ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

エリック・ロメール、友だちの恋人。話さないことは、いないこと。論理教育と言葉。

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読書力、と仮に名付けようか。
自分の判断で良書を選び、読んで内容を理解できる、というほどのことである。
漫画や流行本や、三日後には忘れられるような雑文の類は、良書とはいわない。
十年二十年百年千年残る名文で綴られた本を良書という。

ほとんどの教科書から、名文が消えた。
特に小学校の国語教科書は、名文の逆の、悪文ばかりで編集されている。教科書を読めば読むほど、害になるような代物である。その証拠に、中学生高校生になっても、大人になっても、良書を選ぶことができない。ゴミ本を平気で、ありがたがって読む。名文を知らないからである。


古典が重要なことは、誰でも知っている。
「声に出して」何とかだとか、名文のつまみ食いを編んだ者がいる。音読だ暗唱だと、これまた叫んで売り出した輩がいる。
そんなことは、当たり前ではないか。良書が大切、名文を学ぶべきは、誰でも知っている。それを発見のように言うな。読者を馬鹿にしているにも、ほどがある。

出版は、虚業である。他人を欺いて金を得る商売で、儲けのためなら何でもする。時流に乗る「とんち」を考え出して、筆者(らしき者)のところに飛んでいって、せき立てて書かせる。
その挙句を、次から次へと書店に並べる。あれは紙ゴミの集積場ではないか。資源の無駄遣いと言わずして何だろう。

責任は、小学校の国語教科書にある。現行の国語教科書は、即刻廃棄するがいい。

言い過ぎだと思うか。ならば、小学国語教科書を数社取り寄せて、読んでごらん。その感想を聞きたいものである。


ついでに言えば、初等教育では、言葉と計算とを徹底的に鍛えなければならない。
国語と算数とを中心に、確実な知識を習得させる。
「読み書きそろばん」である。「基礎基本」の中身である。これをないがしろにしてしまうと、その後の発展が望めない。

一方、中学校や高等学校での基礎基本は、論理的な表現能力に集約される。論理的思考力を鍛えて、その実践としての表現力を高めるのである。

表現力は、話すこと、書くことを訓練すればいい。しかし、論理的思考力の訓練となると、難物である。
論理は、物事を順序立てて考えること、問題をねばり強く丁寧に考えることだ。
これは結構、辛いものである。

フランス映画に登場する少年少女の多くは、多弁で理屈っぽい。日本の同年代の子供たちは、その逆である。まず、会話が少ない。
試みに、たとえばパリの街角のカフェの椅子に腰をかけて、道行く若者を眺めるといい。通りを過ぎていく人々のその中に、明らかに一種異様な一団を見かけることがあるだろう。
それは日本人の学生(20代の社会人も含む)とおぼしき女性達である。まるで幼い子どもが、海千山千のカジノに迷い込んだようにも思える。乳飲み子が、暗闇を這っているような、幼稚で頼りなく薄い雰囲気なのである。
これは「論理教育の欠如」に、原因があるのではないか。

日本の子供は、何事かについて、きちんと筋道を立てて、話さない、話せない。子どもの頭の中には、いくつかのアイデアはあるのだろうが、言葉にして説明することが下手なのである。
進んで話そうとしないし、まれに話すにしても、要領を得ない。しどろもどろである。

子供は、意見を持ってないわけではない。
むしろ逆で、多くの発想と、それを実現させようとする意欲とを持っている。
しかしながら、言葉が出ない。これはどういうことだろう。
もちろん、語るべき中身がなにもないのに、ぺらぺらと空論を叫ばれても困る。それでは、ポストモダンが売り物の大学教員連中と同じになってしまう。

ある映画(エリック・ロメール 『L'Ami de mon amie』友達の恋人)で、こんな場面があったように記憶している。

主人公の女性(A)が、その友達の女性(B)と、Aが密かに心を寄せている男性(C)とカフェでお茶を飲む。三人とも二十代半ばである。Bは、AがCを好きなことを知っているので、二人の関係がうまくいくようにとりもつ。
会話は活発に進む。BもCも、如才無く話す。Aは、あまり話さない。
Cが帰った後、Aは、泣きじゃくって、Bにこう言う。
「私は失敗した。Cに嫌われたに決まっている。だって、あまり話さなかったもの。
頭が悪いんじゃないかって思われたにきまっている。あのくらいしか話せなかったのだもの。」

何年か前に、アメリカの高校生の授業を見たことがある。生徒達は、我も我もと発言する。一見、雑然としているようだが、スムーズで、うるさい感じがしない。
他人の意見はよく聞いて、その発言を土台として、自分の考えを展開する。うまいものである。
授業後、ある高校生が言った。
アメリカのような多民族国家では、言葉がすべてなんです。黙っていても分かり合えるはずがありません。ことばで、説明しなければなりません。それに、話さなければ、 その場にいないことと同じなんです。私がここにいることを証明するには、何かを相手に向かって話さなければなりません」