ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

力のない教員ばかり集まる学校。校長になりたがる連中ばかり。

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指導力の不足する教員ばかりが、集まる学校がある。

教育事務所の職員の中で、人事担当は、「管理指導主事」とかの大層な職名で呼ばれている。
担当は、人事配置で、学校への関心が低かったり、世代交代のために教育に意識が薄れてきている地域の学校に、神経や学力や指導力の弱い教員を集める。

教員に限らず、当該仕事に要求される技量未満の従業員は、どの組織にも、一定数いる。それが当たり前である。
企業は人員配置に苦労しているが、学校は、それを、一箇所に集める。
すなわち、「お気楽な学校」に集める。
中学校では、露骨だから、そんな学校は、学力の低下や生徒の規律の乱れによって、すぐにピンとくる。

企業でも、似たようなことがあるのだろうか。
景気のいいときは、窓際族などといって、仕事を与えない代わりに給料はきちんとくれてやった。会社は、連中を無駄に生かしていたが、今はどうなのだろう。
即刻、馘首するのだろうか。


学校は、教員の質で決まる。力ある教員が、たとえ数人でもいれば、その学校は一流である(滅多にない)。
力のない教員ばかり集まれば、その学校は、三流以下の学校である。
自分の回りの学校を見渡して、捜してみるといいだろう。

しかし、問題は、教員全体というよりは、ほとんどは学校の名目上の管理者である校長にある。
教育現場も御多分に漏れず、波風立てない人物が校長になる。または、ともかくヒラメでなりたくてたまらない者がなる。これがルールである。
校長に、ようやくなったはいいが、横文字を縦に直したような間抜けなマニュアルを、教育事務所から押し頂いて、それを金科玉条とばかりにありがたがる。
教員として迫力ある指導経験もなく、現場の荒波を避けて生きてきた。問題対応の経験が不十分で、読書もせず、「もの」を知らない素人である。
ちょっとした親の言説にもまどわされ、びくびくばたばたと落ち着かない。
だからマニュアルを見てこっそり安心する。
学校経営に、自信がない。あるとしたら、虚勢または鈍感の故である。

これは、企業と比べるとかなり奇妙なことである。
社長が、会社の経営に「自信がない」というようなことはあまり聞かない。失敗もすれば、順調なこともあるだろうが、社長職は、苦労して、その揚げ句、ようやくなれただけではない。実績を積んでいる。

教員社会は一から十まで、対面を重んじる。ようやく「上がり」「落としどころ」としての校長職を手に入れた。
あとは目出度く退職するだけである。そのあとは、「つて」を頼って、公共下請け機関、教育委員会嘱託、学校関連小企業等で小銭稼ぎをする者も多い。「校長円満退職」の印が「身分証」である。

近頃のように教員の権威が落ちいてる時勢には、頭の悪い者、教養のない者は、学校長には向かない。傷口が大きくなる。


企業と違って、営業や経営の実績結果は、学校にはない。
学校の管理や経営は、些事である。
現場が大切であって、管理者は必ずしも重要ではない。必要でないと言ってすらいいくらいである。

現場とは何か。
教員と児童生徒である。それがすべてであって、その他は、付け足しである。

ところが、肝心の現場教員は、どういうわけか、管理職になりたがる。給料が少し増えるのと見栄とのためで、人間の素直な気持ちとしては理解できなくもないが、教育活動そのものからみると、邪道である。

というのも、いわゆる管理職になってしまうと、昨日まで授業が下手で、冷や汗をかいていたことはきれいに忘れて、鼻高々で自慢である。現場の教員よりも、一歩高いところに立ったような気になってしまう。

以前は、管理職は、教員集団からの攻撃があって、それなりに謙虚さを持ち合わせていた。しかし、公務員への風当たりが強くなり、その結果、教員自身が世間にポチのようになった。しっぽを振って、わんわんである。
その反作用として、管理職側は妙に強くなった。もう天下を取ったような気持ちになっている。
一挙に行政万歳、管理職万歳になってしまったのである。

だからといって、自然消滅しかかっている教員組合が、奇跡的に盛り返して、管理側と敵対せよ、と言いたいのではない。

今のように行政が強すぎると、現場教員の立場が相対的に弱くなり、結果的に、実際の教育活動がお粗末になってしまうことを心配しているのである。

繰り返しになるが、学校の中心は現場の教員である。
校長教頭でもなければ、もちろん教育事務所でばたついている指導主事諸君でもない。

にもかかわらず、不景気風に煽られて、学校教育現場には、管理する側にとってまことに都合の良い風が吹いている。
世間の風が変わった、という、殺し文句が使える。
この傾向は、まことに危険である。

 

 

ミシュランの評価が嬉しくてたまらない。外国崇拝もいい加減にしないか。

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日本人がやたら気にするPISAとは、OECDがやっている「国際学習到達度調査」のことをいう。
到達度とか到達度評価、絶対評価なんて、現役の教員なら、馴染の言葉である。
評価ごっこは、実に下らない「時間潰し」である。しかし、安上がりに子供を選別したり、教員をとことん使役するには、便利な方法である。
PISAはもちろん、新自由主義の先兵である。
教育を損得商売の場にする魂胆である。実際、教育は金を生み出す不滅の木である。

人はランク分けが大好きで、特に日本人は、白人から認めてもらいたくてしょうがない。近頃は、朝鮮人やシナ人にまで、褒めてもらおうと、必死である。

文科省以下マスコミ人も、外国の怪しげな機関に、評価されることが嬉しくてたまらない。少しばかり上がったの下がったので、一喜一憂する。
下らないことである。

白人種からみれば、有色人種は目下の存在どころか、人間とみなされていない。白人至上主義の信者は、当の白人ばかりではない。肝心の日本人が、白人様が大好きなのである。
OECDのPISAなんぞ、無視でいい。経済人の商売勘定で他国の教育まで評価するんじゃない。

PISAの隠れた目的は、もちろん、日本人の奴隷化である。白人の言うとおりに労働し、目先の問題を手っ取り早く確実にこなす労働力がほしいだけである。

ついでに言えば、フランスのタイヤ業者が、こともあろうに、日本の料理屋にランク付けをするとは何事か。
三つ星だの四つ星だの、馬鹿も休み休み言え。
お前たちの意見など、聞いていない。
舌は自分自身が敏感かつ高尚だ。日本人の繊細な味利きは、外人ごときの及ぶところではない。

しかし、日本人は、どうしても外国礼賛の癖が抜けない。
あれもこれも、日本人自身の歴史、つまり国史を軽んじているからである。
ついでに言えば、歴史とはつまりは国史のことで、「世界史」とかいう教科は不快である。
歴史とは、自分の国家の歴史に決まっている。
他の国の歴史を知りたいのならば、アメリカ史インド史ブラジル史などがあるわけで、概括的な世界史などというものがあるわけがない。あるとしたら、それは何年何月にどこそこで何があったという、年表にすぎない。

しかしそうはいっても、大勢には逆らえない。
日本の歴史が等閑にされていることが、問題なのだ。
祖国を自覚することは、歴史を知ることである。
国史が大切にされていないようでは、国家の明日は、明るくない。亡国の一途とまではいわないが、その可能性はある。

義務教育期の社会の教科書があまりにひどい。教科書会社は、どうしてこんな堕本を平気で作るのか。
教科書会社は営利企業だから、結局は、客が買ってくれそうなものを作る。
客は、国民でもなければ、児童生徒学生でも、もちろんない。採択権を持つ都道府県の教育委員会である。

とすると、教育委員会は亡国の輩の巣であろうか。そうであると言いたいところだが、ことはそう簡単ではない。
実は、彼らも気の小さい小官吏である。

ここまで言うと、おわかりだろう。
陰に日向に、多くの思惑がうごめいている。私利私欲、諸外国の工作の類まで入り乱れて、結局、落ち着くところに落ち着く。

その挙げ句が、この有様である。
誰が、陰で笑っているのであろうか。
不気味である。

学校給食を、即時中止とする。学校はデイケアではない。あいさつ運動の無駄。

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誰も言わないことだが、だからといって、このままで良いわけがない。

学校給食は即時中止すべし。税金の無駄遣いも甚だしい。教育上も、好ましくないことが多すぎる。
大量生産で、味わいのない、まずいものを、毎日食べさせて、子どもの味覚がおかしくなってしまった。

コンビニにとっては都合が良いだろう。学校給食で舌が麻痺しているものだから、大人になっても、コンビニ弁当をまずいと感じなくなる。
学校給食とコンビニとは、裏で手を結んでいるのか、と疑う。

あなたは、母親だろう(または父親だろう)。せめて我が子の昼飯ぐらい作ってやれ。我が子に、三度の飯を食わせるのは、親として最低限の義務ではないのか。

学校給食の弊害は、それだけでも何時間もの話題になる。
たとえば、給食調理員への給与を考えたことがあるか。夏冬春の学校休業中にも、一度も給食がないにもかかわらず、給与はちゃんと払われている。

学校給食は、子どもの残滓に目くじらたてる。あまり残すと、具合が悪い。
そこで、「残さず全部食べなさい」と、口癖のように言うが、あれは体罰ではないのか。
暑い日に、油だらけの料理で、食後、気分の悪くなる子もいる。
何よりも食中毒を恐れるから、野菜でもなんでもかんでも油だらけである。
カロリーは十分だと言うが、当たり前だ。肥満の子が、ほれ、これほど増えてきた。

学校はデイケア・サービスではない。救護施設でもない。

学校が、昼飯を子どもに食べさせるという余計なお世話をしたばっかりに(戦後のどさくさには、その必要もあった)、学校の性格が変わってしまった。学問、文化伝統をたたき込む場所であったはずなのに、「みんないっしょに、なんでも面倒みます」というお子様ランチになってしまったのだ。

今からでも遅くはない。学校給食を廃止せよ。
廃止は、財政上の理由から、とかなんとか、選挙民への説明は、考えろ。議員なら、お得意だろう。

だらしのない親は、学校給食大賛成だろうが、そんなことだから、子供も親も、あんな始末になる。

昼飯は、各家庭の領分である。今時、飢え死にする子はいない。
もしもいたら、行政が、待ってましたとばかりに、助けてやるがいい。

あれもこれも、学校のお節介である。または親への甘やかし、または能無し議員どもの票稼ぎの手管である。


ところで、ついでに言えば、多くの小学校で、「あいさつ運動」なるものをする。

子どもが元気よく挨拶するのか、と思っていると、そうではない。教員や親がする。

登校途中の児童に向かって、教員や親が深々と頭を下げて「おはようございまーす」だって。
話が逆だろう。

子供も、少しは気が咎めるのか、反射的に「おはよう」なんて小声であらぬ方向を向いてつぶやく。

その子が中学生になったら、小声どころか、知らんぷりである。中には唾を吐きかける子供もいる。

学校教育とはかくの如し。
基本の躾や常識は、家庭でするものだ。
家庭のかわりに、学校が躾をしろというのか。冗談じゃあない。
コンビニの前で、へらへらとたむろしている、ご立派な息子や娘は、あなたの子供だろう。法的にも生理的にも(たぶん)実の子なんだろう。
だったら、あなたが責任を持って、躾けてやれ。

学校給食だの登校指導だのあいさつ運動だの、およそ非常識なことを公立学校に、当然のようにさせているから、親子が同時に、つけあがるのである。学校は、学校の敷地内、校舎内が、守備範囲である。それ以上でも以下でもない。
一歩、学校を出れば、今、流行の「自己責任」である。子供も親も教員も、一瞬にして他人となる。

実際は、そうはいかない。
日本人は同胞である、赤子である、神の子である。天孫降臨である。とまではいくら何でも言わないが、一度でも縁あれば、何かと面倒を見てやるのが人情である。いつまでも、どこでも、べたべたする。それが悪いとは言わない。日本人は、やはり、心根が、甘たれの兄弟である。

だからこそ、互いの距離感をもつことと、学校の守備範囲を教員が守ることとが、大切なのである。

男子高校生の女装、ミスコンと勉強。 平成の子供への期待。

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先日、高校文化祭について、男子校での女装、ミスコンについて書いたのだが、「女装」「男の娘」という単語には、なにかしら、そわそわするものがあるようだ。

高校生活の種々の出来事の中で、文化祭の中の一場面を記憶しているのが、不思議でもあるが、生徒や観客の感情に、直接訴えるものがあったのだろう。ある種の感動のごときものが生じたのか。
教育活動には、プラトンが説いたように、微妙なものが存在するようである。

ミス高高コンテスト 決勝【第61回翠巒祭】

youtu.be群馬県高崎高校は、元総理の中曽根康弘氏や福田氏の母校である。
自由な雰囲気で、子供たちの自信と自我の主張とが見えて、なかなか好ましい。教員の顔が表に全然見えないことも、よろしい。伝統的な公立男子校の利点が出ている。

ちなみに、多くの男子校では、この種のイベントに、生徒がグループで出場することが多いが、高崎高では、個人がほとんどである。自分一人で出て、自分自身で責任を取る。そうあるべきである。

應援部 校歌披露【第61回翠巒祭】

youtu.beさて、お話変わって。
先日、高校3年生の自己推薦文を大量に読む機会があった。
どうもいただけない。仮にも、そこそこ名の知れた私立○○高である。中高一環教育の6年もの間、一体何をしていたんだと、驚くよりも、あきれた。無論、生徒にではない。この学校の教員達に、である。

憤慨していたら、某大学図書館の入口の紹介コーナーに、大学生のための文章作法だの、レポートの書き方だの、日本語技法だのの、基礎的な「作文のやりかた」の類の本が、山ほど並べてある。
数冊見てみると、ひどい内容である。句読点や段落の意味、敬語の初歩の解説、稚拙な例文と下手な添削例まで、載せてある。
日本の子供の文章力は(したがって、この類の本の「著者」や出版社編集部のレベルも)、ここまで落ちたのである。


思い返すに、小学生や中学生に、平家物語徒然草方丈記を暗唱させ、その各々の文体を真似させて作文を書かせた実践記録を、数十年前に読んだことがある。当時と比べて、今では、夢のようである。

教育も文化も、発展させることは難しい。それどころか、現状を維持するだけでも大変に難しい。少しでも油断があると、たちまちに停滞し、落下する。
日本の国語は、急な坂道を転がり落ちている真っ最中である。もう二度と、後戻りできないだろう。
先は、闇かもしれない。

日本の闇は、諸外国の望むところである。しかし、日本人も望んでいるのではなかろうか。その証拠が、文科省以下、国語を軽んじて国語を亡きものにしようとする態度及び行為である。
グローバル化は、日本の国家意識の消滅、つまりは無国籍化、地球人である。よく働く奴隷である。
奴隷である日本国民の、ご主人様はいったい誰だろう。
あなたも知っていることだろうから、ここに書くまでもない。

しかし、しかしながらである。
平成の子供たちが、日本の芯を背負って育っていくならば、やはり、太陽は上るのである。
恐々謹言。

 

女装男子・男の娘のミスコンに見る高校文化祭のレベル

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私立学校は翌年の入学希望者獲得の宣伝もかねて、文化祭を多く、秋に行う。
一方、国公立高校は、大学入試の追い込みの関係から、ほとんど6月に文化祭を行う。

高校の文化祭は、公立私立を問わず、この数年どんどんお粗末になり、レベルが落ちてきている。
いったい、この行事のどこを探せば、普段の学業の成果、知的な活動の発表の場なんだろうかと、疑問である。

生徒の作品、演技等、ほとんどが付け焼きで、正しい意味での児戯に等しい。以前は、もう少しは、見ごたえ聞きごたえのある作品や発表等があった。
もはや、高校文化祭は一種の怠惰な行事、教員の息抜きまたは地域の娯楽となったのだろうか。


その中で、唯一、年々盛んになり、行う学校が増えてきているのが、男子校のミスコンである。
女装の男子を陳列して、話したり歌わせたりして、観客がグランプリを選ぶという趣向である。

ある種の慣習として、行事の中で、女装少年を見物することは、男子高校では昔からあった。
それがインターネットの普及に比例して、増大した。
男子高校の文化祭で、女装コンテストは当然のように行われている。男女共学校ですら、企画に入れることもある。

さて、文化祭の趣旨からすれば、これはエンタメの範疇で、本筋からずれるのではあるが、しかし、文化祭で一番人気があり、話題にもなるのが、女装コンテストなのだから、仕方がない。
観客も楽しみにしているようで、会場は異様に盛り上がっているのである。

ちなみに、学校偏差値と男子ミスコンのレベルは、多くの場合、一致する。
いくら女装とはいえ、元がいわゆる美少年の方が、当然ながら似合う。そして、十代の男子は、勉強の訓練の結果による知性の輝きが加わることによって、「美し」かったりするので、成績と外見とが不思議と比例してしまうのである。

そんなわけだから、地域有数の進学男子校のミスコンが、見るに堪えるものとなっている。
ミスコンに出ようと意気込む子供たちは、もはや、冗談を通り越して、本気である。
高3で出る子もいれば、いきなり高1でデビューすると言ってきかない子もいる。毎年出て、3年生でグランプリをとって満足げな子もいる。

周到な準備で、服装、化粧、声の出し方、所作動作、練習にも鬼気迫るものがある。いったい、どうするつもりなんだと問いたいくらいである。
これも文化であろうか。装うことは文化でもある。

あっさりと、文化祭という名を止めて、女装祭、男の娘祭りと称したらどうか。

冗談はさておき、高校文化祭は多様であるからこそ、価値がある。普段の学校では、できないことを、時間と場所とを限定して、存分に表出させて、思い出をつくるのである。企画構成力や発表力の向上となり、学校内外の大人たちと交わることは一種の社会勉強の場となる。

ならば、多くの企画の中に女装コンテストがあっても問題ないだろう。それが文化祭の中心になってしまったり、結果として観客動員の目玉になっていたとしても、目くじらを立ててはいけないのである。
笑って、楽しめばいいのである。

「ゆとり教育万歳」が、今度は「世界トップレベルの学力を目指す」と言い出す。変わり身の速さが自慢。

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今は昔、例によって文科省が下手をして、全国の小中学生の学力を下げてしまった。
内外からの批判に、文科省役人たちは真っ青になった。大慌てで、「世界トップレベルの学力を目指そう」などと、各県の教育長を集めて話した。

自分でやっておいて、とぼけている。

ゆとり教育」だの「生きる力」だの「総合的学習」だの、公教育を、幼稚なキャッチコピーでガタガタにしておいて、今度は、てのひらを返して、学力優先、と言い出す。
学校が学力をつける場所であることは、有史以来当然のことである。それを壊したのはいったい誰だったろう。
寺脇某とその一味は、どこで何をしているのだろう。


お話変わって、大人は、子供に勉強してくれ、なんて頼む必要はない。
しかし、頼んでいない大人は、ごく少数で、日本全国津々浦々、家庭でも学校でも、「お子様」に、勉強していただくために、平身低頭して汗だくである。
子供は、いったい何様だ。

昔は、背中に背負った袋の豆を、食べ食べ、遠い京の都まで師を訪ねて行って、半年間、教えを請うた。後の半年は郷里の田舎で農作業をして次の上京と、学問へ思いを馳せた。これが勉強だった。

子供に、頼んでまで、「教えさせていただ」く必要はない。
大人は子供に対して、親切すぎる。
小中学校、高校大学と、児童生徒学生に対して、親切というより、お節介の度が過ぎている。異常である。

たとえば、小中学校で流行っているのが、「わかりやすい授業」だ。こんな戯言を言ってると、子供自身の怠慢や我が儘にすぎないことまでもが、正当化されてしまうだろう。
授業は困難で分かりにくいものである。それが学問である。こう覚悟することが、すなわち、勉強することだ。

それにつけても、NHKは、相も変わらず、お遊戯のような素人芸を授業と称して放送し、恥じるところがない。

とはいえ、教えることに不熱心な教員や学校体制を擁護するわけではない。以上は小中学校に当てはまるが、高校の半分くらいと、大学のほとんどでは、全然、逆なのである。まったくもって、子供へのサービスが皆無である。月謝泥棒である。俸給盗人である。
この件につていは、今までも話したから、もうよす。