ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

小学6年生の学級担任は、子供の人生を変える。「当たり」の教員を探して転校し続けても無駄である。

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小学校の6年生の担任の影響は大きい。
小学校に通う6年間のうち、6年生の時だけが特別ではない、と言えばわかりやすいだろうが、そうではない。
1年生から5年生までどんなにひどい状況であっても、6年生の時の担任の力で、立ち直らせることできるからである。その逆もあり得る。最後の1年間で、担任次第で、子供が落ち込んでいく場合もある。

物事は、入り口と出口が大切だろう。入り口の、小学1年生の担任の責任は重く、それだけに実績と教育力が必要だ。
それなら、小学校の出口である6年生の学級担任も同じである。
ところが、これがけっこういい加減なのだ。

教員の多くは、高学年はしんどいから嫌だ、と言う。
高学年担任を引き受けてくれさえすれば、だれにでも、やっていただこう、となる。
それでも、なり手がいない。特に、野外活動と称する泊りがけの集団訓練のある5年生担任は不人気だ。
そこで、新採教員を充てる。新採教員には、拒否権がない。何事も勉強だ、やってみろ、と先輩教員が脅しをかければ、嫌とは言えない。それでも嫌と言えるのは、親が校長か教育事務所筋に顔の利く人脈がある場合である。嫌だ嫌だと泣き出す女教員もいる。泣き喚いて、我儘を通す。
ともかくも、高学年の担任には、なり手がいないのである。5年から6年への持ち上がりが多かった頃はなおさらであったが、近年、一年ごとの担任交代が常識となっている。


さて、なぜ6年の学級担任がしんどいかといえば、親の目が、他の学年に比べて一段と厳しくなる。教える内容も高度化する。時間数が多い。音楽や家庭科が、現場によっては、専科教員に任せることがあるとはいえ、ほとんどの教科を、学級担任が独力で教えるわけだ。教員に相当の教養や学力がなければ、難しい。授業準備も大変である。

子供も、6年生ともなれば、「素直なお子様」ではない。批判力も判断力も表現力も体力も、大人並みの子も多い。そんな子供を何十人も指導するのである。並の力では、とうていできない。

新任の教員に高学年を続けて受け持たせるのは、考えられないくらい無茶である。
新米の医師に、聴神経腫瘍の除去手術を担当させるようなもので、下手をすると取り返しのつかないダメージを子供に与えることになる。

5年生から6年生まで持ち上がりが通常だった頃には、その被害は目も当てられなかった。高学年2年間の無駄は、あまりの惨状である。
どうせ小学生だからごまかせるだろうと思う人は、子供のみならず、教育そのものを馬鹿にしている。
学校での時間の重さが全然わかっていない。

もし仮に、その教員がよほど優秀だったとしても、子どもには他の教員に受け持ってもらう権利がある。
どんなに長くても1年間で担任を替えるのが、正常なのである。いや、半年でも、3ヶ月ごとの交替でも、よいくらいである。

学級担任の重要性を考えるとき、親たちは、担任の住居の方向へ足を向けて眠れないはずである。
と言いたいところだが、現実はそうではない。
というのも、担任教員の実際の力は、正当に評価されていないからだ。

優秀な担任教員は少ないのだから、現実の我が子には関係がない。だから、教員全体をバカにしたり、信頼しなかったりする。これは危険な傾向だ。ごく少数の素晴らしい価値あるダイヤを、見逃すことになる。
ほとんどの親は、学校の担任よりも、身銭を切って子供を通わせている学習塾の講師の方を信頼する。それもまた人情である。

ただより高いものはないという。
ただである公立学校の、その教員を馬鹿すると、そのしっぺ返しは、実力のつかない無為な小学校6年間という報いとなる。
確実に、子供の一生を左右することになる。



ついでに言えば、教員と保護者との関係が、良いとか悪いとか聞く。

親は、自分の子どもが立派に育つことを願っている。願い通りに教員が指導してくれれば、親は喜ぶ。これが、学校と親とがうまくいっている状態だ。

だが、現実はそう簡単ではない。
子供が順調に育っていても、教員の力だと考えない親もいる。
それどころか、もっと育つはずなのに、教員が邪魔をしていると考える親もいる。

教員によって、子供の成長に影響があるのは、もちろんである。だから、子供の成長が進まないのは、教員に原因があることも事実である。よい教員に会えたら幸せ、そうでなければ、これは損である。

しかし、不公平はこの世の常だ。当たり外れは、必ずある。外れ担任ならば、損失であり、悪影響があるけれども、こればかりは、嘆いても仕方がない。運が悪かった。

他人事のように書いたが、親としては納得できないこともあるだろう。
小学6年生の場合、担任によって、中学受験の合否が変わってくる。子供が、中学受験をするかどうかに迷っているときに、担任の考え方が大きく影響する。
そんな馬鹿な、と言いたいだろう。低学年から、学習塾に通わせて、家庭教師までつけて準備させた。6年の時の担任によって、何かが変わってたまるか、と言いたいだろう。

残念でした。これまでの経過がどうであれ、6年の担任の影響は侮れない。
影響には大小があるのは当然で、当り教員からは益を大きく受けるとしても、外れ教員からは、そもそも外れなんだから、影響なんて受けやしない。と言いたいが、それが大きな損失を受けるのである。

担任の影響は、一般的には、よい方向より、悪い方向に、顕著に出てくる。その逆は、まれである。
なぜ、まれかと言えば、担任の能力が十分ではないからである。どうせ、無能なら、子供をいじってもらわない方がいい。

ところが、学校では、子供は教員の「指導」の下にあるので、時間潰しの「活動」や「授業」を無視して、さっさと帰宅するわけにはいかない。児童生徒の哀れさである。

親にとって、解決策はない。転校しても、良い担任に巡り合うまで転校し続けることになる。簡単に当たるわけがない。不可能である。
不公平は、現実生活の掟である。

教員にとって、解決策はある。あなたが、教員ならば、解決は簡単だ。
親は、我が子に学力がつくことを強く望んでいる。だったら、学力をつけてやればいいのである。
それが、あなたにできるかどうかは別問題である。

学力をつけた上で、なおも余力があれば、「生きる力」なり「ゆとり」なり「総合」なり、何とでも能書きつけて、勝手に踊ればいいだろう。

 

 

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子供ごときに振り回されるな。荒れる中学校と元気のない教員。

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学校に元気がない。
特に中学校は落ち込んでいる。教員が自信を持って子どもに接していない。
原因の一つは、学校の教育方針が揺れていることにある。
本を正せば、教育に、芯がないからである。
戦後、教育の芯がなくなり、その場その場で、ふわふわと流されてきた。ごまかし続けることができなくなった。

加えて、「ゆとり教育」が、子供と学校とを駄目にした。文部科学省が「自信をもっ」て示した「学習指導要領」は、最低水準まで子供の学力を下げてしまったのである。

勉強を一所懸命にしなくてもよい、したいときにしたいことをすればいい、というのが「ゆとり教育」である。教員は学習内容を教えるのではない、子供から相談があれば、聞いてやるふりをすればいい、というのが「ゆとり教育」である。
こんなことで、子供に学力がつくわけがない。

教員はいいだろう。教員にとって児童生徒は、所詮、他人の子である。だが、親にとっては大事な我が子だ。我が子の勉強に関心を持たない親はいないだろう。

荒れる中学校の教員のほとんどは、現状に満足し、変革を諦めている。
生徒からゴミ屑とあざけられて、誰が熱心に勉強を教えるだろうか。
「少しでも、学びたいやつは塾に行って勉強しろ。それでいい」と、考える教員がいたとしても不思議はない。
「学校は喧噪とお遊びと狼藉の場所である。次の転勤までなんとか無事に過ごせればいい」と、考えている教員もいることだろう。

公立中学校が、学習する場から時間つぶしの場へと変化した原因はまだある。
一部の問題生徒を、入学後、夏まで放置してきたことや、小学校の高学年の時に、きちんとした指導がなされていなかったこと等だ。本来は入学早々、叩き直すべきである。

小学校では「平等」や「競争嫌い」や「個性尊重」などの建前を優先した。守るべき学習ルールを教えていなかった。小学校高学年の担任に責任がある。
学級担任の腕は、著しく落ちている。
あぶらがのってきて、ようやく充実した教育ができるらしい中年以後、管理職志向になって、学級指導に熱意がなくなることが多い。外見だけを取り繕う。
教育委員会の評価を気にして、学習に挑戦と冒険とがなくなってくる。

中学校では、そもそも授業の上手い教員が少ないことに加えて、地域の生徒数の短期の増減と予算の関係で、正規の教員の採用を手控えた。結果、一時的な臨時講師が、授業をまかなってしまうようになった(常勤教員よりも力を持っている人も多いけれども)。教員の不安定は、生徒への指導の弱さとなる。

中学校の各教室では、生徒が乱暴狼藉の限りを尽くして、授業妨害をする。
原因は、教員のお粗末な指導、または生徒の我が儘である。
どんなに荒れた教室だろうと、きちんと指導してこそプロである。
しかし、そうはいっても、授業が成立しない中学校が多くあること、みなさんご存知だろう。
疑問の向きは、近隣の中学校に電話して、参観日の日程を尋ねて、見に行くがいい。

小中学校は、「地域に開かれた学校」とやらで、授業参観日を、一般に開放する。ただしあまり来てほしくないので、宣伝しない。むしろ秘密にする。

参観日当日は、いくらなんでも、生徒も大人しいと思いたいが、やはりうるさい。
と書けば納得するだろうが、実は、参観日だけは、生徒は、普段と打って変って静かである。
このあたりの立て分けは、子供は実にうまい。
新任の中学教員は、参観日の「穏やか」な教室で授業をしながら、明日のことを思うとぞっとする、と言う。

今、不景気である。これで不景気なのかと訝る人もいるだろうが、不景気である。
景気が悪いと、学校は安定する。
親は生活を不安に思っている。我が子の将来もいいことはないだろう。就職できるのかしらん。せめて金のかからない学校に行けるだろうか。
子供は時勢の変化を肌で感じて、甘えた真似ができないことを、知っている。

社会全体がバブルで浮かれると、子供も浮かれるのである。
学生諸君が、赤旗もって色とりどりのヘルメットかぶって、社会主義革命ごっこで遊んでいた頃は、世間の景気はよかった。
さすがに今は、本郷だろうが戸山だろうが秋葉原だろうが、コスプレの男女はいるが、革命ごっこの学生は見ることができない。

事ほど左様に、児童生徒学生は、大人を盗み見て行動する。
ゆめゆめ、子供ごときに振り回されてはならない。

 

 

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エリック・ロメール、友達の恋人。話さないことは、いないこと。論理教育と言葉。

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読書力、と仮に名付けようか。
自分の判断で良書を選び、読んで内容を理解できる、というほどのことである。
漫画や流行本や、三日後には忘れられるような雑文の類は、良書とはいわない。
十年二十年百年千年残る名文で綴られた本を良書という。

ほとんどの教科書から、名文が消えた。
特に小学校の国語教科書は、名文の逆の、悪文ばかりで編集されている。教科書を読めば読むほど、害になるような代物である。その証拠に、中学生高校生になっても、大人になっても、良書を選ぶことができない。ゴミ本を平気で、ありがたがって読む。名文を知らないからである。


古典が重要なことは、誰でも知っている。
「声に出して」何とかだとか、名文のつまみ食いを編んだ者がいる。音読だ暗唱だと、これまた叫んで売り出した輩がいる。
そんなことは、当たり前ではないか。良書が大切、名文を学ぶべきは、誰でも知っている。それを発見のように言うな。読者を馬鹿にしているにも、ほどがある。

出版は、虚業である。他人を欺いて金を得る商売で、儲けのためなら何でもする。時流に乗る「とんち」を考え出して、筆者(らしき者)のところに飛んでいって、せき立てて書かせる。
その挙句を、次から次へと書店に並べる。あれは紙ゴミの集積場ではないか。資源の無駄遣いと言わずして何だろう。

責任は、小学校の国語教科書にある。現行の国語教科書は、即刻廃棄するがいい。

言い過ぎだと思うか。ならば、小学国語教科書を数社取り寄せて、読んでごらん。その感想を聞きたいものである。


ついでに言えば、初等教育では、言葉と計算とを徹底的に鍛えなければならない。
国語と算数とを中心に、確実な知識を習得させる。
「読み書きそろばん」である。「基礎基本」の中身である。これをないがしろにしてしまうと、その後の発展が望めない。

一方、中学校や高等学校での基礎基本は、論理的な表現能力に集約される。論理的思考力を鍛えて、その実践としての表現力を高めるのである。

表現力は、話すこと、書くことを訓練すればいい。しかし、論理的思考力の訓練となると、難物である。
論理は、物事を順序立てて考えること、問題をねばり強く丁寧に考えることだ。
これは結構、辛いものである。

フランス映画に登場する少年少女の多くは、多弁で理屈っぽい。日本の同年代の子供たちは、その逆である。まず、会話が少ない。
試みに、たとえばパリの街角のカフェの椅子に腰をかけて、道行く若者を眺めるといい。通りを過ぎていく人々のその中に、明らかに一種異様な一団を見かけることがあるだろう。
それは日本人の学生(20代の社会人も含む)とおぼしき女性達である。まるで幼い子どもが、海千山千のカジノに迷い込んだようにも思える。乳飲み子が、暗闇を這っているような、幼稚で頼りなく薄い雰囲気なのである。
これは「論理教育の欠如」に、原因があるのではないか。

日本の子供は、何事かについて、きちんと筋道を立てて、話さない、話せない。子どもの頭の中には、いくつかのアイデアはあるのだろうが、言葉にして説明することが下手なのである。
進んで話そうとしないし、まれに話すにしても、要領を得ない。しどろもどろである。

子供は、意見を持ってないわけではない。
むしろ逆で、多くの発想と、それを実現させようとする意欲とを持っている。
しかしながら、言葉が出ない。これはどういうことだろう。
もちろん、語るべき中身がなにもないのに、ぺらぺらと空論を叫ばれても困る。それでは、ポストモダンが売り物の大学教員連中と同じになってしまう。

ある映画(エリック・ロメール 『L'Ami de mon amie』友達の恋人)で、こんな場面があったように記憶している。

主人公の女性(A)が、その友達の女性(B)と、Aが密かに心を寄せている男性(C)とカフェでお茶を飲む。三人とも二十代半ばである。Bは、AがCを好きなことを知っているので、二人の関係がうまくいくようにとりもつ。
会話は活発に進む。BもCも、如才無く話す。Aは、あまり話さない。
Cが帰った後、Aは、泣きじゃくって、Bにこう言う。
「私は失敗した。Cに嫌われたに決まっている。だって、あまり話さなかったもの。
頭が悪いんじゃないかって思われたにきまっている。あのくらいしか話せなかったのだもの。」

何年か前に、アメリカの高校生の授業を見たことがある。生徒達は、我も我もと発言する。一見、雑然としているようだが、スムーズで、うるさい感じがしない。
他人の意見はよく聞いて、その発言を土台として、自分の考えを展開する。うまいものである。
授業後、ある高校生が言った。
「アメリカのような多民族国家では、言葉がすべてなんです。黙っていても分かり合えるはずがありません。ことばで、説明しなければなりません。それに、話さなければ、 その場にいないことと同じなんです。私がここにいることを証明するには、何かを相手に向かって話さなければなりません」

 

 

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