ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

文科省のいい加減さと、地方教育委員会の指導主事殿の「権威」

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多くの都道府県では、教育事務所の職員として、教員から採るときに、40代30代よりも、20代を選ぶ比率がうんと高くなってきた。

その傾向が目立ってきたのが、お粗末な学習指導要領の改定時期とぴったり重なるから不思議である。

文部省は、文科省文部科学省)と改名した。
その権威は、全然、ない。ただし、地方の教育事務所及び各学校は除く。ここでは今でも、文科省の諸君は「お偉いさん」である。

文科省職員は、国家公務員採用一種試験(総合職試験)をかろうじて受かったものの、ぱっとしない成績なので、「文科省でもいいか」というような連中が多い。心中は、ルサンチマンでいっぱいである。地方公共団体に「ご行幸」なさったときには、20代やそこらで、生意気にも役職付きで、大いばりであるが、そのくせ、財務省や外務省の同期の前では、うつむいて歩く。
それはそれで、仕方がない。世間である。それにしても、文科省の連中は、あまりに定見がない。そもそもが、教育になんて、全然興味も関心もない連中である。

お話戻って、地方の教育事務所が、指導主事(なんという「ご立派」な職名だろうか。恥ずかしい。何を指導するのか、何が指導できるのか)を、若い教員の中から選んだのは、正解だった。
猫の目のように方針をころころ変えても、順応できて、手懐けやすい。おまけに、中央から、やいのやいのと、形ばかりの書類作成を要求されたとき、徹夜で作業させるには、無理の利く若い者がいい。
「指導主事」の価値は、ますます落ちた。知識見識ともにお粗末である。
指導主事をねらっている教員諸君には、手っ取り早く指導主事になる方法や、要領があるのだが、ここに書くべきではない。先輩から聞け。

文科省は、ほとほと、定見のない集団で、指導要領を変えるたびに、学習内容の程度を、上げたり、下げたりして、現場を振りまわしてきた。見通しのなさは、彼らに国家観がないからで、戦後教育どっぷりで、1946年米兵製「平和」憲法万歳で育ったものだから、当然である。いい加減な人物ばかりである。

学習程度を、いったん下げると、なかなか上げることはできない。壊した皿が元に戻らないと同じ道理である。
「申し訳ございませんでした。すぐにまとまな内容に直します」なんて、教育行政関係者が言うわけがない。失敗を認めると、文科省の先輩の顔に泥を塗ることのみならず、金にならないし、昇進人事に影響する。それだけが、生き甲斐のような連中である。傲慢な面子だけは、健在である。

子どもは自然に成長する。生理的に成長するが、必ずしも知性的に、するとは限らない。
だから、教育は、大人が子供に「一方的に教え込む」ことが基本である。押し付けで、詰め込みで、当然である。
ここまで言っても、分からない人には分からないだろう。
本音では、分かりたくないのである。

国語教科書は汚物の塊。生存する売文屋の文章なんか、載せるな。

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近頃、乗合自動車に乗ることが多い。沿線に大学がいくつもあるので、学生が乗り込んでくる。他の客への迷惑など、お構いなしに、学生同士で大声で馬鹿話をする。
それは勝手だが、その言葉遣いが聞くに耐えない。
内容が幼稚で破廉恥なことは大目に見るにしても、話し方は、なんとかならないものか。

品ある言葉遣いは、幼児でも、できる子にはできる。
まして母国語が一応確立する10歳前後には、美しい言葉遣い、発音、発声、抑揚は、わきまえていて当然である。
それができていないのは、なぜなのか。 

どうせ二流大学の学生だ、と思ってもらっても困る。そう馬鹿にしたものではない。簡単には入れない(らしい)。
そうすると、言語環境というか、国語教育というか、何かの問題があるに違いない。

原因は、近年の腐った国語教科書にあると考えるが、多くの人はそうは思っていないようだ。
教科書はきちんとしたものだろう、ぐらいに信じている。

では、小中学校の国語教科書を、試みに、どこの会社のでもいいから、見てごらん。
あれが、小中学生に学ばせるべき文章かどうか、静かに考えてごらん。
私の言わんとすることが、ご理解いただけるだろう。


近年の国語教科書は、編集委員と称するボスと、その取り巻きと、利益優先の教科書会社の営業とが、結託して、でっち上げた代物である。 
昔、永井荷風は、貴殿の文章を教科書に載せたい、と打診されると、自分ごときの文章を教科書になんてとんでもない、と断ったという。
今の自称、作家というか物書きというか売文屋というか、その連中は、どうやら、荷風先生以上の逸材と見える。

この際だから言っておこう。
教科書は、即刻、一般会社への委託自由とし、各学校が制限なくそこから選択できるようにせよ。
中には、まともな感覚で、名文を選び、内容のある教科書を遠慮なく作る出版元もあるだろう。
なければ、今時のことである。優秀な教員の何人かに任せてみるがいい。パソコンとプリンタとで、瞬く間に、本物の「教科書」を作り上げることだろう。


教科書、特に国語や社会の教科書がお粗末至極であることについて、もう少し話す。

国語教科書に、小中高等学校と、ろくなものがない。大学の自称「教科書」は論ずるに及ばない。あれは資源の無駄である。

さて、どう粗末なのかと言えば、簡単である。あなたが、読んでみれば良い。
駄文の数々が、はたして、強制的に子供たちに読ませるべきものかどうか。
同時代の売文屋稼業たちの文章を、読ませていいものかどうか。

教科書には、すべからく、歴史的に評価の定まった名文をのみ、掲載すべきである。そうしないのは、日教組の教員におもねったり、何某を流行作家にしたてて儲けようとする、出版社の罠である。

現代文は、すでに鴎外、漱石荷風、潤一郎、直哉、敦、由紀夫以下、そうそうたる作品があふれている。すべて物故者である。作品のみで判断できる。そういうもので教科書を編むのが筋で、今生きている売文屋やタレント大学教員の駄文を載せて、いったいどうするつもりだろう。勉強の邪魔になるどころか、害である。汚らわしい。

いわゆる古文も、江戸文学から平安に至るまで、優れた文章が山ほどある。それすら載せないで、何が「国語教科書」だ。
馬鹿馬鹿しくて怒る気にもなれない。
あんなものはすぐさま破り捨てて唾棄すべきものだが、それはそれ、大勢には逆らえない。

教科書は瞬時にすませ、名文集を編んで生徒に配って、それで学ばせた知人がいる。おかげで、生徒たちの成績は抜群で、進学も群を抜いていた。
すべては、何を学ぶか、で決まるのだ。

ついでに言えば、大学入試の国語問題は、クズがくずを出している。
最初から意味不明の悪文を選びに選んでいるので、現代国語の問題は難解だと言うのが、定説になっている。
何が難しいものか。

愚かな出題者の能力と意図とを見抜いて、彼らの想定する模範解答に近いものを、半開きの口の中に、放り投げてやればいいのである。

生徒にはこう話した。
諸君の方が、出題者よりも能力は圧倒的に上である。従って、諸君の答えは常に正しいが、正しい答えを書いても、出題者は自分の能力を越えたものを、間違いとするだろう。だから、出題者の意図及びレベルを見抜いて、相手に合わせて書いてやれ。

 

 

子供は、教員の奴隷である。入学以来、周りを見て育つ小学生。

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子供たちは、小学校に入学すると、さっそく担任から、ああしなさいこうしなさいと、命令される。
それは、仕方のないことである。
子供たちは、個性の塊と言うよりは、我がまま勝手な暴君の集まりである。担任は一人で、手強い彼らを相手にしなければならない。
仕事がしやすいように、あの手この手を考える。命令口調になるのも、当然である。

しかし、所詮、子供は子供である。学校は一種の監獄で、大人である教員は、強い看守である。
子供たちは、すぐに看守の言うがままになる。びくびくおどどと、教員のご機嫌をうかがうようになる。

しかし、これも言い過ぎだろう。
子供も親も、昔のように教員を支持していない、恐い存在でもない。逆に教員が、児童生徒とその保護者とを恐れるようになった。看守の力は弱まったのである。

弱まったにせよ、学校は、社会から認められた大きな組織である。そこから逃れる術は、子供にはない。不登校か病気か、またはもっと重篤な状態になるしかない。
それが嫌なら、学校に合わせて、なんとか小中学校だけでも乗り切ろうとする。
これがそもそも、不幸の始まりで、世界でも奇怪な「日本人の美徳」を醸成した。

おもてなしである。気配りである。空気を読む力である。合わせる術である。対立を避ける心理である。議論と称する談合である。権威らしきものに弱いのである。流布する意見を無条件で信じる習性である。新聞テレビが大好きで、疑わないのである。出る者を抑え、遅れるものを馬鹿にするのである。みんな一緒が大好きで、同じ鍋に入れるのである。こぼれた者を踏みつけるのである。

その他いくつでも出るのだが、つまりは、相手を疑わない。というより、疑うことを恐れている。意見の相違が怖いのである。だから、あらかじめ信じてしまうのである。

これは小学校に入学以来の教育の成果である。如何思うにや。

小学校に入学して以来、子供たちは、学級の決めごとに合わせるように、突出も停滞もしてはいけないのだと、執拗に訓練される。集団への同調を強いられる。
これはもう、すさまじいばかりで、子供の性格を無視して、担任教員が仕事を進めやすいように、担任の思うような色に染めようとする。

このことが嫌で、我が子の教育に一家言ある親は、運動会や団体行動をせざるを得ないときは、欠席させたりした。はなはだしきは転校した。

それももう昔の話である。

今でも、周りに合わせることを大切とする「同調圧力」があるにはあるが、子供もわがままができるようになった。

こう言うと、良いことのようだがそうではない。今度は、自由放任が行き過ぎて、教室が無法状態になってきた。
個人の自由を通り越して、出鱈目な放縦と専横とが教室を支配するようになった。

本の学校の「みんな同じ主義」は、行動や考え方を一律に押し付るという短所と、教室内の静謐を保つという長所とがあったのである。

「自分の考え」とやらで、行動するようになると、あっという間に、無法状態が常態化するのはなぜだろうか。規律らしきものがあっても、内在化しないのはなぜだろう。

子供も大人も、いつも誰かの奴隷であったほうが、幸せなのだろうか。たぶんそうだろう。

 

百ます計算、日本国憲法の暗唱、NHKテレビ戦略、笑う教育産業。

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ずいぶん以前に、百マス計算だとかで、テレビが騒いだことがあった。すぐに、新聞雑誌、挙げ句にはこの機に乗じて一儲をねらった出版社まで巻き込んで、もともと昔からあった反復習熟学習を、ことさらに新しい教育方法のように喧伝した。
すでに日本全国の学校で、長年営々と続けていたことであって、めずらしいことではない。
よく知られた指導方で、今さら取り上げるほどのことでもない。
にもかかわらず、テレビ番組では注目すべきものとして報道され、NHK特有の妙な宣伝効果もあって、いかにも新しい教育技術のように広まってしまった。

ゆとり教育の失敗が明らかになりつつある頃だったので、テレビ宣伝の効果が増幅した。番組制作者は、今回も、視聴者をうまく騙したのである。地方の教育委員会の「お歴々」も、さして深い考えもなく、テレビに夢中だから、手放しで歓迎した。
教育事務所職員も、テレビにかじりついてばかりいないで、少しは本を読め。自分の頭で考えたらどうか。


百マス計算で名を売った陰山某は、子どもに文章を暗唱させるのに、こともあろうに日本国憲法前文を選んでいる。まともな日本語でないものを、子どもに暗唱させるなんてどうかしている。
憲法なら間違いなかろうと考えたのだろうが、その文章感覚を疑う。

話が飛ぶが、暗唱は古典に限るのである。
「枕方丈徒然平家が筆頭で、次は百人一首である。現代文では、鴎外を以て範として、他に、一葉敦直哉までだろう」とは、四十年以上前から、古典の暗唱学習を徹底し、学力を向上させた教員の言である。公立小学校の学級で、この程度の実践は十分に可能である。
何を読ませるかについて、名文とそうでないものとの判断ができない輩には、教育に暗唱が必要云々と言う資格はない。


そういえば、音読や暗唱に関して、「声に出して読みたい」とかの、短文を寄せ集めた本が売れたこともあった。安っぽいガイドブック風情の簡易本が、今さら注目されるのは、日本人として、いかにも恥ずかしいことである。
原文に当たればいいのである。読書の中身、教材の中身まで、誰かに教えてもらわなければならないのか。だったら、とことん、そうしてもらえ。

私はこれをハウツー本世代「ぴあ世代」と呼ぶことにしている。
自分で考えようとせずに、何でもお手軽に、他人様から教えてもらいたい。これは、ニュースキャスターの口真似が大好きな性質と同根である。
上記の「百マス」にしろ「声に出して」云々にしろ、みんな他人の発想の口真似である。オリジナリテも構想力もない。

小中高の教壇の経験もない、大学教員ごときが、暇にまかせて書きとばしたものを、現場教員がわざわざ買って読むほどのことはない。笑って、放っておけ。

そう言えば、某テレビ局の子供テレビニュース云々に関係していた職員が、なんでも屋となって解説している本も、よく売れたことがあった。
自分で学ぼうとせず、お手軽に解説してほしいのである。まさに、テレビ病である。

あれもこれも、出版社の罠である。古人は、出版は虚業、いかさまである、と喝破した。儲けるためなら、なんでもする。アイデアが勝負である。
ファッション雑誌アンアンの真似からはじまって、すぐにアンアンを凌いだノンノの例もある。恥も外聞もない。

話が長くなったが、教育関係の出版社では、長年、小学館明治図書が競っていたと聞く。学研も参入した。文芸春秋その他の社も、負けてはいない。
明治図書は法則化運動とかで、いちどきに稼いだが、今は下火らしい。小学館は、マンガや雑誌でも稼いでいる。ついでに愛国商売にも加担した。
出版社とマスコミとは、常に話題を捜す。捜すに事欠いて、無理矢理作る。

教育はもっと地味で忍耐強いものである。せめて現場の教員だけでも、流行に安易に乗らずに、地道に授業をしてほしいものである。

しかし、肝心の国語教科書があれでは困る、と知人が言う。

義務教育で使用する国語教科書の文章がひどい。ひどすぎる。
気品、リズム、内容ともに駄文としか判断できないものを、平気で載せている。
試みに音読してご覧なさい。聞くに耐えない。

十年前より二十年前、二十年前よりも三十年前。教科書は古いものほど、ちゃんとした文章が載っている。

文章がいい加減で、意味不明の言葉の羅列となり、文章の気品が等閑にされ出したのは、いつの頃からだろう。
世間で作家と呼ばれる連中のだれもかれもが、岩波調の翻訳崩しになってからだろうか。
大江健三郎のように、サルトルの下手な翻訳もどきの悪文でも、作家として認めらた頃からだろうか。
日本語は破壊されたのである。

教科書が、学校現場で採択されるには、教員になじみの作品を載せるに限る。このように教科書会社は考えた。今の教科書の質の悪さは、そのまま教員の質の悪さに通じている。

笑えるではないか。
コンビニで、そこら中並べてある漫画雑誌の付録のような、文章感覚の鈍い、未熟な、評価の定まらない、品のない、リズムのない、およそ思想の片鱗だにすらない、時間に追われてかろうじて吐き出したゲル状のような文章。それを、教科書の中に、子どもが学ぶべき文章として載せているのである。
日本文化は、軽蔑され、貶められたのである。

教科書採択制度にも問題がある。教科書の選択を、教育事務所や現場の教員任せにしたのがそもそも大失敗である。
歴史と伝統を無視した戦後教育で育った人々に、国語の伝統を受け継いだ文章作品が選べるわけがない。そもそも文章感覚が育っていない、持っていない、必要とも思ってない、人々である。

教科書会社は、今風の軽い文章ばかりを載せたがった。そして、そのような教科書は、目論見どおり、次々と採択された。
露伴一葉漱石鴎外直哉敦近くは由紀夫。これらが教科書に掲載可能な文章の最低限のラインである。
以前は、少なくとも鴎外直哉は小学校で習った覚えがある。
平家徒然も教科書に載っていたし、当然のように暗記した覚えがある。

今の国語教科書にあふれているリズムもなければ、内容もない、粕漬けのような文章を読ませても、子どもが読書好きになるわけがない。時間の無駄どころか、むしろ害ばかりである。
たまに読んでいるのは、近頃流行の底の浅い翻訳小説か、タレントの語り下ろしといった紛い物だ。
日本語の名文は、どこへ行った。

 

 

ハリーポッターよりも江戸川乱歩を読め。古い新書は、漫画本の代わりになる。

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教養というと、なんだか高尚な感じが、少しはある。
辞書にも「単なる学殖・多識とは異なり」云々と、書いてある。
しかし、もっと手近なところで考えよう。

教養も、読書なしではその土台がない。
ならば、教養とは読書のことでもある。

かつて十数人の教育系大学院生と雑談した折、レスタースミスの『教育入門』について言及すると、院生たちから「それは何ですか?」と問われて、驚いたことがある。
生意気盛りの学生にとって、スナックみたいにお手軽な岩波新書の本である。これを教育系の院生が読んでいないなんて、あり得ないことであると思いたいが、あり得るのである。

今どきの連中は、PCやスマートフォンのインターネット、テレビや映画や音楽と、なんでもやりたい放題で結構だとは思うが、もう少しは、本を読んだら、どうだろう。
レスタースミスごときが偉いわけでは全然ないが、仮にも、昭和期に独走した天下の「岩波」の教育本である。どうせ数十分で読める漫画のような、ぺらぺらの新書である。読んでおいて損にはならない。

ところで、話は変わるが、日本人の英国好きにも困ったものである。かつて、ハリーポッターとかいうシリーズが売れたという。何のことはない、荒唐無稽な学園ものの翻訳である。映画と共謀して、金儲けの上手なバイキングである。
あれは一応活字だから、子どもが読むのを見て、親は喜ぶのだろうが、日本語の文章として、若い人が読むべき本かどうか。
どうしても読みたいのなら、英語の読み取り練習のつもりで原文で読んだらどうか。

小中学生に、鴎外漱石をすべて読め、とまでは言わないが、せめて乱歩の少年探偵団シリーズぐらい読んだらどうだ。
あれは、少なくとも立派な日本語で書いてある。だから、雰囲気までもが、ちゃんと伝わってくる。
小学生必読の本といえるだろう。乱歩の少年探偵シリーズを10歳までに読み終えた子は、一応の文章を書く力がついている。
げに有り難や、乱歩先生。

ともかくも、知的活動の源泉は、言葉である。
言葉で考えて、言葉で表現する。日本人ならば、日本語・国語が知力の土台である。
国語が基本にあって、外国語なり数学なりの能力が伸びるのであって、その逆は、あり得ない。それでもあり得るのは、天才の域になるので、論じても仕方がない。

気になるのは、国語ができる子どもの多くは、どちらかといえば、こつこつ派が少ない。彼らの多くは、他の教科を熱心に学習しない。不勉強なくせに、読書好きで屁理屈のうまい子供が多い。
これは、国語は才能によるところが多いからである。

算数・数学ができる子と、英語ができる子は、重なることが多い。
時間をかけて学習する癖がついているからで、英数とも、勉強にかけた時間と実力の向上とが、比例する。頭の良し悪しとは、関係ない。
一方、国語は上位のレベルになると、ほとんど才能がものを言う。下位の問題は、誰でもできるので、差がつかない。

たとえば、高校の授業では、国語の得点を伸ばすことがもっとも難しい。
数学や英語は、結局、努力すればなんとかなる。
国語は長い間の蓄積、読書量、遺伝形質その他が関係する。
要するに、付け焼きが通用しない。少々の時間をかけたくらいでは、成績が急変することなど、あり得ない。
しかも国語の授業は、方法として確立していない(他教科が確立しているというわけではない。だが、国語に比べると、何をどうするべきかが、明確である)。
国語科でつけるべき学力へのイメージが、教員によって違いすぎる。授業技術の上下、子供に与える知的雰囲気など、担当教員によって天と地との開きがある。
何を、どのように、どの程度まで、学習させなければならないかを明確にしなければ、効果的な授業が成り立たない。
だから、国語の教員は、よほどの実力が必要だ。

さて、日本政府は、今もこれからも、国語を軽んじて、斜陽のアメリカ語を重視する政策をとるつもりである。
これだけでも、売国奴の集まりだと思われかねない。
文科省も財界も、日本亡国の輩と非難されても、仕方がないだろう。

AKB48「願いごとの持ち腐れ」ミュージックビデオは、いかがなものか。

 

 

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昨日、偶然に、AKB48の曲、「願いごとの持ち腐れ」のミュージックビデオを見た。
この曲がいつごろから流れているかは知らない。だが、一見して、この音楽ビデオは危険だと感じた。

設定は、廃校となる公立小学校での色々であるが、そもそも、この場所や話は全て架空で、登場人物も子供を含めてすべて芸人だろうと推測する。

そうでなければいけないのである。当事者である、子供や現職の教員が、販売されるCDやDVDの宣伝をするわけにはいかない。

しかし、ミュージックビデオは、なかなかの現実感を出している。子供たちの歌う姿に涙をぬぐう親のカット、子供のメッセージを読む姿、教員たちのたたずまいなど、リアル感いっぱいで、多くの人は、これは現実かと勘違いしてしまうのではないか。
最初の場面での、鏡山小学校の閉校のあれこれを説明をする教員役の演技も、なかなかである。(現実に、浜松市立鏡山小学校は閉校したようだ)

どうも後味が悪い。


かつてAKBは「恋するフョーチュンクッキー」で、全国の自治体や会社組織を巻き込んで、ダンスの動画で話題を拡散した。
興行主の秋元氏の才は、抜きんでている。

今度は、廃校もののドキュメント風作品で、誰もが持つノスタルジックなセンチメントを売り出した。
NHK全国音楽コンクールの中学校課題曲にも決まっているという。
歌いやすく簡単な曲であるし、AKBの曲だから、中学生も抵抗なく、むしろ喜んで歌うだろう。

全国の小中学校の音楽教員が、目の色変えるだろうことは、容易に想像がつく。小学校の学級担任なんて、朝の会で毎日、子供に歌わせかねない。
学校特有の甘いロマンと、テレビやCDの宣伝とが、微妙にマッチングしてしまうのである。

しかし、しかしながらである。
大学教育を筆頭に、教育ビジネスは沸騰している。教育は、誰もが無視するこのできない巨大な集金場なのである。
以前、学校経営は、無難な商売だと書いたが、大学や高校のそれは、金まみれだから、まだいい。
義務教育期の小中学校までが、ビジネスにあからさまに、利用、活用、引用されることは、望ましくない。

AKBグループは、日本発の、世界に通用するビジネスモデルである。日本の文化、であるかもしれない。
しかし、小学校を題材に、さも現実風に、MVを作ったのは、やりすぎである。ターゲットは、むしろオブラートに隠していた方が、いいのである。