教員の影響を受けてしまうので、やっぱり、中学校でも担任教員の当たり外れはある。

小学校高学年となると、目も当てられない現状となる。
「外れ」が怖いのではない。外れ教員を怖がっていたら、外れが圧倒的に多いのだから、そもそも学校教育が成り立たない。
当たりの教員の子供たちがあまりに得をして、そうでない子供との、格差が広がることが怖いのである。その怖さを親が感じ、子供が感じ、教員間でも感じてしまうことがあるからである。

これは保護者間の確執を生むのみならず、子供の間にも、微妙な優越、損失、劣等などの感情が生み出されることがある。

不平等はこの世の常である。みんなが同じ匙を銜えて生まれたわけがない。
就職や人事その他あれこれで、大人社会では運不運、不平等、不公平は、日常のことである。しかし、子供にとって、学校の担任決定は、自分たちが関与しないところで、自分の運命を他者により勝手に左右されてしまう最初の試練と言えるだろう。

どちらにしても、気分の良いものではない。

新学期の出発で、すでに不条理を嘆かなければならないくらいなら、せめて、担任は、子供本人が、くじ引きで決めることにしたらどうだろう。これなら、新入学生であれ、進級生であれ、外れを引いたとしても、少しは納得できるのではないか。