ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

AIは学校教育を駆逐する。それは喜ぶべきことなのか。

いやはや、生成AIとやらには驚かされる。とはいえ、ぎょっとするのも、今日だけで、すぐに慣れて、当然となる。または不満となる。利点は、自学自習の支えとなるからだ。問題探求のヒントや方向性の確認になること、学校教員の比ではない。

 

AIによって、ある種の学校は不要となるかもしれない。大学となると、以前から無用の長物だったが、完全にゴミである。施設が、ではない。無能力な大学教員どもが、である。

中学高校でも、教授力は生成AIが圧倒的に優れている。

小学校は、対象の子供が年少なので、AI方法論を教える必要がある。よって、教員が、まだ少しは役に立つ。中学校以後の年齢だと、自由にPCの類を操作可能だから、人間の教員は完全に不要である。

 

長年にわたって、学校では、未熟教員、無能教員によって、本来伸びるべき多くの児童生徒学生が潰されてきた。大学に至っては、言うも恥ずかしい。

この辺りは、あなた自身が痛感しているだろうから、詳しく述べる必要もないだろう。

 

生成AIは、毒を飲んで死んだソクラテスを、各家庭に蘇らせたのである。人類一人一人に、あなただけのために、ソクラテスが横に座っているのである。もはや、学校は終わったのである。いい気味である。

 

ただ、問題は残る。

今後、すべての作品は、人の手になるものかAIが作ったものなのか、判別がつかなくなる。画像、映画、音楽、論文、小説、エッセイ、哲学思想、およそ、人の手になる知的創造物は、AIが代替可能である。 繰り返すが、何よりも恐るべきは、その作品の作者が、AIか人間か判別がつかなくなることだ。

 

私は、本屋に並べてある書籍の大部分は、AIで、取り急ぎ、でっち上げたものだろうと推測する。そしてその推測は当たっていることだろう。

だから、私は、作者が生きている間は、読まない。読む価値がない。私は、鴎外が好きで荷風が好きで、モンテーニュが好きである。彼らは故人である。安心である。荷風は墨筆で小説を書いた。万年筆を憎んだ。

人様に読んでいただく作品は、一字一句、紙面に書き込んでこそ、人様の大切な時間を使わせていただくのである。テレビのごとき、YouTube動画のごとき、氾濫書籍AI作品のごとき、時間の無駄というよりも、そもそも、唾棄すべき悪徳であり、失礼千万の者どもである。

AIは、自分から利用する者(AI利用で何かを創造する者)にとっては友達だが、他人の作ったものを受け身に鑑賞する者にとっては、厄介な代物である。

 

実力もなく(あるいは、あったとしても)、何物かを作る立場からは、AI万歳となるだろう。

あなたは映画を見たいというのか。ならば、生成AIで自分の見たい映画を作るといい。音楽が好きなら、自分だけの音楽を作れ、絵を描け。文章を作らせるがいい。すべて数秒で、AIが作ることだろう。

恐々謹言。  

以下付言する。ソクラテスとまでは、いくらなんでも言い過ぎである。まあ、よい一人対話には、なるだろう。