ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

アクティブラーニングで、うまく立ち回る教員。授業の目的と教員評価システムごっこ。

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授業の目的は、子供の知性を高めることである。
しかし、実際には、全然理解されていない。
子供にではなく、教員に理解されていないのだ。

知性を高める授業とは、何だろう。
授業前と授業後では、何かが変わった、向上した、と子供自身がはっきりと自覚できる授業である。何かがわかる、何かができる、という実感を、子供が持つことのできる授業である。

曖昧で鈍感な「授業のようなもの」ではない。
子供が本来持っている(であろう)知的欲求を抑えつけ、踏みにじるような授業、子供の学習意欲の種を、押し潰してしまうような授業ではない。

知性的な授業で育った小学生が、中学校では、授業が「全然面白くない」と言う。

「当たり前のことを、ゆっくりやっている。退屈で仕方がない」と不満を言う。
数分で理解可能なことを、もたもたと50分もかけて、堂々巡りをしている。
教員に指導内容の見通しがない。当該教科の全体把握がない。授業に、知的なインパクトを感じさせる迫力がない。

ある子供が、小学5年生で知性的授業を体験したとする。担任が替わって、6年生で「反知性的授業」を体験したなら、その子供は、はっきりと授業の違いを「認識」し「評価」できる。
しかし、残念ながら、それ以下の学年では、「冷静な感想」を持つには、子供が幼すぎて、授業の優劣を判断することができないことが多いようである。
だから、小学校では往々にして知性的な授業ではなく、その反対の授業が行なわれていても、問題になることが少なかった。
その結果、目的が曖昧で時間つぶしのような授業が、日本全国津々浦々の小学校で、大手を振ってまかり通っている。
しかし、さすがに6年生や中学生になると、判断可能な子供が多くなってくる。そうなると、ごまかしがきかない。
小学校から大学院までの多くの教員は、子供の授業判断力を、甘く見ている。現実を理解できないのではなく、認めたくないのである。

反知性的な授業の強制によって、子供から学習意欲を奪い、大切な学習時間を無為に過ごさせている教員が多い。

だからといって、教員の能力を一朝一夕に、変化させることなど、不可能である。
国家公務員などで一般施行されている「能力」等の評価制度を、学校教員にも、あてはめようとした。すでに実施もされている。
しかし、簡単に敷衍できるものではない。
よほど慎重にかからないと、文科省の数ある失策の一つである「学習指導要領改定ごっこ」と、同じ轍を踏むことになるだろう。

と言うのも、学校教員の能力評価は、教頭校長教育事務所職員や、その教員が受け持つ子供やその親の印象等が、複合されるのであるが、これが結構いい加減なもので、しかも、運不運に左右されることが多い。
それに加えて、見識も授業力もない教員が、要領よく立ち回って、管理職や教育事務所等の評価者の側に入り込み、人事評価をする。
こういった連中は、先輩後輩の巡り合わせや、自己宣伝に専念した結果であることがほとんどで、実力や業績云々の世界とかけ離れている(おそらく、あなたの会社もそうかもしれない)。

それに第一、評価したからといって、当該教員の能力が変化するわけでもない。豹変するのは君子だけである。並みの馬は馬であり、犬は犬である。


現代の親や子供は難しい。社会も家庭も、さらに暗く難しい方向へと、黄昏る。
教員が、信念をもって、事に当たることは、ある意味では自殺行為に等しくなる。
結局、事なかれの、ご機嫌取りの教員ばかりにならざるを得ない。それを平気で疑問なく行動できる人が、大方の高評価を得ることができるのである。

地域の評判、子供や親の感想、教育事務所職員との対応等々、教員を評価するには、不確定要素が多すぎる。他業種と同じような評価システムは、似合わない。
こんな単純なことすら気づかないとしたら、やはり、とことん駄目になるしかない。
「生きる力」や「総合的学習の時間」、ついでに「アクティブ・ラーニング」とかで、学習内容を破壊して、世界中の物笑いである。
日本の教育は、ますます悪くなるだろうし、これからも、悪くなり続けるだろう。
ある種の崩壊であり、新自由主義とかの軽薄な「グローバル社会」になっていくのだろう。