ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

教職は魅力的な「お仕事」。世界遺産の前で、子供を叱る。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

所用で安芸の宮島に行った時のこと。

朱塗りの鳥居が海にぽっかり浮かんだ景色を漫然と眺めていると、後ろのほうが騒がしい。

それもそのはずである。一般観光客のみならず、高校生中学生小学生の修学旅行だの遠足だので、子供たちと引率の大人でごった返している。

その中で、ひときわ目に付いたのが、小学生30人くらいの集団で、男の教員が顔を真っ赤にして怒っている。なんでも、児童らの態度が「たるんでいて」「修学旅行という勉強に来ているのに」「学習意欲がたりんぞ」とか何とか、言っている。
馬鹿馬鹿しくて聞いていることができない。
反省をしているような振りをして、我慢強く耐えている子供が哀れである。

ことほどさように、日本では、小学生のときから、理不尽であっても、ひたすら我慢を重ねて、他人のご高説を敬って聞きいって、仰せの通りにいたします、という態度を強いられる。

日本政府と同じかもしれない。


さて、怒鳴ることは、教員の仕事ではない。適切な指導あっての教職である。
教育現場は、綱渡りのようなところがあるので、このことは、常に考えておかなければならない。

たとえば、相手が同僚であれ、保護者であれ、児童生徒学生であれ、軋轢が起こることが予想されても、言うべきは言う。
意見を言えば、反発が予想されるので、はっきり言わなかったり、無難に済ませることを第一にしていると、ついには明らかな間違いまで、言わずにおいて、無難に切り抜けよう、という習性になる。

言ってしまって、それに対する反論があれば、聞けばいいのである。
反論が間違っていれば、無視するか、またはその間違いを指摘する。聞くべき点があれば聞いてやり、改善または変更すべき点があればそのようにすればよい。
問題は、後の面倒を嫌がって、最初から避けようとする態度である。これでは現場の変化に対応できない。

教員に限らず、無難に過ごすことが、社会人の常識でもあるが、いずれ、様々な体験が、とりわけ失敗体験が生かされていく時代になっていくだろうし、そうあってほしい。
失敗したのは、失敗するだけのことを、実際に行ったのである。その経験は、すでに財産である。
企業なり官庁なり、あるいは他の集団でも同じであろうが、目立ないで、無難に過ごすことが、良い評価となることが多かった。今でもそうである。
しかし何事も人並みか人並み以下にこなして、それで役職が上がったからといって、どれほどの満足感が得られることだろう。
待遇、収入面、名誉欲等は多少満足させられる。これらが、人生において重要なことであるかどうかは人によって違う。
これしきのこと、と思える人とそうでない人とが、いる。
だから、あえて、ことを構えないというのも、ひとつの見識である。
その逆に、断固として、初志を貫徹する人もいるだろう。これは価値観の問題で、難しい。

話がそれた。先の団体は、本殿の方に、引きずられていったようである。