ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

勉強する子は、幸福な人生。授業は厳しい方がよい

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自分からすすんで勉強する子。それほどではないが、言われたら素直に勉強する子。
一方、ほうっておけば勉強しない子。勉強しろと叱りつけても勉強しない子。
子供は、様々である。

この態度の違いが、その子の将来を決めることが多い。
こう言うと、そんな馬鹿な、と思いたくなる。

それがそうでもない。あなたも本当は、よくご存知だろう。

生まれながらの門地性別容姿で、大きな差別をしない国は、世界広しといえども、日本だけである。不気味に平等な国が日本である。
では、いったいどこで差をつけるのだろうか。
勉強である。

だから勉強したくなければ、それはそれでいい。そのような現在を選び、その結果としての、将来を選んだのである。各々の人生である。
幸せは百人百様で、他人が決めつけることできない。


「楽しい授業」というキャッチフレーズは、俗耳にはいりやすい。
授業(学習)が楽しいわけがない。まれに、楽しく感じたのは、錯覚である。

学ぶことに一種の楽しさは、確かにある。知識を増やし、できなかったことができるようになる、自分でも力がついてきたな、と実感できる喜びである。
だがこれは、退屈で忍耐強い学習の結果として、ようやく得ることができる。最初から、楽しい授業なんて目指していたら、授業がお遊びになるに決まっている。しかもその遊びは、学習という下心のある濁った遊びである。

子供の知性を鍛えることが、学校教育の目標だ。
そのためには、土台の「読み書き計算」を徹底することしかない。

子供には、安っぽい楽しみは、与えたくない。そんなものは、PCゲームやマンガやテレビバラエティ番組の役目である。
学校は退屈さと我慢とを学ぶ所である。それを通り越せば、すばらしい地平が開かれることを、子供自身に体得させる場所である。


授業は、抵抗感があって、厳しさと速度とが必要だ。いかにも、学んでいる、という実感がわくものがいい。

あなたにも覚えがあるだろう。「いつのまにか身についていました」ということが。それはあなたの麻雀の腕前のことだ。それだって、何十日、いや何百日かの徹夜の経験の結果だろう。

授業は、仮にも人類の文化遺産である学問を、伝えるのである。
楽しさよりもまず、きちんとした学習態度と勤勉とが必要であることを知らしめよ。それが授業の役目である。
パイはそのうちいつか、十二分に打つときが来ることだろう。

「読み書き計算」が大切だと言った。その最初は、小学校の授業である。国語や算数やその他の教科などである。
小学校では、教科を学ぶことばかりではない。掃除の仕方とか、給食の食べ方なども、指導が必要とされている。この種の「勉強」も、日本の学校は熱心である。しかし、学校での主な勉強は、教科学習であるべきだ。

小学校の教科は、平成29年現在、国語、社会、算数、理科、生活、音楽、図画工作、家庭、体育の9教科と道徳、ついでに外国語活動、総合的な学習の時間、特別活動となる。

教科は、体系的な知識であって、学問である。
「学問」は、「基礎から積み重ねられた、体系的な専門知識」である。「学問する」とは「今まで知らなかった知識を教わり覚えること」である。
算数で四則計算ができるようになったり、図形の名前を知ったり、その図形が作図できたり、国語で漢字を覚えたり、読みやすい文章を書けるようになったりすることが、「学問」をすることでもある。

このような意味での勉強が、人間の幸福とどのように関係するか。その答えは、簡単ではない。
人間はだれでも「幸福になりたい、幸福に暮らしたい」と願っている。それが人生の目的といってもよいだろう。
しかし、幸福とは何かとなると、なかなか難しい。
裕福であること、社会的な地位があること、容貌や健康に恵まれること、趣味に生きるとか、家族に囲まれて、安定した生活を送るとか、名誉が与えられること、衣食住が満たされていることなどが、「幸福な人生」の分かりやすい説明であろう。

そのことと、学問はどうつながるのか。
学問は、もともと人生の幸福と密接につながっていた。学問することによって幸福にならなければ、学問をする意味がなかった。
人はどう生きるのが幸せなのか。その答えを教えてくれるものが、学問だった。
何のために生きるのか、幸福な人生とはどんなものか、という素直な問いが、学習意欲になった。
それでは、学問は幸福を見つけるための手段かといえば、そうとばかりは言えないようだ。学問そのものの中に、楽しみがあり、喜びがある、と答える人もいる。

現に、子供は、学ぶことそれ自体が嬉しい。
これは大人の都合のよい解釈ではない。嘘だと思うなら、子供に問うて見るがいい。
知らないことを知ること、できなかった計算ができるようになったこと、漢字が読めるように、書けるようになったこと。これが喜びでなくして、何だろうか。

学ぶことそのものが好き、というのが子供の本質であるなら、学校教員は、子供の持って生まれた学習意欲をうまく伸ばして行きたいものである。
しかし、遊戯に似せたものでは、いけない。厳しい授業であってほしい。