ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

聖徳太子を厩戸王と呼ばせてグローバル化に推進。さすがの文科省である。

 

 

 

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文科省が、次の学習指導要領で聖徳太子の名前を変更するという暴挙に出た。
国民の多くから反対されそうな情報を得るや否や、さっそく手のひら返して、変更を取りやめた。相変わらずの小心な役人根性である。

一体全体、学習指導要領なる代物は、文科省の存在意義を宣伝するためのプロパガンダパンフレットである。かつて役に立ったことが一度もない。常に事態を悪い方へ向けていく怪しげな努力の証である。
この一点をもってしても、文科省が、不要である以上に害悪であり国民の敵であることの証左であろう。

とここまで言うと、呆れられだろうが、ここまで言わなければならない。
それには理由がある。

聖徳太子を「厩戸王」に変更しようとした、その心根である。そこには、朝鮮やシナの意向が臭う。その意向に沿って動こうとする、文科省関係者の哀しく卑しい現実がある。
文科省は、日本国民の敵であり、無益どころか害悪の巣であること、NHKとよく似ている。

意見公募(パブリックコメントだそうな)で、味方してくれるだろうと考えた教員(教員といえば左巻きだから、聖徳太子を苦々しく思っているはず、と文科省は予想した)にまで、変更を反対されたものだから、諦めたのである。

聖徳太子は、ともかくも、日本の人物像として、その中心にある。その名称を、かくも下品な呼び名に変えようとするなんて、日本国民にあらざるものである。
文科省担当者が、シナ人か朝鮮人またはロシアかアメリかその他の手先であるかはつまびらかではないが、ともかくも、日本人ではないだろう。


歴史は、心である。神話である。
それは信じようとするから信じることができるものなので、歴史を試験管の実験と同一にしてはならない。
歴史は文学である。
文学は嘘八百ばかりではない。その逆に、真実ばかりでないことも、当然である。
しかし、文学には、日本国民の国民たる所以が表現されている。

だからこそ、文科省聖徳太子を憎むのである。グローバル化という、日本を日本でなくすための政策には、国民意識は、不都合だからである。聖徳太子以下歴史の事々を、下卑たものにしておけば、やがて、日本は日本でなくなるだろう。
それを文科省は、画策するのである。

高校生が雪崩で死亡したのは、自己責任なのか。教育委員会、学校の、過失致死罪の構成要件。

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栃木県の高校生が、「登山講習会」で、雪崩によって死亡した。
これはいったいどういうことだろうか。

講習会は県体育連盟が開いたものであるらしい。

高校生が講習会に参加し、そこで死亡したのであるから、業務上過失致死である。県教委の責任は免れない。
ビーコンも持たさず、十分な危険認識もなく、講習を実施した。

これ以上はくだくだしいから、書かないが、前に広島宮島のホテルで、島根県の小学生が修学旅行中、ホテルの風呂で溺死したことも、結局、責任はあいまいなままに終わって、忘れられそうである。

今回の「事件」も、すぐに忘れられるだろう。マスコミが連日騒ぐのは、「今」の話題で、利があるからである。他からの利の提供があれば、すぐに切り替える。話題を切り替えるために、旬の話題で無駄に大騒ぎするのである。それがマスコミ稼業のやりかたである。

さて、高校は義務教育ではないから、教員も学校も、教育事務所の連中も、日々の教育活動に油断がある。すぐに甘える。
体育系の連中は、特にその傾向が強い。悪天候なら、かえって、元気が出て、強行する。少々のことで中止するんじゃない、これが訓練だ、とかなんとかで、子供に、無理をさせる。

前にも書いた、マラソン大会がそうで、子供の体調や心臓麻痺の可能性なんか、考えない。
雪崩の危険性なんか、考えない。どんどん強行する。
「この雪では、雪崩の危険性があると思います。僕は棄権します」なんて、講習会の途中で、高校生が言えるわけがない。
学校関係者は全責任を負うべきである。


しかし、しかしである。子供は山登りが好きで、参加したのではないだろうか。
登山は危険な趣味である。登山は、絶命の危険と隣り合わせである。子供ながらに、それは知っていたのではないか。知っておくべきではないのか。
雪崩による死亡事故は、教育委員会、学校、教員による、高校生への過失致死が構成される案件である。
しかしながら、登山には、常に、こういった危険性があることを、親子ともども、知っておくべきであるし、知っていたはずであろう。

学生サービスが悪すぎる都内の「有名」私立大。教職員には最高、学生には最低の待遇。

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日本の各大学は、少子化に伴う学生数の減少と、大学そのものの価値とが問われるようになり、今後ますます経営が厳しくなる。
数少ない消費者であり、購買層である新入学生の獲得のために、競争しなければならない。

地方大学の多くは、いち早く経営を見直して、消費者サービスに努めている。
その一方で、首都圏の大学は、あまりに知名度に頼って安逸を貪り、学生の便宜をはからず、能無し教員どもを高給で雇って、お手盛りの快楽に酔っている。

天誅を下してやりたいところだが、その力がないので、せめて、ぼそぼそとつぶやくのである。


東京にはうんざりするほど多くの大学があるが、官立の東京大、芸大、工業大学を除くと、他の私立学校は、環境がよろしくない。
東京芸大の音楽の授業は、学生は半ば雑談に終始し、眠たげな様子だったが、それでものんびりした雰囲気があって、涼とした。しかしこれらは、例外に属する。


私立大学はサービスが悪すぎる。
例をあげると、おそらく日本で一番古い歴史を持つ○○大学である。知名度をいいことに、教職員には最高の待遇をする一方で、学生には最低とすら言える待遇を強いている。
学生食堂、図書館、学生の勉強コーナー、何一つ満足できるものはない。特にひどいのが、図書館で、あれはもう大学のそれではない、中学校並みの規模及び管理体制である。
ここまで学生へのサービスを忘れ、だらだらと学校経営を続けている大学は珍しいのではなかろうか。日本の権威と深い関係にあった学校であることを、利点としたのだろうが、それだけで、やっていけるほど、大学商売は能天気なものではなかろう。

新宿のマンモス学校は、以前書いたので、三田の学校の方を言う。
創立以来の商売堅気なので、学生へのサービスが、利に聡過ぎる。金持ち相手の方針なので、あれでは学生の活力が失われるのではないか。卒業生のネットワークも、いつかは力が尽きる。
もっと、学生のための「授業」に力を入れることはもちろん、どうすれば、「勉強していただく」か、「おかしくならないように」(校風になじまず、中途で新宿に代わる者が少なからずいる)するか、努力を要する。商売に強いのならば、今ここにいるお客様のために、本気で汗を出すがいい。


さて、言いたかったのは、こんなことではない。
「地方から東京に子弟を出させるのは、得策かどうか」についてだが、また書く。

アクティブ・ラーニングは、文科省と大学やマスコミの猿知恵。売ったもの勝ち、書店もニンマリ。

 

 

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新入学、新年度、新学期を目前にして、案の定というべきだろうか。
書店では、アクティブラーニングごっこで、大忙しである。
ついでに、騎士団長何とかで、これまた、売ったもの勝ちの、大宣伝である。

どうにもこうにも、書店の先行きは暗い。
暗くて構わない。本などが、どんどん売れるわけがない。どんどん売れるほど、良書や読むべき本なんて、あるわけがない。
書籍は、古書があれば十分で、後は雑誌の類であろう。
それを生意気に、次から次へと、数か月(または数日、あるいは数時間?)もたてば、ごみにしか過ぎなくなるものを、新刊本として出しまくる。
一体全体、これほどの無駄無理があるだろうか。

かつて、ゴミ本は、真に読むべき名著を、読者の目から覆い隠すためにある、と書いたが、今また思うのである。

さて、アクティブラーニングは、文科省と教育系大学と売文稼業者どもとが、結託してでっち上げた、下らない思い付きである。
しかし、哀しいのは、まんまと騙されてしまう教員や教員予備軍や「教育」熱心な親たちである。
アクティブ(悪底部)ラーニングは、いったいなんだとばかりに、駄本に飛びつく。ばかばかしさに見てはおられないというよりは、浅ましくも痛々しいのである。

内容浅薄で、まったくの言葉替え遊びであり、学校での毎日の授業とは何の関係もない。あれは、白墨をチョークと、机をデスクと呼ぶことと、同じまたはそれ以下の、言い方を変えて喜ぶ日本人特有の心理である。

アクティブラーニングの中身を見れば、なんのことはない。普通のことである。普通のことをことさらに強調するから、普通でなくなる。普通のことが、「何か優れたこと」をやっているかのようにごまかされる。いっそう現場を悪くする。
では、これまでの授業はどう呼べばいいのだろう。

ゆとり教育、総合的な学習の時間、生きる力、等々、安っぽい造語をでっちあげては、文科省と、その取り巻きのマスコミ連中は大宣伝をしてきたが、今回の「アクティブラーニング」は、うんざりするとともに、恐れ入った。
猿知恵にはキリがないものと見える。

家庭内暴力、不登校、ひきこもり。原因は何か、解決策はあるのか。

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家庭内暴力とひきこもりと不登校は、一セットである。
その原因は、子供が学校で不具合を生じているからである。

どのような不具合かといえば、当該本人の居場所が教室の中にない。学校にいても、自分が、常に疎外され無視され、全然楽しくないのである。
そこで、家庭に逃げ込むのだが、逃げ込んだだけでは、自分の表出欲が満足されない。だから、肉親に当たり散らすのである。自傷行為もあり得る。
まことに困ったことで、言うも哀れ語るも哀れなわけだが、それを救える人は、担任の教員である。
救う方法は、簡単ではあるが、誰にでもできる芸当ではない。
ここに方法を書かない。書きたくない。

多くの教員にできる芸ではない。だから、ある種の担任教員は本当にありがたい存在で、足を向けて眠るような相手ではない。


さて、私は大学教員を特に憎むものであるが、理由はこれまで散々述べてきた。私の雑文を根気強く読んだ人には、もうお分かりだろう。

小中高校の教員は大学教員とは違う。
高校は中途半端だが、それでも教員である。小中学校の先生方は、まぎれもなく教員である。
小中学校教員は、その資質能力に大小高低種々あるが、概ね、善人が多く、多くは凡庸だが、稀に「当たり」に当たることもある。
凡庸でも、子供の勉強を邪魔しなければ、まだ可としよう。

子供の社会は、大人から見れば、些細なことでも重大である。人間関係がすべてであること、大人社会と変わらない。
職業人が職場内の人間関係で自殺すること、日常茶飯事であるのはご存じだろう。
子供だけが例外なわけがない。


本来、人は引篭る存在ではない。他人との交わり人の中で、生きるべきものである。
なのに、学校が嫌だという。行きたくない、誰にも会いたくない、ほっといてくれ、と言う。
これは、心の叫びの裏返しで、学校に行きたい、多くの人と交わりたい、楽しく語りたい、学びたい、そこで自分を発揮したい、という本音の、裏返しにすぎない。

さあ、そこで担任の先生の出番である。
ひきこもりや不登校は、担任教員によって、99パーセント解決できる。できない1パーセントは、子供に重度の精神病が発覚した時である。しかし、重度であるならば、そもそも引きこもり現象等と違和感が見えるはずで、病院と専門医の出番である。

つまりは、ひきこもりは、担任教員によって完治できる。
その方法は、書かない。書きたくない。
ただ、君が現役教員ならば、この事実を知っておくがいい。不登校、引きこもり、家庭内暴力の真の原因は、教室内の人間関係である。それ以外には、ない。

校内マラソン大会で高校生死亡。体調無視で長距離を走らせるなんて、過失致死または故意殺ではないのか。

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ほとんどの高校では、この寒空に、「校内マラソン大会」を実施して、無理やり子供を走らせる。
校内でする場合もあるが、多くは近隣の大規模公園や公共の競技施設等で行う。
2月はそのピークで、日時と場所によっては、数校が重なることもある。

日本の高校教員は、子供に長距離を走らせるのが、お好きである。身の程知らずの教員根性で、子供に精神鍛錬をするつもりだろうか。

普段、満足に運動もしていない子供らに、とってつけたように、長時間、走らせるなんて、拷問であろう。あるいは過失致傷、場合によって過失致死、もっと露骨に言えば「故意ある殺人」にならないか。

どういう加減なのか、テレビや新聞のニュースでは、話題にすることが少ないが、毎年、高校のマラソン行事では、高校生が死んでいるはずである。

身近に見聞するところでも、すでに二人死んでいる。両方とも、裁判に至らなかった。色々と手を打ったのだろう。

詳細は避けるが、あれは教員の過失である、と知人は言う。
子供の顔色の悪さ、当日の体調管理が不十分なことを、教員は気付くべきである。

学校行事は、進学校になればなるほど、子供にとって、休むことがためらわれる。まじめな子ほど、熱心に参加する。連夜の勉強で自分の体力が落ちていることがわからない。少々の咳や熱でも、無理して出る。途中で棄権もしない。

マラソン当日は、教員が、コースのいくつかのポイントに立つ。子供を見守る、という名目だが、子供の体調なんか気にしていない。「もっと、がんばれ」「遅れてるぞー」とかなんとか、ほとんどが叱咤激励である。急に足がつって転倒でもしないかぎり、子供から棄権を申し出ることのできない雰囲気である。

ほとんどの子供は、無理をする。生命の限界まで無理をする。
そこは若くて元気な盛りである。どうやらこうやら(怪我もせず、または死なずに)、ゴールにたどり着くのである。
若い子供の持つ体力と、その運の良さに甘えてしまって、教員団は、子供へ無理強いをさせていることが、わからない、わかりたくない。
だから、子供が死ぬ。

本当に、死ぬのである。
多くは、心臓麻痺で、その場で死ぬ。あるいは救急車で運ばれて搬送先で死ぬ。

この事実を、世の親は、よく覚悟しておくことだ。
学校行事は時として、殺人マシンに変わることもある。誰も助けてはくれない。子供本人の自覚と勇気とで、回避するしかない。
親も、真剣に、学校行事の中身を監視しておくことだ。わが子の体調その他の変化にも、注意が肝要である。

しかし、しかしである。これも運命と考えることのできる親もいるだろう。何が起こるかわからないのが人生である。
高校生の国語教科書で、すでに子供は知っているはずだろう。
「理由もわからず押し付けられたものを大人しく受け取って、理由もわからず生きて行くのが、我々生きもののさだめだ」(山月記)。
もっとも、押し付けられた結果が、若死にではたまらない。