ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

教員も会社も、贔屓と憎しみの情実がものをいう。ファカルティ・ディベロップメントが笑わせる。

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あいつは憎めない奴だ、という。先輩上司から、何かしら目をかけらるタイプである。
「引き」が生まれ、贔屓が生まれる。
贔屓は人の常である。贔屓されるような何ものかを自身で持っていなければ、他人にそれを見つけなければならない。自他ともに贔屓の種を探す努力をしないような人は、組織で生きることが難しい云々。

というような話を、よく聞く。
それはそうかもしれないが、ご苦労なことである。
人は理屈では動かない。感情で動く。
理論や数字で動けば、世の中は簡単である。
現実はそうではない。そうでないからこそ、どろどろまたは淡白な付き合いを、人は大切にするのである。

人間の信用というが、その実態は、何度も、話をしたり、ともに飲んだり食ったりと、同じ時間を過ごした回数が作用する。要は「馴染み」である。馴染みの中から、損得が生まれ利害が生まれ、味方が生まれ、愛着もわくのである。
もちろん、教員も同じことである。
かつて、教員は、子供相手に、最初は純真ぶって、そのうちにとうとう本気になって「先生して」、定年になって、一丁上がりだった。

今はそうではない。
なれない「マネジメント」やら「ファカルティ・ディベロップメント」やらで、文科省以下、さほど適性もあるとはいえない類の教員が、企業競争の真似ごとに余念がない。どうせ、「ごっこ」である。
効果なんてない。
教員は教員らしく、空き時間に、お茶でも飲んで、一息つけばいいものを、無駄に手を広げて、挙げ句の果てには、権謀術数の外交官並の手管を使おうとする。

慣れないことは止せ。無理をするな。素人が怪我をするぞ。
教育事務所職員や教員たちだけの怪我ならかまわないが、子供まで巻き込むことになるし、現に巻き込んでしまっている。
保護者と子供こそ、迷惑至極である。

組織は集合体である。組織は、保身を旨とするから、成り立つ。組織の成員である私たち自身もそうである。
人を指さして、「あれは保身だ」といって嘲るが、では自分がその立場に立ったとき、同じことをするだろう。

自分が助かるためには、隣人の首さえ絞めかねない。人情である。人情は、組織を動かし、人事も決める。これを情実という。

情実を嘆いても無駄だが、不思議なもので、人を守るのも、人情である。
縁という、相性という。
憎い相手を、攻撃したり、守ったり、味方の振りをして土壇場で裏ぎったり、油断させて崖っぷちから突き落としたりする。こいつだけは助けよう、組織内で伸ばしてやろう、と肩入れしたりするのも、すべて、人情からである。

教職は気楽な仕事でもあり、魔物でもある。すべて、あなた自身とあなたを取り巻く人による。つまり、ある種の運と努力とによる。

自殺した教員を偲ぶ会で、彼は運が悪かったのだ、誰かがつぶやいた。彼は公立学校の教員であって、私立学校の教員ではなかった、と他の誰かが続けたので、場は白けたのである。

ともかくも、春である。世は新学期である。

 

 

 〇 徒然は色々出ているけれども、安くて内容がしっかりしている岩波文庫がいい。

軽薄な現代語訳は絶対にダメである。これしきを原文で読まなくて、いったい何を学ぶ気だろう。知人の教員は、小学4年生に数段、暗唱させている。名文は、すぐに覚えるものである。

新訂 徒然草 (岩波文庫)

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