ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

中学生、同級生を撲殺して川へ突っ込む。加害者と被害者の逆転

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いじめられていた中学生が、逆に、いじめたほうの中学生を撲殺した上に、川の中に叩き込んだという事件があった。
もう完全に絶命しているのにもかかわらず、石を何度も頭に振り下ろし、しかも顔を下にして川に突っ込んだ。
よほど相手が怖かったのだろう。生き返ってきたら、また、いじめられる。念には念を入れたのである。

普段から、軽い喧嘩をしていないから、こうなる。想像力の欠如である。程度というものが分からない。やりはじめたら、とことんやってしまう。

ところで、一時、流行った、子どもにとって都合のよい逃げ口上に「切れる」というのがあった(キレル、とも書くらしい)。
これを他人が言うのならまだしも、本人が真顔で言うのだから、笑わせる。
「~~なんて、言われたものだから、切れちゃって」などと使う。

馬鹿を言うな。紙の紐ではあるまいに、何が「切れる」だ。
自分自身には、妙に甘えるくせに、自分の行動が他人へどういう効果を及ぼすかについての想像はまるでない。想像力の欠如である。

かくなる原因のひとつは、テレビやゲームにある。

なぜそうなのかについて、すぐに思い当たらないのなら、それもまた、想像力の欠如だと言えば、あなたは怒るだろうか。

日本人は、子供を本来的に善とみている。
子供は可愛い、無邪気である、天真爛漫とまではいかないが、ともかく、邪悪な存在とは思わない。そして実際に、ほとんどの場合、子供は善意なのであろう。

学校教員は子供を純真な天使と解釈する。
教員は、子供に悪意を持って接することはない。あったとしても、ごくごく例外である。
ならば、善と善とが邂逅したのである。まことにめでたい。

しかし、現実はそう簡単ではない。

問題行動を起こす子供が、学級に一人や二人いても、それは構わない。子供が複数集まればいろんな子がいる。当然である。
だが、問題行動の量と質によって、危険な結果になってしまう。
非常な暴力で同級の子供に物理的心理的な損害を与える場合は、それが、一年に一度のことだからといって、看過できない。
危険な行為が一月に一度、毎週、毎日、毎時間であるとすれば、どうするのでろうか。

子供には可塑性があるからとか、指導によって今後を見守ろうとかでは、全然間に合わない。
問題行動をとる子供は、他の子供の生存と安全とのためにも、即刻、排除しなければならない。
学校職員だけではなく、児童相談所、学校カウンセラー、地域の大人等と連携して、当該児童生徒学生を停学にして、学級に近づけてはならない。

教員は、学級の全員に責任を持つ。
安全で円滑な教育活動を著しく妨げる要因は、たとえ自分の担当学級の子供だとしても、厳しく排除しなければならない。それが、学級担当、教科担当を預かる者の権利であり、責務でもある。

以上の点が、日本の学校教育、特に義務教育期である小中学校では曖昧なようだ。事態を冷静に判断することを恐れている。
教員の学級指導力や地域の教育力、子供の家庭環境等に、原因の大半を押し付ける。問題行動に及んだ子供は、むしろ被害者なのだから、我々大人が、子供の気持ちを理解し味方になり見守るべきだ、という結論になりやすい。

子供の暴力行為を性善説で割り切って、当人の性格や成育歴や家族の要因を見て見ぬ振りをする。
簡単に言えば、親と家庭環境とを無視する。
悪いのは学校であり、教員であり、学級の子供たちだということにする。
いつの間にか、加害者が被害者となって、問題行動の常習犯は、無垢な天使になってしまっている。

問題をややこしくする前に、頭を先に下げた方がいいという、教育関係者の大好きな、いつもの「保身ごっこ」である。