ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

授業のやり方はNHKに学べ。NHK大好き、夏休み子ども電話相談室の素敵な言葉遣い。

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教員の指導力を高める、とかで、各地で色々な「取り組み」がされているようだ。
授業が上手と「評価」されている中学校教員の、実際の授業の一部を、N某局で放送していた。

「子どもの注意をひきつける」のだそうで、まずセサミストリートの真似事をする。チョークを使わずに、磁石つきのカードをべたべた貼る。
挙句の果てには、発言があった生徒に、ワッペンまで与える始末である(よく発言できました・・という意味らしい)。

仮にも相手は中学生である。馬鹿にするのも、ほどがある。
もっとも、生徒も生徒で、どんよりとごった眼で、学習意欲があるようにも見えない。座って、誘導されているだけである。

教員が下手な踊りをおもしろおかしく踊って、一瞬でも踊りが受けると、へへっと笑う、それがすなわち、生徒の興味を引き出し、指導力のある授業だ、ということであるらしい。

どうにもこうにも、日本の教育は、憂慮する事態に陥っている。教育関係者が気づいていないのなら、鈍感というより想像力の欠如である。
授業は、テレビゲーム感覚で、お客さんに楽しんで見ていただくべきものになった。

ついでながら、N某局が教育関連の番組に熱心なのは、視聴者離れを防ぐための策略でもある。
視聴者は人の子の親が多い。親ならば、みんな子供の教育に関心を強く持つのは当然である。
かつて、NHKは、百マス計算とやらで、陰山某を、まんまと売り出した「実績」がある。
「自社」のメディアの操作によって、流行を簡単に作り出すことができて、味をしめたのである。
親や子供に、「教育に強いNHK」と、強く印象付けた方が今後とも有利である。

不遜で愚かなことを平気でするのも、NHKの製作スタッフのほとんどが戦後生まれの、似非(エセ)民主主義のどんぶり教育を、たっぷり浴びて育った連中ばかりだからだ。彼らは、教育とは、「この程度のもの」と考えている節がある。

教育を、「低劣で、品がなく、お遊びばかりで、場当たりで、忍耐のない、短絡的で、自分の頭で考えないように、外国に依存し、外国羨望のままであるように」しておきたい。NHKの隠れた「ねらい」は、こんなところにあるのだろう。

高齢者がますます増える。この世代は、前も今もこれからも、NHKのよい御客さんであったし、あるし、あり続ける。N某は、だから、あの体たらくなのである。詳しくは皆さんご存じだろう。

ところで、NHKのラジオ番組に、夏休み恒例の「夏休み子ども科学電話相談室」なるものがある。これに出てくる子どもの言葉遣いがひどい。
ごくまれにきちんとした子どもがいるが、多くは、大人に「もの」を尋ねる言い方ではない。甘たれ声を出して、だらだらと話す。
返事は「うん」だの「そう」だのだ。
ハイと言えハイと。

局側のスタッフもスタッフだ。いい歳した回答者や司会の女性の、子どもへの言葉遣いがなってない。まるで相手が、一人前の大人のような対応をする。
NHKにしてみれば、子供は「質問をしてくださったお客様」だから、気を遣っているのかどうか知らないが、余計なことだ。
視聴者がうんざりする。少しは常識的な言い方をしろ。

なぜ、こんなことを言うかと言えば、この番組は、けっこう多くの人が聞いている。大人だけならよいが、子供も聞いている。
だから、子供が、あんな言葉遣いでかまわない、と間違って覚えてしまうかもしれない。これは困る。

私のように、NHKを贔屓にしない、むしろ嫌っている連中はごくわずかだろう。多くの日本人は、NHK大好き人間である。NHKの放送内容を、頭から信じ込んで、疑うことをしない。
これではNHK局の思う壺である。いざとなれば、大衆操作に走るだろう。危険である。
放送は、疑ってかかれ。視聴者は厳しく放送内容を吟味せよ。あるいは無視せよ。
NHKと称する利権集団は怪しさ満載である。

 

 

親孝行な夏休みの過ごし方。汗をふきふき、自宅で勉強しろ。ゴミ本を捨てて、古典を読め。

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また、夏休みがやってきた。

「夏休み」ではあるが、子どもは忙しい。
忙しいことは、悪いことではない。
夏休みはとことん遊べ、と言えば、恰好はいいが、あれは嘘である。
多くの子供にとっては、ほったらかしにされるだけのことである。
本音では、子供は暇をもてあましている。

欧米の親は、夏休みには、我が子をサマーキャンプなどに入れて、やっかい払いをする。
あんなのに始終、家にいられてはかなわない、というわけである。


夏休みは、猛暑で勉強できないなんてことはない。第一、多くの家庭では冷房がある。冷房がないところでも、赤道下ほど暑くはない。
ぶらぶらせずに勉強せよ。

勉強以上のことができる連中は、これは金持ちの子供の特権である。カナダ・ニュージーランド・オーストラリア等への短期留学、海外旅行、学習塾の夏期講座、各種運動の合宿などなどの名目で、遊び呆ける。
子供は忙しくて可哀そう、などと言うが、ならば忙しい子供は幸せ者である。あるいは穀潰しである。すべてに半端のない費用がかかるのだ。
日本の多くの家庭は、それほど金持ちではない。まれに金を潤沢に持っている家庭も、使い方が下手である。根性がいつまでも貧乏なのである。

「夏休みくらい、ふだんできないことをしろ」、「本を読め」、「自然の中で遊べ」等という。
安上がりだからである。

時間を有効に潰すにも、金次第なのである。

子供達よ、自分の部屋でせっせと勉強しろ。それが一番の親孝行な「夏休み」だ。
さまなくば、静かに本を読むがいい。


近頃の子供は、真っ当な本を読まない。
学校図書館にあるのは、漫画ばかりである。

今風の創作童話(童話を創作するとは笑止である。どんな才能の持ち主だろう。童話は、すでに昔からある。それで十分だ)や、流行作家が小中学生向きにでっち上げた低俗話の類である。こんなものを読んでいては、ろくなことにならない。二流三流以下ばかりを集めた図書室で、本好きになるわけがない。

原因は、教員の見識不足である。良書への鑑識眼がない。学校出入りの業者の言うがままに堕本を買いまくっている。

国語教科書も似たようなことで、お粗末至極である。

かつて多くの小学校の図書室には、筑摩書房の世界文学体系が全巻揃えで置いてあった。さもなくば、緑色の河出の世界文学全集があった。ルビもない漢字は低学年の子供には、読めないが、それでもかまわない。自分で調べればいい。または、前後の文脈で想像すればいい。
甘い菓子ばかりを与えていると、子どもは、新しい味に挑戦したり、捜し求めたりしなくなる。その結果、栄養不足になる。下手をすれば死ぬ。

教育は大人の責任である。子どもを駄目にするのは、ここでもやはり、大人である。 

 

 

力のない教員ばかり集まる学校。校長になりたがる連中ばかり。

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指導力の不足する教員ばかりが、集まる学校がある。

教育事務所の職員の中で、人事担当は、「管理指導主事」とかの大層な職名で呼ばれている。
担当は、人事配置で、学校への関心が低かったり、世代交代のために教育に意識が薄れてきている地域の学校に、神経や学力や指導力の弱い教員を集める。

教員に限らず、当該仕事に要求される技量未満の従業員は、どの組織にも、一定数いる。それが当たり前である。
企業は人員配置に苦労しているが、学校は、それを、一箇所に集める。
すなわち、「お気楽な学校」に集める。
中学校では、露骨だから、そんな学校は、学力の低下や生徒の規律の乱れによって、すぐにピンとくる。

企業でも、似たようなことがあるのだろうか。
景気のいいときは、窓際族などといって、仕事を与えない代わりに給料はきちんとくれてやった。会社は、連中を無駄に生かしていたが、今はどうなのだろう。
即刻、馘首するのだろうか。


学校は、教員の質で決まる。力ある教員が、たとえ数人でもいれば、その学校は一流である(滅多にない)。
力のない教員ばかり集まれば、その学校は、三流以下の学校である。
自分の回りの学校を見渡して、捜してみるといいだろう。

しかし、問題は、教員全体というよりは、ほとんどは学校の名目上の管理者である校長にある。
教育現場も御多分に漏れず、波風立てない人物が校長になる。または、ともかくヒラメでなりたくてたまらない者がなる。これがルールである。
校長に、ようやくなったはいいが、横文字を縦に直したような間抜けなマニュアルを、教育事務所から押し頂いて、それを金科玉条とばかりにありがたがる。
教員として迫力ある指導経験もなく、現場の荒波を避けて生きてきた。問題対応の経験が不十分で、読書もせず、「もの」を知らない素人である。
ちょっとした親の言説にもまどわされ、びくびくばたばたと落ち着かない。
だからマニュアルを見てこっそり安心する。
学校経営に、自信がない。あるとしたら、虚勢または鈍感の故である。

これは、企業と比べるとかなり奇妙なことである。
社長が、会社の経営に「自信がない」というようなことはあまり聞かない。失敗もすれば、順調なこともあるだろうが、社長職は、苦労して、その揚げ句、ようやくなれただけではない。実績を積んでいる。

教員社会は一から十まで、対面を重んじる。ようやく「上がり」「落としどころ」としての校長職を手に入れた。
あとは目出度く退職するだけである。そのあとは、「つて」を頼って、公共下請け機関、教育委員会嘱託、学校関連小企業等で小銭稼ぎをする者も多い。「校長円満退職」の印が「身分証」である。

近頃のように教員の権威が落ちいてる時勢には、頭の悪い者、教養のない者は、学校長には向かない。傷口が大きくなる。


企業と違って、営業や経営の実績結果は、学校にはない。
学校の管理や経営は、些事である。
現場が大切であって、管理者は必ずしも重要ではない。必要でないと言ってすらいいくらいである。

現場とは何か。
教員と児童生徒である。それがすべてであって、その他は、付け足しである。

ところが、肝心の現場教員は、どういうわけか、管理職になりたがる。給料が少し増えるのと見栄とのためで、人間の素直な気持ちとしては理解できなくもないが、教育活動そのものからみると、邪道である。

というのも、いわゆる管理職になってしまうと、昨日まで授業が下手で、冷や汗をかいていたことはきれいに忘れて、鼻高々で自慢である。現場の教員よりも、一歩高いところに立ったような気になってしまう。

以前は、管理職は、教員集団からの攻撃があって、それなりに謙虚さを持ち合わせていた。しかし、公務員への風当たりが強くなり、その結果、教員自身が世間にポチのようになった。しっぽを振って、わんわんである。
その反作用として、管理職側は妙に強くなった。もう天下を取ったような気持ちになっている。
一挙に行政万歳、管理職万歳になってしまったのである。

だからといって、自然消滅しかかっている教員組合が、奇跡的に盛り返して、管理側と敵対せよ、と言いたいのではない。

今のように行政が強すぎると、現場教員の立場が相対的に弱くなり、結果的に、実際の教育活動がお粗末になってしまうことを心配しているのである。

繰り返しになるが、学校の中心は現場の教員である。
校長教頭でもなければ、もちろん教育事務所でばたついている指導主事諸君でもない。

にもかかわらず、不景気風に煽られて、学校教育現場には、管理する側にとってまことに都合の良い風が吹いている。
世間の風が変わった、という、殺し文句が使える。
この傾向は、まことに危険である。

 

 

ミシュランの評価が嬉しくてたまらない。外国崇拝もいい加減にしないか。

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日本人がやたら気にするPISAとは、OECDがやっている「国際学習到達度調査」のことをいう。
到達度とか到達度評価、絶対評価なんて、現役の教員なら、馴染の言葉である。
評価ごっこは、実に下らない「時間潰し」である。しかし、安上がりに子供を選別したり、教員をとことん使役するには、便利な方法である。
PISAはもちろん、新自由主義の先兵である。
教育を損得商売の場にする魂胆である。実際、教育は金を生み出す不滅の木である。

人はランク分けが大好きで、特に日本人は、白人から認めてもらいたくてしょうがない。近頃は、朝鮮人やシナ人にまで、褒めてもらおうと、必死である。

文科省以下マスコミ人も、外国の怪しげな機関に、評価されることが嬉しくてたまらない。少しばかり上がったの下がったので、一喜一憂する。
下らないことである。

白人種からみれば、有色人種は目下の存在どころか、人間とみなされていない。白人至上主義の信者は、当の白人ばかりではない。肝心の日本人が、白人様が大好きなのである。
OECDのPISAなんぞ、無視でいい。経済人の商売勘定で他国の教育まで評価するんじゃない。

PISAの隠れた目的は、もちろん、日本人の奴隷化である。白人の言うとおりに労働し、目先の問題を手っ取り早く確実にこなす労働力がほしいだけである。

ついでに言えば、フランスのタイヤ業者が、こともあろうに、日本の料理屋にランク付けをするとは何事か。
三つ星だの四つ星だの、馬鹿も休み休み言え。
お前たちの意見など、聞いていない。
舌は自分自身が敏感かつ高尚だ。日本人の繊細な味利きは、外人ごときの及ぶところではない。

しかし、日本人は、どうしても外国礼賛の癖が抜けない。
あれもこれも、日本人自身の歴史、つまり国史を軽んじているからである。
ついでに言えば、歴史とはつまりは国史のことで、「世界史」とかいう教科は不快である。
歴史とは、自分の国家の歴史に決まっている。
他の国の歴史を知りたいのならば、アメリカ史インド史ブラジル史などがあるわけで、概括的な世界史などというものがあるわけがない。あるとしたら、それは何年何月にどこそこで何があったという、年表にすぎない。

しかしそうはいっても、大勢には逆らえない。
日本の歴史が等閑にされていることが、問題なのだ。
祖国を自覚することは、歴史を知ることである。
国史が大切にされていないようでは、国家の明日は、明るくない。亡国の一途とまではいわないが、その可能性はある。

義務教育期の社会の教科書があまりにひどい。教科書会社は、どうしてこんな堕本を平気で作るのか。
教科書会社は営利企業だから、結局は、客が買ってくれそうなものを作る。
客は、国民でもなければ、児童生徒学生でも、もちろんない。採択権を持つ都道府県の教育委員会である。

とすると、教育委員会は亡国の輩の巣であろうか。そうであると言いたいところだが、ことはそう簡単ではない。
実は、彼らも気の小さい小官吏である。

ここまで言うと、おわかりだろう。
陰に日向に、多くの思惑がうごめいている。私利私欲、諸外国の工作の類まで入り乱れて、結局、落ち着くところに落ち着く。

その挙げ句が、この有様である。
誰が、陰で笑っているのであろうか。
不気味である。

学校給食を、即時中止とする。学校はデイケアではない。あいさつ運動の無駄。

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誰も言わないことだが、だからといって、このままで良いわけがない。

学校給食は即時中止すべし。税金の無駄遣いも甚だしい。教育上も、好ましくないことが多すぎる。
大量生産で、味わいのない、まずいものを、毎日食べさせて、子どもの味覚がおかしくなってしまった。

コンビニにとっては都合が良いだろう。学校給食で舌が麻痺しているものだから、大人になっても、コンビニ弁当をまずいと感じなくなる。
学校給食とコンビニとは、裏で手を結んでいるのか、と疑う。

あなたは、母親だろう(または父親だろう)。せめて我が子の昼飯ぐらい作ってやれ。我が子に、三度の飯を食わせるのは、親として最低限の義務ではないのか。

学校給食の弊害は、それだけでも何時間もの話題になる。
たとえば、給食調理員への給与を考えたことがあるか。夏冬春の学校休業中にも、一度も給食がないにもかかわらず、給与はちゃんと払われている。

学校給食は、子どもの残滓に目くじらたてる。あまり残すと、具合が悪い。
そこで、「残さず全部食べなさい」と、口癖のように言うが、あれは体罰ではないのか。
暑い日に、油だらけの料理で、食後、気分の悪くなる子もいる。
何よりも食中毒を恐れるから、野菜でもなんでもかんでも油だらけである。
カロリーは十分だと言うが、当たり前だ。肥満の子が、ほれ、これほど増えてきた。

学校はデイケア・サービスではない。救護施設でもない。

学校が、昼飯を子どもに食べさせるという余計なお世話をしたばっかりに(戦後のどさくさには、その必要もあった)、学校の性格が変わってしまった。学問、文化伝統をたたき込む場所であったはずなのに、「みんないっしょに、なんでも面倒みます」というお子様ランチになってしまったのだ。

今からでも遅くはない。学校給食を廃止せよ。
廃止は、財政上の理由から、とかなんとか、選挙民への説明は、考えろ。議員なら、お得意だろう。

だらしのない親は、学校給食大賛成だろうが、そんなことだから、子供も親も、あんな始末になる。

昼飯は、各家庭の領分である。今時、飢え死にする子はいない。
もしもいたら、行政が、待ってましたとばかりに、助けてやるがいい。

あれもこれも、学校のお節介である。または親への甘やかし、または能無し議員どもの票稼ぎの手管である。


ところで、ついでに言えば、多くの小学校で、「あいさつ運動」なるものをする。

子どもが元気よく挨拶するのか、と思っていると、そうではない。教員や親がする。

登校途中の児童に向かって、教員や親が深々と頭を下げて「おはようございまーす」だって。
話が逆だろう。

子供も、少しは気が咎めるのか、反射的に「おはよう」なんて小声であらぬ方向を向いてつぶやく。

その子が中学生になったら、小声どころか、知らんぷりである。中には唾を吐きかける子供もいる。

学校教育とはかくの如し。
基本の躾や常識は、家庭でするものだ。
家庭のかわりに、学校が躾をしろというのか。冗談じゃあない。
コンビニの前で、へらへらとたむろしている、ご立派な息子や娘は、あなたの子供だろう。法的にも生理的にも(たぶん)実の子なんだろう。
だったら、あなたが責任を持って、躾けてやれ。

学校給食だの登校指導だのあいさつ運動だの、およそ非常識なことを公立学校に、当然のようにさせているから、親子が同時に、つけあがるのである。学校は、学校の敷地内、校舎内が、守備範囲である。それ以上でも以下でもない。
一歩、学校を出れば、今、流行の「自己責任」である。子供も親も教員も、一瞬にして他人となる。

実際は、そうはいかない。
日本人は同胞である、赤子である、神の子である。天孫降臨である。とまではいくら何でも言わないが、一度でも縁あれば、何かと面倒を見てやるのが人情である。いつまでも、どこでも、べたべたする。それが悪いとは言わない。日本人は、やはり、心根が、甘たれの兄弟である。

だからこそ、互いの距離感をもつことと、学校の守備範囲を教員が守ることとが、大切なのである。

男子高校生の女装、ミスコンと勉強。 平成の子供への期待。

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先日、高校文化祭について、男子校での女装、ミスコンについて書いたのだが、「女装」「男の娘」という単語には、なにかしら、そわそわするものがあるようだ。

高校生活の種々の出来事の中で、文化祭の中の一場面を記憶しているのが、不思議でもあるが、生徒や観客の感情に、直接訴えるものがあったのだろう。ある種の感動のごときものが生じたのか。
教育活動には、プラトンが説いたように、微妙なものが存在するようである。

ミス高高コンテスト 決勝【第61回翠巒祭】

youtu.be群馬県高崎高校は、元総理の中曽根康弘氏や福田氏の母校である。
自由な雰囲気で、子供たちの自信と自我の主張とが見えて、なかなか好ましい。教員の顔が表に全然見えないことも、よろしい。伝統的な公立男子校の利点が出ている。

ちなみに、多くの男子校では、この種のイベントに、生徒がグループで出場することが多いが、高崎高では、個人がほとんどである。自分一人で出て、自分自身で責任を取る。そうあるべきである。

應援部 校歌披露【第61回翠巒祭】

youtu.beさて、お話変わって。
先日、高校3年生の自己推薦文を大量に読む機会があった。
どうもいただけない。仮にも、そこそこ名の知れた私立○○高である。中高一環教育の6年もの間、一体何をしていたんだと、驚くよりも、あきれた。無論、生徒にではない。この学校の教員達に、である。

憤慨していたら、某大学図書館の入口の紹介コーナーに、大学生のための文章作法だの、レポートの書き方だの、日本語技法だのの、基礎的な「作文のやりかた」の類の本が、山ほど並べてある。
数冊見てみると、ひどい内容である。句読点や段落の意味、敬語の初歩の解説、稚拙な例文と下手な添削例まで、載せてある。
日本の子供の文章力は(したがって、この類の本の「著者」や出版社編集部のレベルも)、ここまで落ちたのである。


思い返すに、小学生や中学生に、平家物語徒然草方丈記を暗唱させ、その各々の文体を真似させて作文を書かせた実践記録を、数十年前に読んだことがある。当時と比べて、今では、夢のようである。

教育も文化も、発展させることは難しい。それどころか、現状を維持するだけでも大変に難しい。少しでも油断があると、たちまちに停滞し、落下する。
日本の国語は、急な坂道を転がり落ちている真っ最中である。もう二度と、後戻りできないだろう。
先は、闇かもしれない。

日本の闇は、諸外国の望むところである。しかし、日本人も望んでいるのではなかろうか。その証拠が、文科省以下、国語を軽んじて国語を亡きものにしようとする態度及び行為である。
グローバル化は、日本の国家意識の消滅、つまりは無国籍化、地球人である。よく働く奴隷である。
奴隷である日本国民の、ご主人様はいったい誰だろう。
あなたも知っていることだろうから、ここに書くまでもない。

しかし、しかしながらである。
平成の子供たちが、日本の芯を背負って育っていくならば、やはり、太陽は上るのである。
恐々謹言。