ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

ハリーポッターよりも江戸川乱歩を読め。古い新書は、漫画本の代わりになる。

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教養というと、なんだか高尚な感じが、少しはある。
辞書にも「単なる学殖・多識とは異なり」云々と、書いてある。
しかし、もっと手近なところで考えよう。

教養も、読書なしではその土台がない。
ならば、教養とは読書のことでもある。

かつて十数人の教育系大学院生と雑談した折、レスタースミスの『教育入門』について言及すると、院生たちから「それは何ですか?」と問われて、驚いたことがある。
生意気盛りの学生にとって、スナックみたいにお手軽な岩波新書の本である。これを教育系の院生が読んでいないなんて、あり得ないことであると思いたいが、あり得るのである。

今どきの連中は、PCやスマートフォンのインターネット、テレビや映画や音楽と、なんでもやりたい放題で結構だとは思うが、もう少しは、本を読んだら、どうだろう。
レスタースミスごときが偉いわけでは全然ないが、仮にも、昭和期に独走した天下の「岩波」の教育本である。どうせ数十分で読める漫画のような、ぺらぺらの新書である。読んでおいて損にはならない。

ところで、話は変わるが、日本人の英国好きにも困ったものである。かつて、ハリーポッターとかいうシリーズが売れたという。何のことはない、荒唐無稽な学園ものの翻訳である。映画と共謀して、金儲けの上手なバイキングである。
あれは一応活字だから、子どもが読むのを見て、親は喜ぶのだろうが、日本語の文章として、若い人が読むべき本かどうか。
どうしても読みたいのなら、英語の読み取り練習のつもりで原文で読んだらどうか。

小中学生に、鴎外漱石をすべて読め、とまでは言わないが、せめて乱歩の少年探偵団シリーズぐらい読んだらどうだ。
あれは、少なくとも立派な日本語で書いてある。だから、雰囲気までもが、ちゃんと伝わってくる。
小学生必読の本といえるだろう。乱歩の少年探偵シリーズを10歳までに読み終えた子は、一応の文章を書く力がついている。
げに有り難や、乱歩先生。

ともかくも、知的活動の源泉は、言葉である。
言葉で考えて、言葉で表現する。日本人ならば、日本語・国語が知力の土台である。
国語が基本にあって、外国語なり数学なりの能力が伸びるのであって、その逆は、あり得ない。それでもあり得るのは、天才の域になるので、論じても仕方がない。

気になるのは、国語ができる子どもの多くは、どちらかといえば、こつこつ派が少ない。彼らの多くは、他の教科を熱心に学習しない。不勉強なくせに、読書好きで屁理屈のうまい子供が多い。
これは、国語は才能によるところが多いからである。

算数・数学ができる子と、英語ができる子は、重なることが多い。
時間をかけて学習する癖がついているからで、英数とも、勉強にかけた時間と実力の向上とが、比例する。頭の良し悪しとは、関係ない。
一方、国語は上位のレベルになると、ほとんど才能がものを言う。下位の問題は、誰でもできるので、差がつかない。

たとえば、高校の授業では、国語の得点を伸ばすことがもっとも難しい。
数学や英語は、結局、努力すればなんとかなる。
国語は長い間の蓄積、読書量、遺伝形質その他が関係する。
要するに、付け焼きが通用しない。少々の時間をかけたくらいでは、成績が急変することなど、あり得ない。
しかも国語の授業は、方法として確立していない(他教科が確立しているというわけではない。だが、国語に比べると、何をどうするべきかが、明確である)。
国語科でつけるべき学力へのイメージが、教員によって違いすぎる。授業技術の上下、子供に与える知的雰囲気など、担当教員によって天と地との開きがある。
何を、どのように、どの程度まで、学習させなければならないかを明確にしなければ、効果的な授業が成り立たない。
だから、国語の教員は、よほどの実力が必要だ。

さて、日本政府は、今もこれからも、国語を軽んじて、斜陽のアメリカ語を重視する政策をとるつもりである。
これだけでも、売国奴の集まりだと思われかねない。
文科省も財界も、日本亡国の輩と非難されても、仕方がないだろう。

AKB48「願いごとの持ち腐れ」ミュージックビデオは、いかがなものか。

 

 

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昨日、偶然に、AKB48の曲、「願いごとの持ち腐れ」のミュージックビデオを見た。
この曲がいつごろから流れているかは知らない。だが、一見して、この音楽ビデオは危険だと感じた。

設定は、廃校となる公立小学校での色々であるが、そもそも、この場所や話は全て架空で、登場人物も子供を含めてすべて芸人だろうと推測する。

そうでなければいけないのである。当事者である、子供や現職の教員が、販売されるCDやDVDの宣伝をするわけにはいかない。

しかし、ミュージックビデオは、なかなかの現実感を出している。子供たちの歌う姿に涙をぬぐう親のカット、子供のメッセージを読む姿、教員たちのたたずまいなど、リアル感いっぱいで、多くの人は、これは現実かと勘違いしてしまうのではないか。
最初の場面での、鏡山小学校の閉校のあれこれを説明をする教員役の演技も、なかなかである。(現実に、浜松市立鏡山小学校は閉校したようだ)

どうも後味が悪い。


かつてAKBは「恋するフョーチュンクッキー」で、全国の自治体や会社組織を巻き込んで、ダンスの動画で話題を拡散した。
興行主の秋元氏の才は、抜きんでている。

今度は、廃校もののドキュメント風作品で、誰もが持つノスタルジックなセンチメントを売り出した。
NHK全国音楽コンクールの中学校課題曲にも決まっているという。
歌いやすく簡単な曲であるし、AKBの曲だから、中学生も抵抗なく、むしろ喜んで歌うだろう。

全国の小中学校の音楽教員が、目の色変えるだろうことは、容易に想像がつく。小学校の学級担任なんて、朝の会で毎日、子供に歌わせかねない。
学校特有の甘いロマンと、テレビやCDの宣伝とが、微妙にマッチングしてしまうのである。

しかし、しかしながらである。
大学教育を筆頭に、教育ビジネスは沸騰している。教育は、誰もが無視するこのできない巨大な集金場なのである。
以前、学校経営は、無難な商売だと書いたが、大学や高校のそれは、金まみれだから、まだいい。
義務教育期の小中学校までが、ビジネスにあからさまに、利用、活用、引用されることは、望ましくない。

AKBグループは、日本発の、世界に通用するビジネスモデルである。日本の文化、であるかもしれない。
しかし、小学校を題材に、さも現実風に、MVを作ったのは、やりすぎである。ターゲットは、むしろオブラートに隠していた方が、いいのである。

少子化大賛成である。日本は人口が多すぎる。学級定員を減らしても無駄である。

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ここを見る数少ない人は、もうお気づきだろうが、以前の記事をすべて削除した。
文章が、飛んだり跳ねたりで、分かりにくいかもしれない、と考えたからである。少し手直しして、順々に出そうと思う。


さて、

マスコミや役所らが、少子化がまるでいけないことのように喧伝するが、為にするためのポーズである。少子化は良いに決まっている。
日本の国土から言えば、日本の教育事情から言えば、少子化は良いに決まっている。

あれはいったいなんだろう。
少子化を問題視することによって、だれが得をするのか。誰にとって損なのか?

かつてチャイナの毛某主席とやらは、世界を共産化するにあたって、人海戦術をとった。
産めよ増やせよで、チャイナ人を増やして、弾丸の代わりに突撃させようとした。
それが、すぐに、人口過剰となって、一人っ子政策をとらざるを得なくなった。


一人当たりの生産性が大きくなれば、人口は、少ないほうが良い。
論ずるまでもないことである。
先進国では、子どもはそんなに増えない。むしろ、適正価格というか、適正人口まで減り続ける。自然の流れである。
各家庭が一人の子どもでいけない理由はない。全家庭が子どもを持たなければならないということも、なんだか変である。

そのくせ、一学級当たりの児童生徒数を減らすという。
減らすに及ばない。学級人数を減らしたところで、良い教育がなされる確証はない。肝心の教員が教員である。満足な指導なんて、期待してはいけない。

日本に必要なのは、むしろ人口を減らすことである。
日本の国土面積や技術力、教育程度等を考えれば、今の半分以下の5千万人でも多すぎる。3千から4千万で十分ではないか。

いずれ地球上の人類は少しずつ減るに違いない。生活や教育程度が向上すれば、子供は少なくて良い、むしろ少ない方が幸せなことくらい、誰にでもわかる。
国と国との壁もだんだんなくなるだろう。大国が小国を飲み込んで、人種の混合が進むだろう。
移民反対の掛け声も、一時の流行なだけで、本心は安い労動力を仕入れて使役したいだけである。風向きが変われば、何を言い出すか、わかったものではない。
アメリカもオーストラリアも、欧州各国も、移民を排除すれば、何も残らない国々である。時々の勝手な都合で、移民の賛否が変わるのである。
しかし、日本は、いついかなる時でも、移民を受け入れてはいけない。在日外国人を、一定期間たてば、一切拒絶してもよいくらいである。
狭い国土に人が多すぎる。


さて、くどいようだが、少子化によって誰が一番損をするのだろうか。子供が増えることによって誰が得をするのか。
行政や、マスコミという名の洗脳機関を、裏で操っている連中の影が、ちらつくのではあるまいか。

 

 

 

ぱるる、島崎遥香が面白い理由。自尊心の塊。親は、我が子に全面的な愛情を注ぐべし。

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AKBネタをもっと書いてくれと、かつての教え子からの催促である。なぜ、教育批評が「ぱるる」なのか、とも問われた。

雑文の表紙に「ぱるるの」と題したのは、身内が「明るいぱるる」だの、「ガッキーの姉妹」だのと、散々言われたので、興味を持ったのである。

郵貯もかつては「ぱ・る・る」とかの通帳を出したことがあった。今は知らない。


さて、ぱるると呼ばれている島崎遥香だが、なかなかよろしい。
どこがよいかといえば、芸人として大切な容姿容貌が水準をクリアしている。しかも、太っていない。

芸人たるもの、太ってしまっては、論外である。
顔も身体も、見た目が、粋で色っぽくなければならない。
近頃は、整形手術が、芸人のパスポートになっているようだが、作りものには無理がある。素材が、さほでないのに、外科手術で手直しを続けると、芸人のほとんどに見られるように、化け物になる。
素材が良くなければ、そもそも芸人の入口に立ってはならないのである。

AKBの管理者である秋元某は、島崎の根性が予定調和ではないところを評価した、と言っていたようだ。客に媚びないところがある。塩対応だそうである。
そうかもしれないし、それも、売るための芸かもしれない。
自分への過剰な自信があるようだが、それも、芸人にとって必要なことなのだろう。露出欲と自尊感情の塊でもあるのが、芸人だ。


話は変わるが、親は子供のすべてを信頼して、際限のない愛情を、注がなければならない。子供の自尊心を育てるためである。
自尊心の強い子供は、世界がひっくりかえっても、自分は「価値ある自分」であると信じて、揺るがない。
フロイト小林秀雄もそうである。
例に挙げた人物が唐突と思うだろうが、わかる人にはわかるだろう。


以上は、前にも書いたが、少し付け足した。

 

 

AKB48は日本の文化である。AKBグループは、個人の競争を肯定する、理想の学校である。

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AKB48を、私は憎からず思っている。
むしろ、日本のオリジナルな文化のひとつとすら、思っている。
かつて、次の文章を書いた。


AKB48という「アイドルグループ」がある。歌って踊っておしゃべりする中学生から高校生くらいの年齢の集団である。
こんなことを書くのは他でもない。少し因縁がある。

以前、秋葉原を歩いていると、大型量販店ドン・キホーテの前に列がある。列の最後尾の学生らしき人に、何かあるのか、問うと、AKBのチケットを買うと答えた。それは何だというと、AKB48という女子アイドルグループだと言う。

店内で買い物をして店の外に出ると、チケット売場の前に人はいない。今は8階の劇場の入り口がチケット売り場だが、当時は、ドンキの入り口の横に小さな売店を設けてあったような気がする。あるいは記憶違いかもしれない。
ともかく、売り場の男性に尋ねたのである。
「チケットまだありますか」
「ありますよ」
で、買ってみた。

後はくだくだしいから省くが、当日でも簡単に買えたのである。
ショウそのものは、中学か高校の文化祭の出し物に類似したもので、歌ったり踊ったり、たわいもないことをしゃべったりする。
客は若い人が多く、元気がいい。合いの手や一種の叫び声が面白い。一番年少だ、と話していたのが、渡辺麻友で、このときは誰が誰だかわからなかったが、後で知った。
秋葉原に出るたびに3度か4度見たような気がする。舞台もそうだが、何より観客の反応が面白かったからである。


さて、話は現在に戻る。
AKBには競争がある。入団するのが大変で、うまく入ることができたらできたで、色々と競争が続くらしい。
中学生や高校生で入団するのだから、学校の勉強どころではないだろう。歌と踊りの練習やイベント等で忙しいだろう。
大人相手である。世間の厳しさに、十代で直面する。ずる賢くもなるだろうし、人気が出て当たれば、金も入って、親孝行である。

AKB48は、新しい学校と見ることができる。生存競争むき出しの世界である。容姿容貌、能力と努力、そしてほんの少しの才能とが、彼女らの武器である。
これほど完璧な学校はないのではないか。
商売と割り切ってしまえばそれまでであるが、思うに、小中高校大学と商売でないものはない。義務教育はまだしも、高校や大学、大学院など、全身これ金儲けの塊である。
AKBの興行主である秋元某氏は、自分は校長のようなもので、AKBは生徒だと、言ったそうだ。
なるほど、厳しく才能がある校長なら、それはそれで、効果的な「教育」ができたのだろう。
芸能だけではなく、学業の世界にも、AKBグループのような、遠慮会釈ない競争とその結果の公示と金銭的多寡とを得ることのできる学校。子供のやる気と努力と多少の才能とで、明確かつ公然と競争ができる学校を、望むのである。
そんな学校が、全国の各都市に一つや二つはあっても、いいのではないだろうか。

 

 

最低の中学校の授業。子供が悪ければ、教員が助かるのか?

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この中学校の授業は、問題点が多い。

英語の授業。
英語に限らず、中学では、プリントを配って、それに書き込ませることで、授業を構成しようとすることが多い。ところがほとんどの場合、プリントの内容が、簡単で単純なため、学力向上の役に立たない。もちろん、だだっ子並みの中学生を、なだめたり、あやしたりしながら、授業をするご苦労はお察しする。

簡単なプリントの書き込みは、クラスでもっとも理解が遅れている子供には適するかも知れないが、後の9割にとっては、退屈で、緩慢で、知的興奮のない授業となって、学習意欲を減退させる。大いに迷惑である。

音楽の授業。
授業開始後、出席をとるのに5分、忘れ物調べで10分、実際の授業に入るまでが、長すぎる。
音楽の授業が成立しないので、他のことで、少しでも授業時間を短くしようとたくらんでいるとしか思えない。
ようやく始まったと思ったら、子供に歌わせない。無論、子供も歌おうとはしないし、歌う気もないらしい。
教員は「では歌いましょう」と言っておいて、子供を無視して、歌うのは自分だけ。子供を立たせることもなく、座ったままで歌うことができるのだろうか?
子供は、寝ているか、ばんやりしている。落書きに熱中している者もいる。
音楽教員だけの、時間つぶしの一人芝居だ。
怖いことは、それを知ってて、そのままですませようという教員の魂胆だ。こんなのを、力のない教員という。
しかも、クラスの一人も歌ってないのに、「よく歌ったね」はないだろう。
これはもう、完全に子供の状況を無視している。
歌も発声練習も音階練習も、音合わせもなんにもない。
「教科書23ページを開いてください。はい歌いましょう」 これでは指導にならない。
前任者がノイローゼで入院中なので、臨時教員とのことではあるが、だったら、よりいっそうがんばるべきだろう。
前任がノイローゼになるほど、ひどいクラスだから、私は私流にやりますよ、それが許されますよ、と言う甘い考えでは、どのみち、どこの学校に行っても、通用しないだろう。自分の授業力を高める良いチャンスなのに、最初から諦めている。

この学校で見た授業のワーストワンであった。

数学の授業。
宿題の答え合わせくらい、子供に事前にやらせておいたらどうだろう。答え合わせが、そのまま授業の内容となっている。
お決まりの、気の遠くなるほど低レベルの配布プリント。みんな、大欠伸をしている。

国語の授業。
授業で教員がしゃべりすぎだ。まるで沈黙が怖いかのように、間断なくしゃべり続けている。子どもの知性を鍛えるどころではない。あれでは、雑音だ。いたずらな繰り返しや、大声の連発は、聞く人の頭をすり抜ける。
子供が、読まない書かない話さないから(そのくせ、我が儘勝手な私語は、一人で三人分話す)、教員がしゃべり続けるわけだ。
無理矢理手を挙げさせて、子供が一人でも手を挙げれば、まるで餌に飛びつくダボハゼのように、「はい、何々君」と、喜色満面である。
それでも手が上がらなければ、ついには指名する。猫なで声で哀願して、かろうじて、子供にぼそっと、何か言わせる。教科書に書いてある内容を、そのまま確認しただけなのに、それを子供が面倒くさそうにつぶやくと、それでよしとする。教員は大喜びで、生徒を誉めまくる。

見ていて馬鹿らしくなる。これは生徒の人間性への冒涜だ。あきれるほどに甘やかし、レベルを下げ、一問一答のお答えごっこでは、子供の方がやりきれない。

一般的に、教員は、「子供の発言」を大げさに重大視しすぎる。子供は、元来おしゃべりな存在だ。話すときは狂ったように話すことを、あなたも、よく知っているだろう。だから、むしろ書かせるべきなのだ。

子供の私語が多くなると、教員が負けじとばかり、大声でしゃべり続ける、この悪い連鎖ははやく断ち切るべきだ。むしろ沈黙せよ。

社会科の授業。
義務教育では、一番問題のある教科である。
社会科は、教材が何でも有りのお気楽なので、授業のための準備がいらない。あっても時間が短くてすむ。簡単に言えば、授業そのものが、たいしたことはない。 
英数国理に比べて、教員次第で内容を自由に構成できる教科の筆頭である。だが、それだけに、社会科教員は、よほど迫力ある授業をしないといけない。教えやすい教科だけに、教員が甘えやすい。
教員に、暇ができる教科なので、「暇人のさばる」の例で、社会科教員は校内で幅を効かせやすい。しかも、授業では、歴史、憲法、国際情勢等、政治的な話題に、多少は関わることが多く、左翼的思考を子どもに刷り込む工作員の役割をする可能性もある。よほど注意してかからないと、危険である。
子供も、なんだか漠然としている教科なので、よく分からないなりに、取っつきやすい。
単純な知識の羅列と、教員の体験談や自慢話に、ご満悦になる傾向がある。その結果、知性の鍛錬よりも、時間つぶし、あるいは骨休めとなる。まあ、それも必要と言えば必要だが。

中学の授業では、教員が、授業をともかくも授業らしくしようとすることに全力を向けてしまって、学習内容を知的に教えようとする余裕がない。気の毒と言えば気の毒である。
もっとも、教員はがんばってるのだから、それでいいじゃないか、と言う人もいる。
しかし「がんばったからオーライ」ですませることができるのなら、世の中すべて「楽園」である。
ずっと昔、「自分を褒めてやりたい」なんて、幼稚な芸人運動選手の流行言葉があったが、現実は、そんなに褒められたものではない。
むしろ叱らなければならないのである。