ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

修学旅行中の子供の死亡。教員の責任はどうなる。入浴溺死と監督体制の問題。

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テレビ新聞等のマスコミは、質の悪い商売である。次から次へと話題を探し回り、打ち上げては音の消えない前に、次の花火に点火する。

さて、もうお忘れのことと思うが、広島の観光地のホテルで、修学旅行中の小学生が、入浴中に溺死するという事件があった。
親は、旅行中の子供の体調について、事前に学校に配慮を求めていたという。
にもかかわらず、事故が起こった。

学校行事での事故は、保護者の学校への配慮希望の有無に関係なく、学校・教職員に全責任がある。
教員と子供との間に、いわゆる「特別権力関係論」を持ちだすまでもなく、学校管理下では、被教育者に対して、教育者は責任を持たなければならない。
修学旅行中での事故、とくに宿泊のように監督責任が強く及ぶ範囲内での案件は、児童生徒は100パーセント、教員の管理下にあるとされ、したがって教員の責任も100パーセントである。

どのような学校でも、宿泊を伴う行事では、入浴時間の監督、見回り、指導について、教員は神経質に注意を払っている。常識である。

今回の事件では、当該教員、学校長、教育事務所職員(いわゆる教育委員会)の責任は重大である。過失責任があることはもちろん、過失致死罪適用もありえるのではないか。


学校での子供の生命・身体の安全について、小中高大学と、年齢が上がっていくにつれて、学校側の責任は軽くなり、逆に子供本人の責任は重くなる。
学生が自殺したからといって、ゼミの担当教員はそれほど悩まない。
高校のマラソン大会で生徒が心臓麻痺で死亡しても、体育教員が引責辞職しなければならないわけでもない。因果関係の証明が難しいからだ。

しかし、義務教育期の学校の場合は、違ってくる。
それでも、中学校での事故は、大目に見てもらえることがある。中学生は、自分の行動に、ある程度の責任をとることができると了解されているからだ。
小学生となると別物である。

修学旅行中の今回の事件では、教員、学校、教育委員会職員の責任は100パーセントである。
非難しているのではない。公開状況から判断すると、当然にそうなる。
引率の教員と学校長にもう少しの注意があれば、事故は防ぐことができた。
修学旅行中の基本の配慮事項につき、市教育委員会の連絡及び確認事項の徹底があれば、このような事故事件は起こらなかっただろう。

学校行事で、教職員が一番、注意することは、子供の生命・健康の安全確保である。
学校行事参加中の児童生徒に、不幸にして、事故があったとき、問題となるのは回避可能性があったがどうかである。
だから、教職員も、その任命権者である教育事務所職員も、行事にあたっては最大限の配慮と注意とを事前に検討する。
管理下にある子供の安全確保は、学校関係者の責務であるからだ。

俗に、医者は100人殺して一人前だという。
医者は患者を死なせている。死んだ患者の家族からいえば、医者によって殺されたのである。医者は患者を殺したのである。しかし、医者は弾劾されることはない。あれば因果関係の立証ができる場合である。
多くの場合、病人が医者を選んだ。患者の生命与奪の権利は、医者にゆだねられたのである。だから、医者は患者の死亡について自責の念にとらわれることはない。あっても、少ないだろう。

しかし、教員は違う。教員が子供を選んだわけでも、子供がその教員を選んだわけでもない。制度の中で、偶然にその学校、教員、学級に入ったのである。
だからこそ、義務教育の小学校では学校・教員・教育事務所職員(教育委員会)の責任は大きいのである。

 

 

学校への匿名の意見は、無視すること。親の不平不満のはけ口に過ぎないことが多い。

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教員の指導について、学校に匿名の意見がよせられることがある。
貴重な意見として、教育活動の向上のために、直すべきは直していけばいい。
しかし、この匿名というのが、曲者である。
教育上の意見またはクレームと、学校は重く受け止める傾向がある。
しかし、その内容が極めて怪しくても、事実かどうか確かめることができない。

意見の真偽の立証責任が学校側にある、と学校の職員は考える。
するとどうなるか。
疑心暗鬼の中で、しかも当該関係者の気持ちに考慮しながら、検討しなければならない。子供に直接聞くことはできない。なぜなら、匿名意見であるから、その真偽は不明である。不明なことを、直接子供に問うことは、教育活動では慎重になる。「子供の心を傷つけた」などと大騒動になる。
学校や教員は、途方に暮れてしまう。

匿名の意見に影響されると、授業活動がびくびくと自信のない、遠慮したものになってしまう。


景気が良くても悪くても、誰でも何かしら不満を持っている。
公立学校はその不満のはけ口となりやすい。あることないことをごちゃ混ぜにして針小棒大に騒ぐ親が、学年に一人でもいたら、たちまち、学校はバランスを失して、喧噪に巻き込まれる。

現代は個人によって価値観がバラバラである。全員に喜ばれ安心され満足を与えるような教育活動は、とうてい無理な相談だ。だからどんな教員にも、細かく捜せば、どこかに指摘できる失言や授業技術の不満点がある。
人間相手の仕事だから、当然である。

教員は、責任ある意見ならば、虚心に耳を傾けるはずである。
ところが、意見の出所がはっきりしないのは、これは密告であり、中傷であり、たんなるデマであるかもしれない。

意見を出す親は、現状を改善させようと考えるのならば、実名を名乗ることが必須である。そうしないのは、これは単に、自らの不平不満や子育ての困難さを学校教員に向けて暴発しているにすぎないと考えられても仕方がない。個人的嫌悪感(当該教員が個性的であればあるほど)を抱いている場合もあるだろう。お互い人間である、仕方がない。
しかしながら、どのような場合であっても、発言者が特定できる場合はいい。対処の方法もすぐに決まるし、解決が速いのだ。
発信源が特定できないとき、非常に困る。いったい何をどのように対処してよいかが、決めることができない。曖昧で漠然としたものになる。

教育活動には、一般論はない。すべてが子供ひとり一人の個別問題である。誰にでも通用し、誰もかもが幸いっぱいというわけにはいかない。
すべてに通用することは、大した効果を上げないものである。

にもかかわらず、誰のことか、どの子供のことか分からないのなら、手の打ちようがない。それどころか、すべての子供の最大公約数として対応することとなり、全体的に活力のない、ミスばかり恐れる逃げの授業となってしまう。

その意味でも、学校に第一報が入ったときの対応は大切である。できるだけ、具体的な意見の内容と、その発信元の特定が必要だ。学校側も、責任の所在を明らかにしない意見は、無視をするぐらいの覚悟が必要だろう。



ある学校に、保護者と名乗る人物から、教員に対しての注文または非難の電話があったとしよう。

校長は、教員に対しての教育活動上の意見を外部から受け取ったとき、その内容を、すぐに教員全体に伝えるかどうかは、事実関係と当該教員とが確定できないうちは、十分考慮しなければならない。
意見の発信源が特定できない場合、その意見の信憑性はないと考えられる。それは単なる不満の一つとして表されたと判断すべきで、その度に教員に伝えていては、混乱が生じる。

ところが、ほとんどの校長は、自分で責任を背負うことに耐え切れない。待ちきれない。当該学年や教科部にすぐに伝えてくる。
外向けには、校長は対応が早い、というポーズをつけるわけである。これが間違いの元で、匿名の意見を言った者は、愉快とばかりに図に乗ってくる。
匿名だから、 何でも言える、学校は何でもする、というような間違った「常識」が、親の間に広まってしまう。これは、教員の「蚤の心臓」に微妙に影響し、溌剌とした授業を阻害する。

職業人は、通常その仕事に対して、一定の型がある。教員も例外ではない。この「型」は、日々安定した教育術を実行しなければならない必要性からくるものであって、マンネリとはやや違う。
型は安定していると同時に、自己研鑽によって効果的に変化向上させなければならない。であるから、型の変化に対して、親が賛同的な意見を伝えるならば、教員はいっそう勇気づけられて教育活動も効果的で安定したものになる。
ところが、匿名の否定的な意見である場合、それを教員に一般的に(つまりどの教員に、どの父兄から、という情報がはっきりしないままで)伝えることは、その益よりもむしろ損失の方が多い。
効果的教育を行う教員までもが、匿名意見のとばっちりで、自らの教育観や方法を自己反省のあまりに投げ出してしまう傾向になる。
まじめで熱心な教員ほど、子供や親の反応を大切にするので、継続してきた学習方法を、変更したり、中止する可能性がある。

少々では自己の信念を曲げない、といえば、立派な人物のように喧伝されるが、とんでもないことで、現場を知らない人間の言うことである。
現場は常に一歩先が闇の綱渡りである。信念らしきものは簡単に豹変する。自己反省と自己研鑽の固まりが教員である。

さて、情報を自分だけで保存するというのは快楽でもあるが苦痛でもある。その苦痛に耐えることが、校長や教育委員会職員筋には、必要なのであるが、実際には、自分に得になる情報は秘匿するが、それ以外の情報はいとも簡単に公開する。
校長を指導監督する立場にある「教育委員会」は、校長のリーダーシップを、即席で向上させようとして、稚拙な研修じみたものを多く実施している。
だが、性急で軽はずみな策動は、慎んだ方がいい。人材不足であるということが、まったくわかっていない。

人は育てるものでもある。だが、育つべき種は、あまりに少ないという現実を知らなければならない。
立場がその人を育てるという。それはそうだろう。だが、立場のみの人物がほとんどある。
誰もが、自分の周りを見渡すと、すぐに気づくこと、ご同様である。

 

 

教員への暴力は許可。抵抗した教員は、体罰行為とされてしまう。

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教員が、子供へ厳しい指導をする。それは、「体罰」とみなされる。教室内の学習規律を守らない児童生徒学生に対して、教員は平身低頭で、ご機嫌を取りつつ、お願いするしかない。

授業中、子供が教員の背中を蹴ろうと殴ろうとナイフで刺そうと、なすがままにされるしかない。
抵抗すると、それは教員による子供への体罰とみなされてしまう。

教員の抵抗により、子供の心が傷ついた、不登校になったらどうする云々。親子で、教員や学校や教育委員会に抗議する。教員には勝ち目はない。だから、無抵抗で、殴られたり、蹴られたり、刺されるしかないのである。

緊急避難だの、正当防衛だのと、理屈をつけて、教員にも、有利な場合があると思いたいだろうが、残念でした。
過剰防衛だ、他に方法があるはずだ、そもそも子供から信頼されていないのではないか、ラポールを取るべく普段から努力していたのか等々、どうせ、マスコミ一同大喜びで、教員を攻撃するに決まっている。


子供の暴力には、教員は黙って耐えるしかない。抵抗したら、すべて終わりである。誰もかばってはくれない。

なぜなら、こういった、児童生徒学生による教員への暴行沙汰は、日常茶飯事である。抵抗する教員がいたら、かえって、他の教員から失笑される。みな、子供の横暴傲慢暴力に我慢をして、仕事しているのである。堪え難きを耐え忍び難きをしのんで、授業を続けているのである。子供へ歯向かうなんて、教員ごときが何様の気だろうと、同僚マスコミ教育行政一丸となって、とことん、当該教員を追い詰めるに決まっている。

それを誰よりも知っているのは現場の教員たちである。
これまでも今日もこれからも、教員は、生徒様の鉄拳をくらい、足蹴にされ、罵倒されつつ、黙って生きていくしかないのである。

youtu.be

こんな話を聞いた。
小学校の体育の授業中、ひとりのわんぱく小僧が、どうしても教員の指示に従わない。教員が、跳び箱の危険性を話しているのに、他の子供に砂を投げたり、後ろを向いたりする。数度の注意にも、止めようとしない。当該教員は、その子供のそばに行って、突き飛ばした。
ようやく子供は静かになったが、さあ、その夜、親が激昂して、校長、教育委員会へ抗議する。
結局、当該教員は、職を辞することになる。校長はむしろそれを喜んだ。

このケースでは、校長が笑って済ませて、親子を諭せば、いいだけのことである。
しかし、「体罰禁止」を破ったのは教員だ、教員が悪い。悪い教員の学校の校長にも責任があるだろう、となると、はなはだ具合が悪い。だから、教員が職を辞する意思を漏らしたとたん、「そう思うなら、そうしてくれ」、と校長には、渡りに船である。誰でも自分が可愛いものだ。

体罰とは、かくも恐ろしいタブーである。
子供は、それを知っているから、一方的に、教員へ「体罰」を加えることができる。笑って殴ることができるのである。

 

とんでもない中学校の運動会。親と子と教員の「甘い関係」。

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中学校(A校)の運動会(体育祭)に行った。

いやはやとんでもない運動会だった。テントは本部席と称する中央の一つだけ、運動場には大きな円らしきものが、ぐにゃぐにゃの白線で引いてある。
生徒達は甲高い放送部の女子生徒の声で、なんとなく集まったり走ったりしている。種目は障害物競走、かけっこ、騎馬戦のようなものである。そのだらしのなさと、規律のないこと、漫然たる雰囲気、まったくあきれて、ものが言えない。

練習した風にも思えず、ただ体育祭という行事をこなすために、日曜日の午後、運動場でぶらぶらしているだけである。これを保護者はなんと思って見ているのだろう。案の定、全校生徒の3割も保護者が来ていない。来ている親たちは、運動場を囲んで、所在なげに立って見ている。憤慨するでもない。慣れっこなのであろう。

隣町の中学校(B校)の運動会と何という差であろうか。
そこでは、多くのテントが立ち並び、各地区ごとに区分けされ、セパレートコースが美しく引かれており、種目も盛りだくさんで、練習の成果よろしい表現運動や組み体操があった。保護者も、全校生徒以上の人数が集まり、地域の参加もあって、やんやの応援である。

この違いはどこから来るのだろうか。

教員のやる気である。

A校の教員はやる気がない。保護者も、学校に厳しい注文をつけない。ただ漫然と通わせている。
A校の立地条件は、小高い丘の上にあって、学習活動が、まったく地域の目から隠れたところで行なわれている。
一方、B校は、中学校は団地の谷底にあり、校庭やグランドも、教室の授業も、地域の家々から見下ろせて、監視された状況にある。監視されやすいことが、特に良いわけではないが、学校の教員には、いい加減なことはできないという圧力にはなるだろう。

A校は、毎年、このようなふやけた運動会と聞く。
A校の教員のほとんどは教員組合の熱心な活動家だそうである。
組合活動が盛んな学校では、不思議と、教育がダメになる傾向がある。伝統文化の勉強も、日本人の誇りの育成も、学習規律の徹底も、大嫌いだからだろう。
生徒もやる気を起こさないはずである。

イェーリングの『権利のための闘争』の冒頭に、「法の目的は平和であり、それに達する手段は闘争である」という文句がある。これを、もじるなら「教育の目的は、学力の向上であり、それに達する手段は、(教員に対する)闘争である」というのは言い過ぎだろうか。
中学校のだらしのない体育祭も、ついでに乱れた授業風景も、親と教員と子供との、甘い共同作業の結果なのかもしれない。



 

出張の無駄。大学付属学校の人気と、つまらない研究会。

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日本には、大学が必要以上にありすぎる。各大学は、一つ一つ、商店であって、税金から膨大な金を配分されて、楽勝の日々である。こんな商売は、見たことがない。
それにしても、商店には人気不人気があるはずなのに、そのオマケである、大学付属の高校、中、小学校は、どこの商店でも、人気がある。
それというのも、私立大学の付属校は、A大学の付属ならば、原則として、A大学に入ることができる。早めの入学保証である。
国立大の付属校は、露骨に大学入学保証ができない代わりに、知名度がある。学費が安い。教員の実力が怪しくても、学級は勉強熱心な子供がほとんどだから、親は安心して、我が子を通学させた。

さて、国立大学付属校では、年に数回、研究会と称する「集い」を行う。小学部は、よくする。
都道府県には、それなりの予算があるから、研修出張という名目で、せっせと、教員が出かけていくが、あれは、いかがなものであろうか。

止めろとは、言わない。業種は違っても、研修出張は、企業・官公庁のほとんどでやっている。予算の消化、気分転換、裏の目的も大きいから、出張をなくすと、各方面に影響が出てしまう。

府議員等が、外交や視察という名目で、外国へ物見遊山に行くのも、一種の出張であるし、実務者レベルの交渉と称して、中堅職員があらかじめ遊びに行くのも、同じことである。蠅のようにくっついていく、マスコミの記者連中も仕事名目だが、遊びである。
とにかく、通常の仕事現場を離れて、どこかに出かけていけば、それは出張である。
何事も、無駄が必要ということだろう。

出張するのと、出張せずに現場にいたときと、どちらが快適かといえば、よほどのことでない限り、出張の方が楽である。出張が嫌だ、辛い、行きたくない、というのは、普段の職場が、異常に楽すぎるのではなかろうか。

付属校の研究会は、付属学校が存在することを世間へアピールするためであるから、やりたがるのは、わからないでもない。
しかし、効果のほどは、はなはだ怪しい。あれは、付属校と都道府県教委とが、互いに了解する談合のようなものではないか。
公開授業に慣れている役者みたいな子供を使って、授業らしきものをして、あとで和気藹々おしゃべりし合う。これを「研究協議会」と称する。

これは、もうそろそろ止めないか。時間と金との無駄である。
うっちゃっておいて、付属学校そのものを、滅びるにまかせたほうが、世のためではないか。



 

 

社会科は不要な教科なのか。『はだしのゲン』閲覧制限撤回と、教委職員の度素人ぶり。

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ずいぶん前のことになるが、ある席で、次のような意見を聞いた。

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社会科なんて無駄な教科は、なくすに限る。

先の戦争に負けて以来、図々しくも、教科の一つに、居座っている。
いったい、社会科で、何を教えているのだろうか。
あれは学問ではない。時間つぶしの一種である。

中学生は、まだ子供だ。公民だの政経だの、馬鹿も休み休み言え。
おまけに洟垂れ小僧の小学生にまで、「社会科」だそうである。

社会科教科書の基礎基本は、「チャイナ大好き」、「コリア友達」、「反日」の三つである。嘘だと思うなら、小学校6年生の社会科教科書を覗いて見るがいい。中学校の歴史公民教科書を手に取るがいい。

先日も「中国原潜の日本領海侵犯は、意図的」だなんて、腰抜け新聞どもが、ようやく遠慮がちに書き出した。
そんなこと、当たり前だろう。
「技術的な操作ミスで、日本領海へ誤って入った」なんて、子供だましのような嘘を平気でつく。

外交は、嘘で固めたものだから、それは驚くに値しない。それにしても、お人好しの日本人は、嘘を信じる人もいる。

シナにとって、日本は、仮想敵国どころか、奴隷にしたい国の筆頭である。
征服しなければならない東夷である。
中華思想華夷秩序である。それすら分からないのなら、社会科なんて教えるな。

自分たちの国土および国民を破滅さえるために、せっせと敵(中国、北朝鮮、韓国)に金をくれてやってるのである。無惨である。

もしも社会科が役に立つのなら、日本の独立の必要性と、こんな有様になった原因とを、教えてるべきではないのか。
実際の授業は、その逆で、戦後の日本をバラ色、戦前は真っ暗、日本の兵隊は悪いことしました、では、社会科なんてないほうがましである。

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色々、意見があるものである。


さて、話は変わるが、『はだしのゲン』という汚らしいマンガがある。気分の悪くなる画風で、見るに耐えない。

日本の歴史文化への見識が著しく低い全国の小中高等学校は、原爆に関係している本なら、条件反射のように、飛びついてしまう。学校の図書室に、はだしのゲン全冊を何セットも買ってご満悦である。

小学校では、「図書の時間」に、子供に無理やり見せる。
あまりの絵のえげつなさに気分が悪くなって、保健室へ逃げ出す子もいる。
マンガなら何でもいいよ、と平気な子もいる。

こんなものを子供に読ませるのは犯罪である。まして学校図書館に常備するなんて、どうかしている。これは反日プロパガンダパンフレットにすぎない。

嘘だと思うのなら、機会があれば、見るといい。
その内容に唖然とするはずだ。

これを児童生徒に見せたがる連中は、スターリンごっこが好きなコミュニストや毛主席万歳の北京中共政府のシンパではないだろうか。朝日新聞やNHK他の利得マスコミは、今も変わらず、これからも、ゲンが大好きなのである。

NHKは、某市の教育委員会が、この「過激かつ下品な漫画」の閲覧制限要請を撤回した、と嬉しそうに報道した。

左翼の巣でもあるNHKは、ゲンの作者と似通っている。皇室への憎しみと、日本の伝統文化への蔑視である。

朝日やNHKを例に出すまでもない。ほとんどの公立学校は社会主義どっぷりの教員が多い。市教委の決定は、覆される可能性は最初からあった。つまり、事務局は勝てる可能性が小さかった。
「問題」をマスコミにリークすれば、結局、役所は保身に走る。これは役所人間の習性で、どうしようもない。しかもゲンはすでに日本国中の小中学校、高校で、図書室に完備されている「名著」である。

「日本中の左翼教員を敵に回す気か。この木っ端役人どもが」と一括されたら、教育委員会事務局全員震え上がって、食事も喉を通らなくなる。 

勝つには、あらかじめいくつかの教委と連絡を取り合って、複数体制でするべきで、単発に決定しても、かえって敵側を利することになる。

どこまでも、素人である。