ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

小中高校教員、大学教員の「実力」。荒れる学級や学校、仕事をしているふり。

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学校教育には、無駄が多い。多すぎる。

学習の伸びが、児童生徒に実感できていない。
学校には、よい教材が少ない。よい教材をどうやって選択するかが、わかっていない。
教える内容について、自信を持っていない。だから徹底して教えることがない。
言葉遣い一つをとっても、恐る恐るである。各家庭への遠慮や、子供の個性という逃げ口上で、当たり障りのない指導をする。

学校は、教員組合の独特の空気が蔓延している場合もある。一人一人は何か変だな、と感じていても全体としてある種の方向へ進んで行かざるを得ないことがある。
思い込みや間違った「信念」は、そこから出ようとするときには、大きな力が必要だ。そこまでしない。疲労から、余裕をもって考えることができない。
目前の問題に対して、冷静な判断ができない。

教員は終日ばたばたと忙しく駆け回っていると、夕方には、何か仕事をしたような気分になる。実際は、肝心なことができていない。
にもかかわらず、熱心にやっている気になって、自分で自分に満足してしまう。疲労が、心地よい。
夜遅くまで職場にいることが、熱血教員の証でもあるかのような錯覚をもつ。
長時間、職場に残って、もたもたしていても、同僚教員へのアピールになれば、十分に満足である。
まことにお疲れ様である。


教員は女子ども(おんなこども)を相手にする仕事だ、と言えば、あなたは怒り出すだろうか。
しかし、事実である。どう頑張ってみたって、それ以下でもなければ以上でもない。だから、あんまり力むな。

教育は百年の大計、なんて胸を張ってみせたって、本当にそうだとしたら、今日のこの日は、百年×12ヶ月×31日を分母として、分子の一日にすぎないはずだ。あんまり威張るな。

各学校の管理職は、表向き平静ななふりをしているが、本音は自信喪失である。元々自信なんてなかったが、世間は、校長なら、それなりだろうと、おだて上げた。勘違いで、成り立っていた「校長先生」である。現実の問題解決となると、もうダメだ。
酒かパチンコか教職員や同僚の悪口か、そのくらいしか逃げ道がない(自殺する者も時々いる)。
だから不安や自信不足(実力不足)で、精神が混乱して、逆に威張りだす者もいる。ペルソナを保つことが辛くなってくる。

だからなあ、言ったろう。
教員は一生教員をやれ。管理者は、外部から雇え。教員上がりで回そうなんて、バイオエネルギーではない。
教員も教員で、前の席に座って(教頭・校長の机)、ようやく所願満足なんて思わないほうがいい。泣くようになる。
泣くのが当人だけならいいが、周りまで泣かせるようになる。はた迷惑だ。

平成の世は、管理職には過ごしやすい季節だった。以前ほど、教職員組合に力がない。教員達も元気がない。日々の授業でアップアップである。
校長にとって、こんな順境の時代はかつてなかったのである。これからどうだろう。

さて、
居酒屋にもいろいろある。何度か行けば、なんとなく、店の実情がわかるものである。
従業員同士が張り合って、その挙句、仕事を辛いものにしている場面をときどきみる。

どの職場でも同じことで、みんながもう少し利口になればいいものを、変なところで張り合ってしまう。
学校は特にそうで、学校教育の目的は、簡単にいえば、子供の学力向上である。その他の利いた風なキャッチフレーズは付け足しに過ぎない。できもしない空想か、怪しい妄想夢想の類である。
であるのに、なんやかかやと余計な事を盛り込んで(その方が熱心そうに見える)、その挙句、小さな成果すらも上がらない。
器用貧乏というか、スケールが小さいというか、なんとも情けない。

たとえば、子供が家庭に持ち帰るプリントである。一字一句、神経質に調べた後、配る。法律の起案じゃあるまいし、たかが、明日は運動着がいる、という程度の連絡だろう。一々、こだわるな。
第一、小学4年生にもなれば、そのくらいのことは、口で話して聞かせて、子どもに書き取らせろ。
なんでもかんでもプリントにして、しかもそのプリントも、学年主任が見て、教頭が見て、校長がチェックして、ようやく配布となる。馬鹿馬鹿しい。

あれもこれも、自信のなさの現われである。ほんの些細なことでも、指摘されるのが嫌なのである。
指摘ごときに、おどおどとびくつくのも愚かだが、重箱の隅をつついて、鬼の首とったように喜んで指摘する親も、親である。
しかし、実際には、親は、そこまで暇人ではない。
であるのに、学校側が、先手を打って、おどおどと自己検閲をする。

文化伝統を教えているのだろう。仮にも「先生」なんだろう。もう少しは自信と重みとを持つがいい。


しかし、小学校は、自信の持ちにくい職場である。
小学校教員のほとんどは、学級担任だから、実力が、すぐに子供に反映される。
それを嫌って、組合系の教員達は、ソ連コルホーズソホーズを見習って、団結だ、みんなで育てるのだ、話し合いだ、共同だ、と声高に叫んで、数少ない優秀な教員の足を引っ張った。
もちろん教育委員会も(元々自分たちが組合系だけに)、同じように、突出した教員の頭を押さえつけた。
教育事務所の経験不足の指導主事にとって、優れた教員は「指導」がしにくく、苦手である。研究会でも、教員に論破されて、陰で恨んだ。恨みは人事で仕返しした。

「みんなで、仲良く、助け合って、思いやり」という、共産主義国の宣伝パンフレットのようなキャッチフレーズが、何十年来、公教育の現場を支配した。

さて、中学校の教員は、がんばっている人とそうでない人との落差が大きすぎる。
しかし、頑張ればいいというものでもない。
十分な教養、指導力、授業構成力がないとしても、だからガンバレではない。
教員として授業力・指導力が不足するのなら、どれほどがんばっても無駄である。
外科医を考えよ。執刀技術の未熟な者が、胸部大動脈瘤の緊急手術を失敗した。「でも、ぼく、がんばりました」ですませられると思うか。
むしろ、優秀な技術を持つ医師の、淡々とした手術で、その患者の命を救ったほうがいい。手術中の鼻歌も構わない。

「子供に厳しく学力をつける」という意欲があるのかどうか、それを現実の授業で工夫して行っているかどうかが、問題なのだ。続ければ、少しは上手くなるだろう。子供の学力を、多少なりとも高めることができるだろう。

しかし、これがなかなかに難しい。だれでも、楽をしたい。中学教員が自分に甘えて、授業がいい加減になるのには、原因がある。

第一に、中学校では、「教科担任制」なので、教科の中に逃げ込める利点があるからだ。
英語の教員の授業がどんなに下手でも、音楽の教員が、英語教員に文句を言うようなことはない。
理科の教員に向かって、体育の教員が、「もっとまともな授業をやらんかい」と叱咤することは、まずないだろう。親も、美術の教員に向かって、「お前の数学力がどうのこうの」とは、言わないだろう。

ところが、小学校ではあり得る。大いにあり得る。日常茶飯事である。
というのも、小学校教員は、何でも屋であることを義務でづけられている。
男女を問わず、採用試験にピアノの実技があり、歌わされ、平泳ぎクロールまでやらされる。鉄棒や100メートル走をさせるところもある。教科の知識は一般常識に加えて、英数国理社家庭科音楽図工体育等々まんべんなく必要だ。

幼稚園教諭から大学院教員の採用試験にいたるまで、これほど、多数科目を課されることは、小学校教員採用試験意外にはない。スーパーマンも顔負けである。
幸運なことに、小学校教員は、実際に「スーパーマン」が多いし、そうであることを期待されている。まことに恐ろしい職業である。

第二に、中学校教員の授業には、多くの人の監視の目が行き届かない。
お山の大将である。小学校に比べて、中学校に政治活動に熱心な組合員が多い理由の一つである。
この傾向は高校になると、もっと顕著で、教員組合に入らずば人間にあらず、という扱いを受ける。非組合員は同僚から影に日向に意地悪をされる。
韓国シナ朝鮮ソ連の同志達に、親愛なる情を持っていないような不届きな教師は、たちまち学校から追い出された。

ついでに言えば、高校教員は実力以上にプライドを持っている。たまたま、採用先が高校であったに過ぎないのに、義務教育とは違うんだ、と変な意識が先に立つ。
授業の下手くそなことは、中学校教員に負けない。
下には下がいるもので、高校教員よりもっとひどい授業をする輩がいる。いわずもがな「大学教員」である。


授業は、やはり小学校教員が上手である。そうでなければ、学級をまとめることができない。
子供の興味関心を刺激しながら、基礎を無理なく教えて、知的なものへの憧憬を育て、よりいっそう高い段階へと引き上げる。こんな授業は、ある種の「芸術」ともいえるだろう。
あなたが、小学生の時、そんな授業を体験したのかどうか。または、あなたが現職教員なら、そんな授業ができるかのどうか、は知らない。だが、実際にそんな授業をする教員がいることも事実だ。

第三に、中学教員が、自分の学力や授業技術の向上を無視してもやっていけるのは、「生活指導」という「強い味方」があるからである。
中学生を持つ親は、我が子に手を焼いている。世間も、中学生は難しい時期だ思っている。だから「生活指導で忙しい」という逃げ口上は、けっこう使える手である。

その定説に乗っかっていさえすれば、並か並以下の授業をしていても、世間や同僚や親をごまかせる。
しかし、学級の子供をごまかすことはできない。子供は、教員の実力をはっきりと見破る。だから、中学が荒れるのである。荒れるはずである。教員の実力を見ると、納得である。