ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

授業はゆっくりがいいのか。嫉妬、ジャーナリズム、お手軽な講演会。読解力と国語の授業。

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ある人曰く。

人は、嫉妬から逃げることはできない。
嫉妬のもっともわかりやすい例は、共産主義である。
あれは、優れた人間、優秀な才能に対する嫉妬から出た陰険な思想である。
今から何十年か前、全国の大学の経済学部では、まことしやかに、搾取だの資本主義の走狗だの、松下幸之助は極悪人だのと、真剣に「授業」されていた。

読書は明らかに不足しているくせに、受験技術だけは得意だった「純真」な学生諸君は、ころっと共産主義革命のキャッチフレーズに騙された。
今では笑い話だが、時代の雰囲気である。騙されてしまうのも、無理はないのであろう。どうせ学習塾とテレビ育ちである。

テレビと新聞とは、軽率なおもちゃで、人を操作し時流に埋没させるには、便利な道具だ。頭を少しでも冴えた状態にしたいのならば、テレビと新聞は止めるがいい。
それができないのなら、あれは、そもそも嘘つきの道具だ、と思い知ることである。

ジャーナリズムに蠢く輩は、もともとが根無し草で無責任である。何でも批判するのが大好きだが、そのくせ、自分たちが批判されると、急にいきり立つ。
ジャーナリズムやジャーナリストへの批判は、タブーである。批判をするにも、ジャーリズムを通して、せざるを得ないので、ジャーナリスト諸君はご安泰だった。どっちに転んでも、マスコミは永遠である。

人は、自分で考えるより、他人の頭で考える方が、または、他人の言説をオウム替えしに言うことの方が、よほど楽しい。
お手軽な「教養」ごっこである。講演会と称するバラエティである。あれは一種の自己満足である。「教養」という名のファッションもどきである。講演会は、昔も今もこれからも、流行るだろう。しかし、その効果のほどは定かではない。

人の話を聞くだけで、読んだり書いたり考えたりすることの代りにしようなんて、あまりに虫の良い考えである。
それでも(だから)、私たちは、講演が大好きなのである。講師先生は、口パク芸人で、多額の現金収入になるからご満悦である。


唐突にお話変わって。
授業をゆったり、ゆっくりとしよう。これは、わかりやすい考えだが、時間をかけて授業をしたところで、学習効果が向上するわけでもない。むしろ、速度が大切である。授業時間は、さっさと目的に向かって集中させて、休憩時間には、ゆっくりと遊ばせてやれ。

進度が遅い授業は、子供の気が散ったり、根気が続かない。
簡単な問題を短い時間で数多くすること、そしてだんだんと難易度を上げていく。
スピード感がある方がいい。いわゆる「基礎基本」を身につける学習段階では、学習速度を上げていくことは非常に大切である。

のろくてもいい、ゆっくりがいい、なんて言うのは、およそ勉強を集中してやったことのない連中の言い草で、冗談で言っているのか、さもなければ、何らかの為にする怪しげな発想である。本気で信じ込んでいるとしたら、想像力の欠如である。
教育がゆっくりだったとしたら、我々は自家用車を持つことができなかったろう。よくてチャイナの街角で見られるように、自転車で仕事場に出かけていただろうし、最悪の場合、白人の奴隷になっていたかもしれない。
経済成長の恩恵は、速度のある学習によってもたらされたのである。


話を元に戻すと、お手軽な勉強なんてものはない。

忍耐強い繰り返しと、知的好奇心の持続しかない。
講演会が流行るのは、むしろ、軽率の極みである。
お手軽人がいる限り、そしてそれは永遠にいるのだが、マスコミ人(ジャーナリスト)は、嫉妬を武器にして、寄生虫のように生き延びるだろう。

さて、それにわずかでも抵抗するには、再び唐突であるが、小中学校の学校教育である。国語の授業である。
文章の裏にある書き手の真意を見抜けるように、児童生徒諸君の読解力を鍛えなければならない。

 

遅ればせながら記事下に、シェアボタンとかをつけた(はずである)。つければ多少とも読む人が増えるのか。増えたから、どうなるわけでもないが、無視されるよりはいいだろう。知るべき人に知られず、そうでないものに利用されるのは、まっぴら御免である。
知人はYouTubeで音声化しろという。どうやって?

私は鴎外荷風を好む。近頃、読むとすぐに目が疲れるようになった。そこで、YouTubeの素人玄人の朗読を聞くことがある。楽ではあるが、数が少ない。多くの作品が音声化されることを期待している。