ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

中学校国語教員の「レベル」 付録・小学校高学年担任及び教科書会社

ある人来りて嘆いて曰く。

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地獄から舞い戻ったような尾〇某のしわがれ声を聞いていると、コロナごっこを想起せざるを得ない。某は学者と言うよりは政治屋まがいの芸人で、テレビマスコミの売れっ子で、騒動の中心にいることが、嬉しくてたまらない。声に喜びがあふれている。この男のコロナ提言は、ことごとく失敗した。
無恥無知の政府は、有識者とやらの迷言に、むしろ喜んで振り回された。責任逃れの常套手段である。国民の血税を、無闇に、無駄に、無益に、ばらまくことだけが、「政策」だった。
某とマスコミと政治屋・芸人どもは、仲良しのグルであったし、これからも永遠にグルだろう。

とか、云々。ーーーーー

 

君の憤慨はわからんでもないが、とにもかくにもコロナは飽きた。
教育の話題に戻そうか。

中学生になって国語力、特に作文の力が弱い場合、その原因は、小学校の教員の教授力が劣っていたからである。特に6年生の担任教員の能力が不足していたからである。
しかしながら、ほとんどの教員は、実力不足であって、特に国語のそれは、お粗末至極であるから、ことさらに非難するには及ばない。これが普通だと、諦めればよいのである。

問題はここからで、中学校は、教科は専科制だから、一応、「専門」であって、「国語科教員」であるはずで、書くのも恥ずかしいが、「国語の先生」である。
それがまあ、国語を教える力なんて、爪の垢ほどもありはしない。
授業中は、生徒に構わず、生徒の自由勝手に読書をさせている方が、まだましなくらいである。子供の勉強の邪魔をするのが、教員の役目であるらしい。

困ったなあ。個々の具体例は、いくらでも挙げることができるが、差し障りがある。想像してくれ。

 

しかしそれもなんだから、少しく言おうか。

教科書は、ますます、お粗末になった。なんといっても、あの編集委員である。加えて、教科書指導書なる怪しげな指南書がついてくる。教員は例外なく、当該指導書の手下で、神と仰ぎ、そこから外れたことはしない。第一、指導書がなければ、何をどうしていいやら、途方に暮れるのである。
指導書は、学生院生出版社社員らの思い付きの書き殴りである。
加えて、問題集で売る会社もあって、止せばいいのに、出鱈目な解釈や能書きつけて、さも深いものがあるごとく、もったいつける。どうせ、原文が原文である、タカの知れた雑文風情に、解釈もへちまもあるものか。

国語力のある教員ならば、このインチキを、即座に見破ることができるが、それはそれ、どこでも人材不足であることは、あなたの会社と変わりない。

 

熱心な教員もいることはいるが、どうも様子が変である。

道端で拾った小石を、桐の箱に入れて神棚に飾る。または、路地に生えた雑草を、神仙の薬草のごとく扱う。対象が見えていないのである。

校外学習(テーマパークへの遠足!)の内容をまとめる体裁で、A41枚のパンフレットを、子供一人一人が制作する、とかの学習がある。ふざけた内容だが、今の中学一年生の教科書なんてその程度である。実にお粗末な内容なのに、準備万端整えてやって、その挙句が、とんでもないものを提出する。それを教員が「評価シート」で細かく「分析」する。その結果を、成績資料として延々とパソコンに打ち込む。

あのな、そもそも、子供の提出物は、下書き未満のレベルである。あんなもの、即刻、全員やり直しをさせろ。にもかかわらず、ありがたく押し頂く。まあ、出させたのは教員で、その指導の結果だろうから、子供も教員も、これまた同穴のむじなである。大半の責任は、無能教員にあること自明である。

学校教育は、永遠に不毛の砂漠なのであろうか。たぶんそうだろう、と書くとなんだから、いやいや、変化はあるだろうと然伝う。

 

 

初出 2022年0320

改訂 2023年0929

学級の荒れの原因は授業が下手で余裕のない担任教員にある

小学校高学年(小学5・6年生)の学級が荒れている原因のほとんどは、「学級担任の余裕のなさ」に原因がある。

中学校1年生及び2年生(3年生は事情が異なってくる)の学級の荒れは、学級担任の「学力・指導力の力量不足」である。

高校1年生及び2年生(3年生は事情が異なってくる)の学級の荒れは、生徒教員ともに「自業自得」である。

 

こう言うと、いかにもステレオタイプだが、事実だから仕方がない。もっとも、この事実も、地域や年代及び偶然の作用によって、変わるので、決定的とは言えない。

まあ、こういうこともあるのだ、くらいの気持ちの方が、お互い楽だろう。

 

いちいち説くと、くだくだしいので、今回は小学校教員について。

さて、一番の迷惑は子供たちであって、あの可塑性に富む年代の子供らが荒れるのだから、よほどのことである。

荒れの原因は、担任教員の余裕のなさに原因がある。鈍いのである、遅いのである、経験が少ないのである、学力不足である、授業が下手すぎるのである。相手への共感力・推察力がないのである。想像力が欠如しているのである。

数々のケースを見て、つくづく感じることは、「若い女性教員」の多くは、学級経営がうまくいっていない。男性教員のほとんどは、学力不足である。

小学校教員は、児童生徒時代に、学級または学年で、首席になった経験がない人が多い。よって、子供やその保護者に対して、圧倒的な学力の自信を持てない(たかが中学や高校の期末試験等で1番だったくらいが「自信」となるのか。それがなるのである)。読書量が不足しているから、知識のストックがない。話すことが面白くなく、子供の興味をひくことができない。授業技術がワンパターンで硬直していて、そのことにすら気が付かない(だから、「鈍い」のである)。

子供と一緒に運動が十分にできない。義務教育期の教員は、スポーツ万能とまではいかなくても、運動が苦手なようでは、話にならない。商売替えしたほうがいい。

十代前半の子は、運動によって心を開かせることができる。音楽や絵画では役不足。ともに汗を出して動くスポーツをしなければならない。

美男美女であった方が望ましい。しかし、あなたが、たとえ美男美女でないとしても、心配はご無用。子供には、恐るべき可塑性があるから、担任の風貌にはすぐに慣れてしまう。若い女性教員には、つらいことかもしれない。男性教員は、その点、やや有利だ。男女とも、自己の容姿容貌は、身体の健康とともに、余裕の大きさにつながる。

 

若い女性教員が担任する学級は、陰湿で、いじめが多く、どこか不満を抱えている子が多い。教室の雰囲気が、何かしら不安で、不穏かつ快活でない。特に女子児童に問題が多い。

なぜなんだろうと、長年考えてきた。そして、若い女性教員でうまくいっている学級の特徴は何だろうと、考えてきた。

その答えの、あまりに単純、かつ露骨で、分かりやすさに、なるほど人間は、人の心は、子供は、なんて素直なんだろうと、納得する。

どんな答えかは、書かないでおく。ここまで読んだら、想像できるだろう。

 

 

教員レベルと子供の学力 講演会の知ったかぶり スマホ脳

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教員志望者が減ってきているという。志望者が減れば、レベルも下がる。

女性にとって、教員はおいしい仕事であることには変わりはない。男女完全平等どころか、男性教員よりも優遇されていることが多い。

 

教職に人気がないのは、子供をおだて上げるあまりに、教員への敬意が相対的に下落したからだろう。
立場がないというが、本当にないのである。
ちゃんと場所を確保するには、教員の仕事内容を確認する必要がある。

教員は、要するに、児童生徒学生に学力をつけさせればいいのである。それ以外は、必要ない。学力向上に付随して、人間的感化が生じる場合があるにしても、子供の学力を向上させることができないとすれば、教員の意味はない。

子供の学力を上げるためには、教員自身も持続的に学ばなければならないが、これがなかなか難しい。
たとえば、小学校教員の場合、教えることに自信がない。医者などに比べて、専門職としてのプライドが感じられない。
そりゃあそうだろう。所詮、子供相手である。しかも、立派に躾けられた相手である(親を見てくれ)。
授業レベルも、下が見えないくらいに、落とさなければならないのだそうである。文科省のお達しである。
教員は、自分の知力や授業力や教養が日々向上している、という実感を持てない。「お子様」とその後ろに控える「親」とに、遠慮しつつ、お仕え申し上げることが、主な仕事内容になりつつある。

ついでに言えば、初等中等教育で一番大切な科目は国語なのに、文科省は、日本語を破壊しようと躍起になっている。
誰もが驚くほどの、お粗末至極な国語教科書。
耳を覆いたくなるような、発表会と称する、やらせのパフォーマンス。おまけに総合学習とやらで、発表会もどきをさせたがる。

源氏、平家、徒然、方丈、舞姫、李陵等々、日本語の名文をこそ、暗記させ暗唱させるべきなのに、たまにそれを学ばせようとする奇特な教員がいたら、保護者も行政もよってたかって邪魔をする。
彼らには、お粗末な教科書の駄文の方が、よほど大切なのである。

しかも、近年、国語を押しのけて、外国語を重んじようとしている。どうせ大勢の外国人フリーターを、日本の税金で養ってやるために、日本政府や財界の得意とする姑息な手段の一つだろう。

学校で使う教科書の中身は、
日本人のモノの考え方に少なからぬ影響を与える。国民の日本の伝統文化や外国への対し方に違いが出る。日本人としての誇りを培うのか、逆に日本国を貶める考え方を是とするのか。

本当にそうか。

実のところは、教科書なんて、どうだっていい。もちろん、表向き、教員は教科書を使って授業する。教科書の内容を尊重するふりはできる。
しかし、実際には、教科書よりも、教員と子供との、授業を通した人間関係のほうが、よほど大きな影響力がある。

たとえば、教員が、日本史の教科書の表現に疑義を述べるとする。児童生徒学生との関係によっては
、教科書よりも、教員の言説を信じる。
教員が、教育の中心なのである。教員の教養や体験をもとにした指導は、ほとんど、教科書の記述を無効にするくらいの力がある。

教員にも子供にも親にも、日本の教科書はおかしいという意識を持つ人が多い。特に、社会科や国語科の教科書に、日本の伝統文化を否定し、歴史を歪曲する記述を散見する。その教科書を使って、冷静に授業を構成するのは、教員の役目である。

こう言うと、いかにも、教員の恣意的な指導が行われて、危険なようだが、そうではない。一方的なイデオロギーに凝り固まった教員に、子供はついていかない。
子供は大人が考えるより、ずっと大人である。相手を見抜く力がある。
とはいっても、子供は、子供である。教員に簡単に騙されてしまうこともあるだろう。
だから、教育の眼目は、子供に自分で考え判断する力をつけることである。批判的な読み方や、思考を鍛えるための学習力を育てることが、教員の役目である。
教員の言説を無批判に信じ込ませることではない。まして、ネットやテレビ等のマスコミのオウム返しをさせることではない。

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しかしながら、ここに大きな障害がある。ネット動画である。スマホである。これらは、落ち着いて考えて判断する隙を与えない。扇動情動、判断停止、大勢同調を得意とする。

人は、自分を他人に託すことが、大好きだ。他人の大言壮語を聞いて、自分で言った気になる。気分がいいのである。偉くなったような気になるのである。一時期(今でもそうか)、妙に流行った講演会と称するほら吹き漫談が好例である。

今日、ネット動画には、あることないこと、吹聴する者どもで溢れかえっている。講演会は、なるほど、毎日のように開かれている。フォーラムだそうである。ぷれぜんてーしょんだそうである。議論である。偉いのである。物知りなのである。

まさに笑止千万。スマホから顔を上げて、図書館に行って、良書を探して読むことが、まさに善きである。

 

 

初出 20170814

改訂 20230906

 

教育の敵 マスコミは愚劣な扇動者 テレビは悪そのものである

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学校現場は、無駄口ばかりたたいて、肝心なことは知らぬ存ぜぬで、頬被りをする。
子供が家庭に持って帰るプリントが多すぎる。何かと見れば、内容は各種団体の宣伝である。
保護者向けの「お知らせ」や「学校便り」に「学年便り」「学級だより」「教科便り」だって。いい加減にしないか。

こんなことまでも、という些細な事々が縷々書いてある。なーに、あらかじめ配っておいて、問題が起こったときには、免罪符にするつもりである。毎日毎日、山のようなプリントである。資源の無駄だ。
これでは、本当に大事なことが見逃される。

子供が親に説明すればよいことまでも、わざわざ
プリントして家庭に配る。子供の能力を、信用しないどころか、馬鹿にしきっている。
学習指導要領には「公民的資質」「伝えたい事柄を」「聞いて話せる」子供を育成、とあるが、ご立派なのは字面だけで、実際は、この体たらくである。

事あるごとに(ない時も)、プリントを配布する。子供も「それなり」になってしまって、簡単なことですら、言葉で説明できない。親へカバンごと投げつけて、「プリント見て」としか言わない。
学校が先頭に立って、親へも子へも、無限の甘やかしをする。

授業も同様に、教員は授業時間中、薄っぺらな事々をぺらぺらと、しゃべり続ける。これこそ授業だとでも、言いたげである。

近頃の子供は人の話をしっかり聞かないというが、あれは大人がしゃべりすぎるからである。ご丁寧に何度も繰り返す。聞く方も、注意深く聞く必要がなくなってしまう。テレビ画面の無用な字幕と一緒である。

子供を本来以上に子供扱いするのである。褒めすぎである。あるいは、見下しすぎである。
いつでも分不相応なほめ言葉を受けていると、狂ってくるのは、大人も子供も変わらない。

学校では、子供のご機嫌(及び、親のご機嫌)をとるために、めったやたらに、ほめる。
少しのことでも、まるで天地がひっくり返ったように大騒ぎして、最上の形容でほめる。

テレビで、低級な素人芸(いわゆる「お笑い」、「バラエティ番組」「ニュースショウ」)が流行るにつれて、無理をしてでも、笑ってやったり、拍手してやったり、ほめてやるような空気が蔓延した。

学校は、社会の縮図で、子供は大人の鏡である。マスコミという、低級なお調子者の愚劣な扇動が、学校現場に影響しないはずがない。

教室では、ことあるごとに子供たちが「エー」と奇声をあげる。なんのことはない。テレビ番組で、若い女性を大勢集めて、馬鹿を言わせて、互いに嘲り合ったり驚いたりの見世物をする。そのときの「合言葉」のようなものが、この「エー」という大袈裟な反応である。近頃は、若者言葉の符丁「はあ?」が大いに流行っている。
かくの如き俗悪なる番組をでっちあげて、薄笑いを浮かべている者どもと、その媒体たるテレビとは、やはり疑いようもなく、悪そのものである。

 

初出 20200109

改訂 20230904

 

道徳授業 日本国史 世界資源競争 強靭な人材

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過日、某小学校の道徳の授業を参観した。ジョバンニだかトルネードだかしらないが、外国の低劣な短編を読ませて、粗筋を互いに言い合う。狙いの定まらない、嫌な授業だった。
道徳なら、道徳らしい「教材」を使うがいいだろう。

道徳の教材は、日本の歴史である。定評ある古典作品である。
国史には、人の道の教訓が満ち満ちている。
これこそが、道徳という名の「授業」で使用する教材である。
道徳は、常識というより、教養である。読書で培われるべき教養である。

実際の道徳教科書は、切れ切れの駄文集であり、悪書である。
小学校や中学校のそれに目を通せば、教科書作成者たちに、道徳の「教養」の、一片だにないことが、わかるだろう。
あれは、道徳では、断じてない。
自信のない大人たちの、雑文の寄せ集めである。または、「近隣諸国」に、「過剰な配慮」をした「ごますり文の集積」である。

(「教科道徳」の「廃棄」についてはいずれ述べる)


ついでに言えば、大人は、子供が毎日せっせと勉強して当然だ、と考えるが、子供の方は、遊んで当たり前だと思っている。
子供の分際で生意気だ、身の程知らずだと、子供に向かって注意する大人が、いなくなったためである。
せいぜいそれに近いことを子供に向かって言えるのは、学習塾の有名講師くらいのものである。

公立学校の教員は、ずいぶん変わった。児童生徒に対して、その背後の親に対して、ついには校内の教職員に対しても、びくびく、おどおどするようになった。
それもそのはずで、子供や親や地域の住人から、四六時中「評価」される。その結果によっては、減給や配置換え、馘首もあり得ると、脅された。
校内でも油断できない。自己評価、他者評価、第一次評定、第二次評定と、評価されっぱなしである。
教員の仕事は、綱渡りである。授業で何が起こるか、子供たちが何をしでかすか、見通しのつかない日々を送っている。その動作言動に、いちいち評価・難癖をつけられては、のびのびとした演技ができない。

左様さな、授業とは、一種の演技である、世阿弥の「離見の見」を意識しなければ、効果的な授業ができない。自分で自分に酔ってしまっては、落語家が自分で笑ってしまっては商売にならないことと同様である。


教員は、もっと大切に扱うべき代物である。表向きだけでも良い、それなりの対応をしないと、ろくなことにならない。
教員への、商業的管理は、結局、子供のためにならず、日本のためにならない。諸外国が、にんまりするだけである。

日本の人材の衰退は、外国の利益になる。

地球上の限りある資源の取り合いは不可避である。国家間の平等は、永遠にありえないし、あってはならない。すべてを平等にしてしまうと、人間の人性に反する。完全な共産化は空想であるし、恐怖である。

競争は、人類の発展繁栄の原則で、フィールドで走るには、強靭な体力知性教養識見ことごとく秀でた日本人が必要である。

人材は、育てて作らなければならないのである。学校教育だけが、その場ではないが、重要な土壌ではある。

 

学校には優れた教員が必要なのだ。日本が、安全で豊かな国であり続けるためには、教員をうまく使役して、のびのびと十分に働かせてやろうではないか。

 

初出 20170802

改訂 20230903

 

私立中学も公立中学も同じなら 無料の国公立がいいよね

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公立中学校の噂は、よくなかった。
公立中学の生徒は、反抗的だ。素直でない。学力がつかない。高校入試で苦労する。教員は教科指導よりも、生活指導に追われている。悪い仲間に引きずられやすい。
ただでさえ、難しい時期なのに、学校があれでは、親も子も不安はつのるばかりだった。

しかし近年、公立中は、評判を持ち直しているようだ。
世間は不景気になった。無理して有名私立に行かせなくても、まして、二流または二流未満の私立に行かせるくらいなら、公立中学校で十分と考える親が増えた。公立の生徒も、以前ほど無茶苦茶に暴れなくなった。これも時代だろう。

 

公立は、ただである。私立は金がかかる。金がかかった割には、得がない。むしろ、私立の教員は、公立の教員より低レベルで、生徒の学力を十分につけることができないのではないか。
月謝を払って、高い制服を買ってやって、遠くまで通わせて、その挙句が、この体たらくである。私立学校の良いところは、いったい何だろう。

ただし、一流中の一流は、というより、そのように世間で勘違いされている私立中は別物である。教員の実力なんか、最初から問題ではない。親子ともども、学校名のみで、当該私立学校の大ファンなのである。
つくづく、ファンとは有り難いものである。

 

私立学校に子供を受験させようとする家庭は、穏やかではない。
まず入れるかどうかが、はっきりしない。人気校に合格するのは簡単ではない。小学校入学以来、金銭的にも体力的にも、何年間も無理を重ねてきた。学習塾や家庭教師にも、ずいぶん投資をしてきた。
数校の受験料だけでも何十万の出費である。子供のプレッシャーも並ではない。
どこか日本の教育はおかしいのではないか、と考えたくもなる。


私立志向の親子が減ってきたのは、西暦2000年頃からである。
小学校は地元の公立に行かせる。私立の中高一貫の進学校に入学できる実力があっても、公立中学校(国立大付属中も含む)で十分だと考える親が増えてきた。
公立中には多くの問題があることは承知している。しかし、無理をして学費の高い私立へ通わせたところで、実利がない、と判断したのである。
第一に、今のご時世、親が高収入かつ安定した職でなければ、子供の学費を払い続けることに不安がある。
第二に、私学に行かせたからといって、希望の大学に入れるとは限らない。
第三に、首尾よく、志望大学に滑り込んだとしても、よい就職先がない。つまりは、元の木阿弥である。
だったら、最初から無理したくない。させたくない。できない。
普通の公立に行って、普通に卒業すればよしとする。それで就職があれば幸せで、なければ、どこなりと探すだけである。
たとえ、三流四流と呼ばれる大学でも、一応の生活ができて、本人なりの自負と幸せとを感じることができれば、十分どころか立派な職業人である。そう観念するのが、大人である。

 

進学も就職も、子供本人が、その気になって努力しなければ、競争に勝てるわけがない。
学校も同じことで、本人次第である。
私立もだめ、公立もだめ。そう考えるなら、結局は、どこでもいいのである。

 

初出 20210920

改訂 20230902