ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

教職は魅力的な「お仕事」。世界遺産の前で、子供を叱る。

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コロナ騒動の以前のお話。

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所用で安芸の宮島に行った時のこと。

朱塗りの鳥居が海にぽっかり浮かんだ景色を漫然と眺めていると、後ろのほうが騒がしい。

それもそのはずである。

一般観光客のみならず、高校生中学生小学生の修学旅行だの遠足だので、子供たちと引率の大人で、ごった返している。

その中で、ひときわ目に付いたのが、小学生30人くらいの集団で、男の教員が顔を真っ赤にして怒っている。

子供たちの態度が「たるんでいて」「修学旅行という勉強に来ているのに」「学習意欲がたりんぞ」とか何とか、言っている。
馬鹿馬鹿しくて聞いていることができない。
反省をしているような振りをして、我慢強く耐えている子供が哀れである。

ことほどさように、小学生の頃から、理不尽であっても、ひたすら我慢を重ねて、他人のご高説を承って、仰せの通りにいたします、という態度を強いられる。

自分の意見を主張しないで、無批判に同調するのである。従うのである。


さて、怒鳴ることは、教員の仕事ではない。場に応じた適切な指導ができるからこそ、職業としての「先生」なのである。
教育現場は、一種の危ない綱渡りでもあるので、常に心すべきことである。

たとえば、相手が同僚であれ、保護者であれ、児童生徒学生であれ、言うべきことは、軋轢が起こることが予想されても、言わなければならない。
反発を恐れて、意見しなかったり、無難に済ませようとしているばかりでは、ついには明らかな間違いまで、知らんぷりをするようになる。

言ってしまって、反論が出れば、聞けばいいのである。
反論が間違っていれば、無視するか、またはその間違いを指摘する。聞くべき点があれば聞いてやり、改善または変更すべき点があれば、そうすればいい。

問題は、後の面倒を嫌がって、最初から避けようとする態度である。これでは現場の変化に対応できない。

教員に限らず、日々の業務を無難に行うことは、社会人としての願いでもあり、常識ともいえようが、いずれ、様々な体験が、とりわけ失敗体験が「自己利益」になる時が来るだろうし、そうあってほしい。
失敗したのは、失敗するだけのことを、実際に行ったのである。その経験は、すでに財産だろう。または「汚点」だろう。


企業なり官庁なり、どのような組織であっても、目立ないで、そこそこに過ごすことが、良い評価となることが多かった。今でも、案外、そうである。
しかし何事も人並みか人並み以下にこなして、それで役職が上がったからといって、どれほどの満足感が得られることだろう。
待遇、収入面、名誉欲等は多少満足させられる。これらが、人生において重要なことであるかどうかは、人によって違う。
これしきのこと、と思える人とそうでない人とが、いる。
だから、あえて、ことを構えないというのも、ひとつの見識である。
その逆に、断固として、初志を貫徹する人もいるだろう。その結果、損をすることもあるだろうし、決定的な失敗に至ることもある。これは価値観の問題で、難しい。

話がそれた。先の団体は、神社本殿の方に、引きずられていったようである。