ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

学生サービスが悪すぎる都内の「有名」私立大。教職員には最高、学生には最低の待遇。

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日本の各大学は、少子化に伴う学生数の減少と、大学そのものの価値とが問われるようになり、今後ますます経営が厳しくなる。
数少ない消費者であり、購買層である新入学生の獲得のために、競争しなければならない。

地方大学の多くは、いち早く経営を見直して、消費者サービスに努めている。
その一方で、首都圏の大学は、あまりに知名度に頼って安逸を貪り、学生の便宜をはからず、能無し教員どもを高給で雇って、お手盛りの快楽に酔っている。

天誅を下してやりたいところだが、その力がないので、せめて、ぼそぼそとつぶやくのである。


東京にはうんざりするほど多くの大学があるが、官立の東京大、芸大、工業大学を除くと、他の私立学校は、環境がよろしくない。
東京芸大の音楽の授業は、学生は半ば雑談に終始し、眠たげな様子だったが、それでものんびりした雰囲気があって、涼とした。しかしこれらは、例外に属する。


私立大学はサービスが悪すぎる。
例をあげると、おそらく日本で一番古い歴史を持つ○○大学である。知名度をいいことに、教職員には最高の待遇をする一方で、学生には最低とすら言える待遇を強いている。
学生食堂、図書館、学生の勉強コーナー、何一つ満足できるものはない。特にひどいのが、図書館で、あれはもう大学のそれではない、中学校並みの規模及び管理体制である。
ここまで学生へのサービスを忘れ、だらだらと学校経営を続けている大学は珍しいのではなかろうか。日本の権威と深い関係にあった学校であることを、利点としたのだろうが、それだけで、やっていけるほど、大学商売は能天気なものではなかろう。

新宿のマンモス学校は、以前書いたので、三田の学校の方を言う。
創立以来の商売堅気なので、学生へのサービスが、利に聡過ぎる。金持ち相手の方針なので、あれでは学生の活力が失われるのではないか。卒業生のネットワークも、いつかは力が尽きる。
もっと、学生のための「授業」に力を入れることはもちろん、どうすれば、「勉強していただく」か、「おかしくならないように」(校風になじまず、中途で新宿に代わる者が少なからずいる)するか、努力を要する。商売に強いのならば、今ここにいるお客様のために、本気で汗を出すがいい。


さて、言いたかったのは、こんなことではない。
「地方から東京に子弟を出させるのは、得策かどうか」についてだが、また書く。

アクティブ・ラーニングは、文科省と大学やマスコミの猿知恵。売ったもの勝ち、書店もニンマリ。

 

 

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新入学、新年度、新学期を目前にして、案の定というべきだろうか。
書店では、アクティブラーニングごっこで、大忙しである。
ついでに、騎士団長何とかで、これまた、売ったもの勝ちの、大宣伝である。

どうにもこうにも、書店の先行きは暗い。
暗くて構わない。本などが、どんどん売れるわけがない。どんどん売れるほど、良書や読むべき本なんて、あるわけがない。
書籍は、古書があれば十分で、後は雑誌の類であろう。
それを生意気に、次から次へと、数か月(または数日、あるいは数時間?)もたてば、ごみにしか過ぎなくなるものを、新刊本として出しまくる。
一体全体、これほどの無駄無理があるだろうか。

かつて、ゴミ本は、真に読むべき名著を、読者の目から覆い隠すためにある、と書いたが、今また思うのである。

さて、アクティブラーニングは、文科省と教育系大学と売文稼業者どもとが、結託してでっち上げた、下らない思い付きである。
しかし、哀しいのは、まんまと騙されてしまう教員や教員予備軍や「教育」熱心な親たちである。
アクティブ(悪底部)ラーニングは、いったいなんだとばかりに、駄本に飛びつく。ばかばかしさに見てはおられないというよりは、浅ましくも痛々しいのである。

内容浅薄で、まったくの言葉替え遊びであり、学校での毎日の授業とは何の関係もない。あれは、白墨をチョークと、机をデスクと呼ぶことと、同じまたはそれ以下の、言い方を変えて喜ぶ日本人特有の心理である。

アクティブラーニングの中身を見れば、なんのことはない。普通のことである。普通のことをことさらに強調するから、普通でなくなる。普通のことが、「何か優れたこと」をやっているかのようにごまかされる。いっそう現場を悪くする。
では、これまでの授業はどう呼べばいいのだろう。

ゆとり教育、総合的な学習の時間、生きる力、等々、安っぽい造語をでっちあげては、文科省と、その取り巻きのマスコミ連中は大宣伝をしてきたが、今回の「アクティブラーニング」は、うんざりするとともに、恐れ入った。
猿知恵にはキリがないものと見える。

家庭内暴力、不登校、ひきこもり。原因は何か、解決策はあるのか。

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家庭内暴力とひきこもりと不登校は、一セットである。
その原因は、子供が学校で不具合を生じているからである。

どのような不具合かといえば、当該本人の居場所が教室の中にない。学校にいても、自分が、常に疎外され無視され、全然楽しくないのである。
そこで、家庭に逃げ込むのだが、逃げ込んだだけでは、自分の表出欲が満足されない。だから、肉親に当たり散らすのである。自傷行為もあり得る。
まことに困ったことで、言うも哀れ語るも哀れなわけだが、それを救える人は、担任の教員である。
救う方法は、簡単ではあるが、誰にでもできる芸当ではない。
ここに方法を書かない。書きたくない。

多くの教員にできる芸ではない。だから、ある種の担任教員は本当にありがたい存在で、足を向けて眠るような相手ではない。


さて、私は大学教員を特に憎むものであるが、理由はこれまで散々述べてきた。私の雑文を根気強く読んだ人には、もうお分かりだろう。

小中高校の教員は大学教員とは違う。
高校は中途半端だが、それでも教員である。小中学校の先生方は、まぎれもなく教員である。
小中学校教員は、その資質能力に大小高低種々あるが、概ね、善人が多く、多くは凡庸だが、稀に「当たり」に当たることもある。
凡庸でも、子供の勉強を邪魔しなければ、まだ可としよう。

子供の社会は、大人から見れば、些細なことでも重大である。人間関係がすべてであること、大人社会と変わらない。
職業人が職場内の人間関係で自殺すること、日常茶飯事であるのはご存じだろう。
子供だけが例外なわけがない。


本来、人は引篭る存在ではない。他人との交わり人の中で、生きるべきものである。
なのに、学校が嫌だという。行きたくない、誰にも会いたくない、ほっといてくれ、と言う。
これは、心の叫びの裏返しで、学校に行きたい、多くの人と交わりたい、楽しく語りたい、学びたい、そこで自分を発揮したい、という本音の、裏返しにすぎない。

さあ、そこで担任の先生の出番である。
ひきこもりや不登校は、担任教員によって、99パーセント解決できる。できない1パーセントは、子供に重度の精神病が発覚した時である。しかし、重度であるならば、そもそも引きこもり現象等と違和感が見えるはずで、病院と専門医の出番である。

つまりは、ひきこもりは、担任教員によって完治できる。
その方法は、書かない。書きたくない。
ただ、君が現役教員ならば、この事実を知っておくがいい。不登校、引きこもり、家庭内暴力の真の原因は、教室内の人間関係である。それ以外には、ない。

校内マラソン大会で高校生死亡。体調無視で長距離を走らせるなんて、過失致死または故意殺ではないのか。

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ほとんどの高校では、この寒空に、「校内マラソン大会」を実施して、無理やり子供を走らせる。
校内でする場合もあるが、多くは近隣の大規模公園や公共の競技施設等で行う。
2月はそのピークで、日時と場所によっては、数校が重なることもある。

日本の高校教員は、子供に長距離を走らせるのが、お好きである。身の程知らずの教員根性で、子供に精神鍛錬をするつもりだろうか。

普段、満足に運動もしていない子供らに、とってつけたように、長時間、走らせるなんて、拷問であろう。あるいは過失致傷、場合によって過失致死、もっと露骨に言えば「故意ある殺人」にならないか。

どういう加減なのか、テレビや新聞のニュースでは、話題にすることが少ないが、毎年、高校のマラソン行事では、高校生が死んでいるはずである。

身近に見聞するところでも、すでに二人死んでいる。両方とも、裁判に至らなかった。色々と手を打ったのだろう。

詳細は避けるが、あれは教員の過失である、と知人は言う。
子供の顔色の悪さ、当日の体調管理が不十分なことを、教員は気付くべきである。

学校行事は、進学校になればなるほど、子供にとって、休むことがためらわれる。まじめな子ほど、熱心に参加する。連夜の勉強で自分の体力が落ちていることがわからない。少々の咳や熱でも、無理して出る。途中で棄権もしない。

マラソン当日は、教員が、コースのいくつかのポイントに立つ。子供を見守る、という名目だが、子供の体調なんか気にしていない。「もっと、がんばれ」「遅れてるぞー」とかなんとか、ほとんどが叱咤激励である。急に足がつって転倒でもしないかぎり、子供から棄権を申し出ることのできない雰囲気である。

ほとんどの子供は、無理をする。生命の限界まで無理をする。
そこは若くて元気な盛りである。どうやらこうやら(怪我もせず、または死なずに)、ゴールにたどり着くのである。
若い子供の持つ体力と、その運の良さに甘えてしまって、教員団は、子供へ無理強いをさせていることが、わからない、わかりたくない。
だから、子供が死ぬ。

本当に、死ぬのである。
多くは、心臓麻痺で、その場で死ぬ。あるいは救急車で運ばれて搬送先で死ぬ。

この事実を、世の親は、よく覚悟しておくことだ。
学校行事は時として、殺人マシンに変わることもある。誰も助けてはくれない。子供本人の自覚と勇気とで、回避するしかない。
親も、真剣に、学校行事の中身を監視しておくことだ。わが子の体調その他の変化にも、注意が肝要である。

しかし、しかしである。これも運命と考えることのできる親もいるだろう。何が起こるかわからないのが人生である。
高校生の国語教科書で、すでに子供は知っているはずだろう。
「理由もわからず押し付けられたものを大人しく受け取って、理由もわからず生きて行くのが、我々生きもののさだめだ」(山月記)。
もっとも、押し付けられた結果が、若死にではたまらない。

高校教員の授業は、お粗末すぎる。研究授業のレベルに達していない。ぱるるの授業批評14

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授業批評は、高校では、難しい。どこが難しいかと言えば、授業が、そもそも批評するレベルに達していない。

 

高校では、厳密には公開研究授業はない。たまにあるのは、あれは教科ごとの授業研である。同じ教科の教員と、校長あたりが数人来て、お茶をにごす。区でも都でも、たまにやるあれは、もっとひどく、飲み友達くらいしか集まらない。。

 

授業というよりは、プリントゴッコであり、下準備の披露であり、教員の小演説である。子供は教員の下心を見抜いて、静かにしている。

それでも授業研をするのは、一部の進学校である。問題校では、そもそもする気がない。

 

教科ごとの授業だから、体育の教員は数学の授業に文句をつけることができない。批評できない。する気もない。第一、見に来ない。

気の毒なのは、校長や研究部長と称する連中で、わからないくせに何か言わなければ格好がつかない。しどろもどろでつぶやいて、他から失笑される。

 

高校では、研究授業をする教員はえらい、とされる。批判されない。「お疲れさまでした、本当に力がおありで、感激しました。参考にさせていただきます」と、おべんちゃらの嵐である。

 

一例をあげれば、と思ったが、挙げるまでもない。馬鹿馬鹿しくなった。

 

教材の解釈や展開の問題以前に、授業になっていない。

声の調子、顔つき、子供への対応の角度、板書の位置、全体の雰囲気の把握、教室の風の通り具合、光量等々に始まって、刻一刻と変わる子供の気持ちの変化や知的興奮の度合いを注視し、制御してこそ、授業と言えるのである。

無い知恵絞って、数日かけてプリントを作った。「さあ、やりましょう」では、研究授業にならないのである。

 

 

 

 

 

 

 

おしゃべりよりも、式で説明させろ。ノートの徹底と、教員の「待つ余裕」。ぱるるの授業批評13

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授業批評13

 乗法の交換法則の理解  3つの数値で。

教科書と同じ問題を、そのまま板書したことは、子供を集中させる方策としてはある。しかし、冗長ではある。

 

問題文から「わかっていること、わからないこと」を確認する。

問題文にある内容が、つまりはわかっていることだ。

3本ずつのたば・三たば・4人に配る。これが条件。

全部で何本必要か。これが求めるべき内容。

二つの式をひとつの式にして書く。

「ノートに書く」これが非常に重要だ。書かなければ定着しない。

 

子供から出てきた式を言う・・書いた式を・・ノートに書いたままをそのまま言う。これが大切だ。その場の思い付きで答えさせない。

 

子供の発表の後、他の子供から、すぐに「違います」とか「違う式がある」とかの発言があったけれども、もう少し余裕がほしい(少しでも間がほしい)。

 

子供「それ習つてない」。 

習ってないけどできるでしょう、と切り返せ。習ったことしかできないのなら、永遠にできない。習うときは誰でも初見だからね。

 

「式の意味は違う」・・のか??  乗法の交換法則との関係。

たとえば4×6、8×3等が出てきたら、問題文にない数が、なぜあるのかを問うといい。

式は、問題文中の条件を使って立てるものだ。

未知の数は、すべて既知の数を使って導き出す。その過程を示すのが式である。式を見るだけで、論理の流れが、他者に理解できるように。

 

子供が板書した式に対して、

指導者「先生は、ぱっと見たら、わからないな・・どうすれば、わかるかね?」 指導者が言わなくても、子供から出てきたはず。

指導者自身の説明のための時間稼ぎだったのなら、それはそれで仕方がないが、黙って待つ余裕がほしい。

 

指導者「意味に合ってない式じゃないとだめです」・・・意味不明で子供が混乱する。余計なことは言わないほうがいい。

 

数式のオーダーについて。「4:3:2」 。

「3:2:4」、8人くらいいた。オーダーが崩れている。

交換法則は、オーダーを変えても値が同じという意味。

であれば、オーダーにこだわらなくてもよいと思いがちだが、あの例では、オーダー通りにするほうが、わかりやすいし、セオリーでもある。

 

出てきた数字・・式の中の数と問題文との対応を確認したのはいい。指導者「出ていない6を説明して」・・と子供に問いかけたのも良。で、説明を聞いて、指導者「納得した」、まではいいけれど、説明は式に書かせたうえで、やらせたほうが吉。

 

指導者「4人ずつ、つまり04人分」、、、でしょうかね? 「ずつ」と「分」は違う。

 

概念の説明が優先して、実際の練習が少なくなることもあるので、教科書を中心に教えるほうが、結局は、わかりやすくなる。

2=8×3=24の間違いを、等号の意味を確認した上で、教えたのも良。

 

本時の目標に対して、子供の理解の達成度が、1時間丸々使った割には弱い。

導入部で、もっと早く教科書を使って理解させた方が、よい。

指導者の説明が多いと、聞くほうが疲れる。聞き疲れで、ぼんやりしている子供が4人いたぞ。

 

子供には、説明よりも実際の練習時間を増やして、計算する中で理解させる。行動で学ばせる。つまり実際の作業だ。

 

子供への諸注意のとき、抑えた静かな声でいうことは良。

 

かけざんでは「順序を変えても同じ」「0の扱い」等を、しっかり定着させたい。

 

作業内容が、子供全員に徹底していない場面あり。

2×3×3=6×3=18  2×3×3=2×9=18

はっきりとノートで示すことが大切。

 

教科のノートは、理路整然と、あとから誰が見ても理解できるくらいに、まとめさせること。これは、本学級すべての子供にとって可能。2か月間くらい、注意して指導すればできる。