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ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (サブ倉庫)

英語なんて捨てておけ。日本人には英語は不要である。得だと思うなら、勝手にしろ。

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ずいぶん以前の話になるが、海外の子供たち(アメリカ、イギリス、中国、台湾、ドイツ、香港、韓国、マレーシア、タイ、オーストラリア、ロシアなど六十人余り)、そして日本の子供たちと一緒に、二泊三日のキャンプをしたことがある。
みな、十一歳である。香港、マレーシアの子どもは、英語も達者である。たちまち頭角を現した。言葉の違いを乗り越えて、子供はすぐに友達になるというが、そうでもない。少しでも話せるほうが、いいに決まっている。

シンガポールの小学生は、英語と中国語を完全に習得できなければ、小学校を卒業できないという。バイリンガルを前提とした社会なので、小学校の卒業試験でふるい落とされる。
シンガポールでは、子どもが外で遊んでいない。それもそのはずである。
シンガポール在住のKさんの家でも、両親が付ききりで、猛烈な勉強をさせていた。受験勉強もここまでくると、激烈を通り越して、かえって気持ちがいい。

日本人は、英語を、中学三年間、高校三年間、大学でもある程度やってきているが、ぜんぜん使いものにならない。
次のような意見がある。
「その原因は、日本人の英語の授業にある。日本の中学高校では、英語教員は、日本人である。これはきわめて異常なことではないか。たとえば、イギリスの中学で、 日本語の科目があって、その担当教員がイギリス人であるというのは、ありえない。ところが、それが日本ではまかり通っている。
ネイティブと自由に話すことのできない連中が、英語を担当している。この弊害は、日本人をすべて、英語音痴にしてしまった。英語教員は、日本人以外であるべきだ。アメ リカ、イギリス、オーストラリア、カナダ、フィリピン、香港、シンガポール以下、国籍は何でもよい。ともかく、日本人でないこと、が肝心である。英語を、 ネィテイブに話す人間が必要なのである。日本人が、豆単語集を片手に、カタカナ英語を教えて、何になる。
日本人英語教員が英語を教えるのを、すぐに止めさせるべきである。さもなくば、日本人は、永遠に満足な会話能力が身につかないであろう」

とはいえ、外国人フリーターを大量に日本に誘い込むのもどうかと思う。優秀で熱心な外国人を見つけてきて、「薄給」で雇うのが肝心である。 
しかしそれでも、日本語で十分に生活ができる国では、どうしたって外国語など、簡単にできようわけがない。必要もない。


かつてハングルに興味を持って、ソウルの大学に通ったことがある。といっても、わずかひと月あまりである。
ひと月で何ができる、と思うだろうが、これができるのである。授業はすべて、ハングルで行われた。老若男女の日本人学生がいたが、教室で日本語を使うのは禁じられた。韓国人の教員も、日本語がわからないようだった。そういう教員を選んでいるとのことである。生徒の母国語を理解しない教員の方が、生徒の学習効果が上がるという方針らしい。

しかし、日本人には日本語がある。頭を熱くしてまで外国語を学んでやる必要なんて、全然ないのである。自分にとって利用価値が少ないのなら、費やす時間に見合った利益がないのなら、英語なんて捨てておけ。

最低の中学校の授業。子供が悪ければ、教員が助かるのか?

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この中学校の授業は、問題点が多い。

英語の授業。
英語に限らず、中学では、プリントを配って、それに書き込ませることで、授業を構成しようとすることが多い。ところがほとんどの場合、プリントの内容が、簡単で単純なため、学力向上の役に立たない。もちろん、だだっ子並みの中学生を、なだめたり、あやしたりしながら、授業をするご苦労はお察しする。

簡単なプリントの書き込みは、クラスでもっとも理解が遅れている子どもには適するかも知れないが、後の9割にとっては、退屈で、緩慢で、知的興奮のない授業となり、学習意欲を減退させ、大いに迷惑である。

音楽の授業。
授業開始後、出席をとるのに5分、忘れ物調べで10分、実際の授業に入るまでが、長すぎる。
音楽の授業が成立しないので、他のことで、少しでも授業時間を短くしようとたくらんでいるとしか思えない。
ようやく始まったと思ったら、子どもに歌わせない。無論、子どもも歌おうとしないし、歌う気もないらしい。
教員は「では歌いましょう」と言っておいて、子どもは無視して、歌うのは自分だけ。子どもを立たせることもなくて、座ったままで歌えるのだろうか?
子どもは、寝ているかぼっとしている。
音楽教員一人だけの、時間つぶしの一人芝居だ。
怖いことは、それを知ってて、そのままですませようという教員の魂胆だ。こんなのを、力のない教員という。
しかも、クラスの一人も歌ってないのに、「よく歌ったね」はないだろう。
これはもう、完全にクラスの子どもの状況を無視している。
歌も発声練習も音階練習も、音合わせもなんにもない。
「教科書23ページを開いてください。はい歌いましょう」 これでは指導にならない。
前任者がノイローゼで入院中なので、臨時教員とのことではあるが、だったら、よりいっそうがんばるべきだろう。
前任がノイローゼになるほど、ひどいクラスだから、私は私流にやりますよ、それが許されますよ、と言う甘い考えでは、どのみち、どこの学校に行っても、通用しないだろう。自分の授業力を高める良いチャンスなのに、最初から諦めている。

この学校で見た授業のワーストワンであった。

数学の授業。
宿題の答え合わせくらい、子供に事前にやらせておいたらどうだろう。答え合わせがそのまま授業の内容となっている。
お決まりの、気の遠くなるほど低レベルの配布プリント。みんなあくびしている。

国語の授業。
授業で教員がしゃべりすぎだ。まるで沈黙が怖いかのように、間断なくしゃべり続けている。子どもの知性を鍛えるどころではない。あれでは、雑音だ。いたずらな繰り返しや、大声の連発は、聞く人の頭をすり抜ける。
子供が、読まない書かない話さないから(そのくせ、我が儘勝手な私語は、子ども一人で三人分話す)、教員がしゃべり続けるわけだ。
無理矢理手を挙げさせて、子どもが一人でも手を挙げれば、まるでえさに飛びつくダボハゼのように、「はい、何々君」と、喜色満面である。
それでも手が上がらなければ、ついには指名する。猫なで声で哀願して、かろうじて、子どもにぼそっと、何か言わせる。教科書に書いてあることを、そのまま確認しただけなのに、それを子どもが面倒くさそうにつぶやくと、それでよしとする。教員は大喜びで、生徒を誉めまくる。

見ていて馬鹿らしくなる。これは生徒の人間性への冒涜だ。あきれるほどに甘やかし、レベルを下げ、一問一答のお答えごっこでは、子どもの方がやりきれない。

一般的に、教員は、「子どもの発言」を大げさに重大視しすぎる。子どもは、元来おしゃべりな存在だ。話すときは狂ったように話すことを、あなたも私も、よく知っているだろう。だから、むしろ書かせるべきなのだ。

子どもの私語が多くなると、教員が負けじとばかり、大声でしゃべり続ける、この悪い連鎖ははやく断ち切るべきだ。むしろ沈黙せよ。

社会科の授業。
義務教育では、一番問題のある教科である。
社会科は、教材が何でも有りのお気楽なので、授業のための準備がいらない。あっても時間が短くてすむ。簡単に言えば、授業そのものはたいしたことはない。 
英数国理に比べて、教員次第で内容を自由に構成できる教科の筆頭と言ってよいだろう。だが、それだけに、社会科教員は、よほど迫力ある授業をしないといけない。教えやすい教科だけに、教員が甘えやすい。
教員に暇ができる教科なので、「暇人のさばる」の例で、社会科教員は校内で幅を効かせやすい。しかも、授業では、歴史、憲法、国際情勢等、政治的な話題に関わることが多く、左翼的思考を子どもに刷り込む工作員の役割をする可能性もある。よほど注意してかからないと、危険である。
子どもも、なんだか漠然としている教科なので、よく分からないなりに、取っつきやすい。
単純な知識の羅列と、教員の体験談や自慢話にご満悦になる傾向がある。その結果、知性の鍛錬よりも、時間つぶし、あるいは骨休めとなる。まあ、それも必要と言えば必要だが。

中学の授業では、教員が、授業をともかくも授業らしくしようとすることに気力をつかってしまって、学習内容を知的に教えようとする余裕がない。気の毒と言えば気の毒である。
もっとも、教員はがんばってるのだから、それでいいじゃないか、と言うひともいる。
しかし「がんばったからオーライ」ですませることができるのなら、世の中すべて「楽園」である。
ずっと昔、「自分を褒めてやりたい」なんて、幼稚な芸人運動選手の流行言葉があったが、現実は、そんなに褒められたものではない。
むしろ叱らなければならないのである。

教員の実力がはっきりする三つのこと。ノート、声、向き。授業参観の見どころ。

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公立の小学校や中学校は、年に数回、授業風景を公開する。

昔で言う、父親参観日や日曜参観日と同じことである。

某中学校を例にする。

あまりお客(参観の保護者や地域の人)は来ていない。
受付をすませて、さて、どこのクラスで何の授業をしているのかの案内がない。参観者にとって不親切だ。時間表のプリントぐらい、準備しておくのが常識だ。
ふとみると、下駄箱の横に、B4大で、授業の一覧が貼り付けてある。
仕方がないので、それをいちいちメモして、まず、全クラスの雰囲気を知るために、足早に各教室を覗く。この時点で、学校の落ち着きというか、子供の学習への意欲・雰囲気が、ある程度まで分かる。

2時間目から、20分程度ずつ各教室に居座って、じっくりと観察する。

我が子の顔さえ見れば満足、というような人は別として、授業参観には、やはり見所のようなものがある。
授業では、まず教員(授業者)の技量を見る。力のある教員がいれば、その学校は一流に近づく。そのような教員は、多ければ多いほどよい。中学は学級担任制ではなく、教科担任制なので、各教科とも(国語数学英語に関しては特に)、実力のある教員がそろっていることが理想である。

教員の実力は、授業が、子どもの学力を現実的に高めるものになっているのかどうか、で判断できる。
これを無視して、子どもに優しいだの、話が分かるだの、生徒指導がどうのこうのだのは、まったくもって、教員の仕事を誤解しているとしか言いようがない。
授業あっての教員である。それができなくて、他のことが満足にできるわけがない。

詳しく教員の技量を見分けるには、参観者自身が、20年以上の教員経験があり、教科においても授業者以上の学力、見識、教授技術を持っていることが望ましい。だから、誰にでもできることではない。
しかし、そんなことを言ってもおれないので、とりあえず、見所のヒントを三点挙げる。

1 ノート
子どものノートを横からちらりと見る。
どの子どものノートも、ある一定の水準を超えていればよしとする。水準について、具体的なことは言えない。当該授業の内容による。とりあえずは普通の字できちんと書いていればよろしい。ただし、良いノートは、知性が感じられるものである。
ノートを見るには、 教室の後ろの壁に張り付いていてはダメだ。どんどん生徒の机の横にまで行って、覗かなくてならない。そんなあなたの姿を見て、授業者は嫌な顔は、しないはずだ(机間巡視は、教員の「いろは」である)。

2 声と間合い
授業者の声の大きさ、間合い、リズムを聞く。
怒鳴り上げたり、いらいらしていたり、不必要な大声や、早口はいただけない。
うろうろと動き回ったり、逆に石のように一つ所にいたりするのも、よくない。
教員個人の、独特の知的リズムによる、動きや声の間合いが必要だ。

3 子供へどう向かっているか
授業者の字が上手で、板書が多いと、参観者はすぐに感心してしまうようだが、これは大きな間違い。板書は少なければ少ないほどよい。板書なしでもよいくらいだ。
というのも、教員はすぐに板書に頼ってしまう。少なくとも板書していれば、間を持たせることができるし、黒板に書かれたものを、子どもがノートに写していれば、なんとなく時間がたつ。一見、授業をしているような気になってしまう。
板書がなくて、しかも生徒のノートがきちんととれているのが一番である。
それに、板書している間は、授業者は子どもの方を向けない。板書をしながら、背中で子どもの発言を聞くなど、もっての他である。発言している子どもの顔を見て、聞いて、対応するのが原則である。
板書は、ここぞと言うときにのみ、無言でするものだ。
説明をする必要があるのなら、書いた後、子どもが確実にノートに書いたかを確認した上で、真正面を見て(黒板を背にして)するものだ。