ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

小学校教員は「何でも屋」。いつまでも熟達せず。無能校長の大きな実害。

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教員には、能力不足の者が多すぎる。けれども、悪党は少ない。
「管理職になりたいです」と、すぐに顔に出る。
ようやく教頭、校長になったはいいが、これがまったく無能である。

人事発令は教育委員会である。いわゆる「任命責任」があるから、責任逃れのために、委員会は、当該個人を懸命にかばうのである。
無能管理者でも、学校が崩壊しないのは、教育事務所と人事発令者と校長とがグルだからで、とばっちりは、教員と子供と保護者にかぶってもらう。

そんな例は山ほどある。しかし、表に出てこない。


教育現場には、困った側面がある。他業種のように、売り上げだの、契約成果だの、費用対効果の検証だのが、明白に出ない。出さない。握り潰す。
管理職の能力不足のために、どれだけ、実害が出ているか計り知れないのに、十年一日、屑が校長になる(ことが多い、こともある、と言っておく)。

以上は教員経験者や都道府県教育事務所関係者なら、ぴんと来るだろうが、一般には、わかりにくいだろう。
まことに、教育界は甘ったるい、ニンマリの世界である。


繰り返すが、学校教育の問題のほとんどは、管理職に起因する。
経験見識ともに、ないに等しいから、現実に問題が起こった時、パニックになり、どうしていいのかわからない。すぐに、委員会の青二才にお伺いを立てる。対処能力の欠如である。
これまでなんとかやってきた。自分はデキルと安心して、勘違いする。能力不足でも、校長職が務まったのは、幸運にも、事故の能力を試される機会がなかったからである。

しかし幸運は続かない。
学校現場は、常に綱渡りのようなところがあるので、足を踏み外すと、たちまち転落する。本人が落ちるのは因果応報だが、周りの教員が迷惑する。どころか、他の教員を巻き添えにして、底まで沈む。
校長の実力不足は、現場の教員、子供たち、その親に対して、諸々の重大な害悪を与えてきた。
学校現場の特徴は、最低はますます最低だということだ。際限がない。
校長の実力の把握と練磨とは、もっと注目されなければならない。

 

さて。

問題を抱える家庭の多い地域では、子供に影響が多く出る。当該地域の学校は、「荒れた」状況になりやすい。
教員は、自分自身のことで手いっぱいで、他を顧みる気力がなくなる。
そもそもが、教員は、特に義務教育のそれは暇がなくてはならないのである。「暇」と言うのが不快なら、「余裕」または、「教養」と言おうか。

教養は、余裕から生まれる。
特に、いつも忙しい小学校教員には、難しい。
何年たっても、熟成しない。
50歳をはるかに過ぎたベテランでも、昨日や今日採用されたような二十歳そこそこの若造でも、仕事内容は、まったく同等である。
毎年、学級担任は、新たな子供や保護者や同僚達と、良い関係を築かなければならない。転勤でもしたら、何から何まで一から出直しである。
信頼関係などというが、そう簡単に築けるものではない。

一番の問題は、教育行政は、教員の成長を望んでいないことである。その場その場の使い捨てで構わないと考えている。
年配教員は、できるだけ速やかに辞めてもらったほうがいい。若い教員を安上がりに雇いたい。

一般に都庁県庁市役所等の仕事は、熟成しない。専門性が希薄である。つまり、だれにでもできる仕事である。特に行政職がそうである。
そんな連中の片割れが、人事を担当する。実際の配置でも、自分と同じようにやってしまう。能力を見ない。というより、能力についての見識が、はじめから、ない。

本来、教員は、年齢とともに熟成して、その職業能力が向上するはずのものである。しかし、仕事内容が肉体労働が主ならば、当然のことながら、加齢とともに、衰えてくる。
小学校教員は、扱う分野が広く、何でも屋である。よほどの実力の持ち主でない限り、専門性がつかないから、肉体のがんばりでカバーするしかない。

 

教員は、教えるべき内容について、強い専門性を持つべきである。中学校や高校では、教科担任制だから、かろうじて専門らしきものがある。小学校教員には、薄く浅く広く、多くの教科を担当させて、専門性をつけさせない。雑用も限りなく多い。
専門が薄まると、反比例して雑用が増える。なんでも屋となる。
まれに優秀な人材がいたとしても、これでは、小学校教員のなり手がいなくなる。

どうすればいいのか。解決のための秘策がないではないが、言っても無駄だろうから、言わない。

 

中学教員・高校教員は、「教科」や「生徒指導」に逃げ込む。小学校教員はスーパーマン。

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同じ居酒屋に何度か行けば、なんとなく、その店の内情がわかるものである。
従業員同士が張り合って、その挙句、仕事を辛いものにしている店を、稀にみる。
どの職場でも同じことで、みんながもう少し利口になればいいものを、変なところで張り合ってしまう。

 

中学校や高校の教員は、苦労している人とそうでない人との落差が大きい。
しかし、頑張ればいい、というものでもない。苦労は少ないほうがいい。
十分な識見や最低限必要な授業構成力が足りない、だからガンバレ、ではない。
教員として授業力・指導力が不足するのなら、焦って苦労しても、無駄である。
外科医を考えよ。執刀技術の未熟な者が、胸部大動脈瘤の緊急手術を失敗した。「でも、ぼく、がんばりました」ですませられると思うか。
むしろ、優秀な技術を持つ医師の、淡々とした手術で、その患者の命を救ったほうがいい。手術中の鼻歌も構わない。

教員の技量は、ほとんど天性のもので、後から付け足してもたかが知れている。とはいえ、努力はした方がいいし、どんな仕事でも、時間と反復とは、技量を向上させるだろう。


なんとしてでも、子供を鍛えようと、授業の工夫と鍛錬とを続けていけば、少しは上手くなるだろう。多少なりとも子供の学力を高めることができるだろう。

 

しかし、これがなかなかに難しい。だれでも、安易に流れる。中高教員が自分に甘えて、授業がいい加減になるのには、理由がある。

第一に、「教科担任制」なので、教科の中に逃げ込める。
英語の教員の授業がどんなに下手でも、音楽科教員が、英語教員に文句を言うようなことはない。
理科の教員に向かって、体育の教員が、「見るに堪えない授業だ」と批判することは、まずないだろう。親も、美術の教員に向かって、「お前の数学力がどうのこうの」とは、言わないだろう。

ところが、小学校ではあり得る。大いにあり得る。日常茶飯事である。
というのも、小学校教員は、何でも屋であることを義務づけられている。
今はどうだか知らないが、男女を問わず、採用試験にピアノの実技があり、歌わされ、平泳ぎクロールまでやらされる。鉄棒や100メートル走をさせるところもある。一般常識に加えて、英数国理社家庭科音楽図工体育等、教科の知識がまんべんなく必要だ。

幼稚園教諭から大学院教員の採用まで、これほど、多数科目を課されているのは、小学校教員採用試験の他にはない。スーパーマンも顔負けである。
幸運なことに、小学校には、実際に、スーパーマン教員が存在するし、そうあることを要求される。げに恐ろしい職業である。

第二に、中高等学校の教員の授業には、多くの人の監視の目が行き届かない。
お山の大将である。小学校に比べて、政治活動に熱心な組合員が多くなる原因でもある。
特に高校は、顕著である。以前は、教員組合に入らずば人間にあらず、という扱いを受けた。非組合員は同僚から、影に日向に、意地悪をされた。韓国シナ朝鮮ソ連の同志達に、親愛なる感情を持っていないような不届きな教師は、たちまち学校から追い出された。

ついでに言えば、高校教員は実力以上に、プライドが過剰になりやすい。たまたま、採用先が高校であったに過ぎないのに、義務教育とは違うんだ、と変な意識が先に立つ。
授業の下手なことは、中学校教員より甚だしい。
下には下がいるもので、高校教員よりもっとひどい授業をする連中がいる。いわずもがな「大学教員」である。


授業は、小学校教員が、まあまあ上手い。そうでなければ、学級をまとめることができない。
子供の興味関心を刺激しながら、基礎を無理なく教えて、知的なものへの憧憬を育て、よりいっそう高い段階へと引き上げる。こんな授業は、ある種の「芸術」ともいえる。現実にはごくまれだが、小学校では、このレベルの授業が必要だ。

あなたが、小学生の時、そんな授業を体験したのかどうか。または、あなたが現職教員なら、そんな授業ができるかどうか、は知らない。だが、授業可能な教員を、小学校では、見つけようとすれば見つけることができる。

 

第三に、中高教員が、自分の学力や授業技術の現状に鈍感であり続けるのは、生徒指導という「強い味方」があるからである。
特に、中学生の親は、我が子に手を焼いている。世間も、中学生は難しい時期だ思っている。だから「生徒指導で忙しい」という逃げ口上が通用する。
定説に乗っかっていさえすれば、並か並以下の授業をしていても、世間や同僚や親をごまかせる。
しかし、学級の子供をごまかすことはできない。子供は、教員の実力をはっきりと見破る。だから、中学の教室が荒れるのである。荒れるはずである。

中学教員の現状を見ると、納得できることである。

 

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上記は、数年前に書いたものだ。

今ではどうだろう。コロナごっこが蔓延して、教育活動は、ますます、安楽で、ごまかしやすく、いい加減なものとなった。

公立の小中学校では、各種行事が取り止めとなった。唯一の、地域による学校監査の役目を果たしていた参観日もなくなった。教員がどれだけ喜びの声を上げたか、想像に余りある。

私学は、もとより参観日もなければ、教員研修もない。教員は、勝手に来りて勝手に授業のようなものをして毎日が終わる。コロナ以前と変化がない。自堕落だけが増大した。

どうにもこうにも、バンザイである。いやファイザーである。もてるね、いや、モデルナである。

知床観光船、セウォル号沈没、飛行機落下、運なのか判断か。

北海道で遊覧船が沈んで乗員全員が死んだ。冬の海に出て、浸水転覆したら、まず助からないだろうことは、想像がつく。水温は3度か4度である。海に投げ出されたら、10分と持たないだろう。なぜ乗船したか。しかし、あなたも私も、乗るだろう。


知人が、福岡から釜山まで、ビートルとかいうジェットフォイル船で行く。海が荒れているため途中で引き返すかもしれないというアナウンスが、乗船前にあったが、誰も躊躇しない。続々乗り込む。福岡釜山間213キロを3時間余りで行くのである。日本海のただなかで、途中で引き返すなんてことが可能なのか。転覆したら一巻の終わりである。

案の定、出港して1時間ほどで、すごいことになってきた。波の高さは4メートル以上あって、海底から空に放り出されるような揺れが続いて、客たちは、のたうち回った。釜山で試合があるというサッカー部の高校生が20人以上乗っていたが、元気の良い彼らでも床に吐く者が続いた。売店の若い売り子が真っ青なのを見て、知人は、こりゃ助からないかもしれないなと、思ったそうである。
そうこうするうちに、ビートルは、釜山にたどり着いて命拾いをしたのである。荒れた海で引き返すなんてことはできない。行くも地獄、帰るも地獄である。


太平洋の真ん中で、飛行機がえらく乱高下する。ちょっと尋常ではないので、満員の客たちも不安げに当たりを見まわしだした。いつもの放送をただ信じる人なんていやしない。
その時、8歳くらいの少年が、「パパ、落ちたらどうなるの」と言う。パパは「みんな死ぬんだよ」と小声で返した。笑えない冗談である。


船は沈む、飛行機は落ちる。
確率が小さいのは、それだけ多く動いているからで、空でも海でも、乗るときは、自らの判断である。

思い出されるのは、韓国フェリー沈没事件で、高校生のほとんどは、船が傾きつつあるのに、そのまま部屋に待機しろという教員の放送を信じ込んで、死んだのである。生死を分けたのは、当人の判断である。
こりゃやばい、外に出よう、という行動基準は、高校生なら持っていなければならない。他人の指示を鵜呑みにすると、危険が広がる。

あれもこれも人生の賭けである。進学就職結婚はもちろんこと、毎日が判断の連続で、あの時ああしていたら、この時こうだったなら、なんて、あまりに多すぎて、あえて忘れたふりをする。そして実際に忘れる。

 

 

授業はゆっくりがいいのか。嫉妬、ジャーナリズム、お手軽な講演会。読解力と国語の授業。

 

ある人曰く。

人は、嫉妬から逃げることはできない。
嫉妬のもっともわかりやすい例は、共産主義である。
あれは、優れた人間、優秀な才能に対する嫉妬から生まれた陰険な思想である。


今から何十年か前、全国の大学の経済学部では、まことしやかに、搾取だの資本主義の走狗だの、松下幸之助は極悪人だのと、真剣に「授業」されていた。

読書量が圧倒的に足りないくせに、受験技術だけは得意らしかった「純真」な学生諸君は、ころっと共産主義革命のキャッチフレーズに騙された。
今では笑い話だが、時代の雰囲気である。騙されてしまうのも、無理はない。どうせ、学習塾通いのテレビ育ちである。

テレビと新聞とは、軽率なおもちゃで、人を操作し時流に埋没させるには、便利な小道具だ。頭を少しでも冴えた状態にしたいのならば、テレビと新聞は、さっさと捨てるがいい。
それができないのなら、あれは、そもそも嘘つきのカタマリだ、と思い知ることである。

ジャーナリズムに蠢く輩は、もともとが根無し草で無責任である。何でも批判するのが大好きだが、そのくせ、自分たちが批判されると、急にいきり立つ。
マスコミ会社やマスコミ人への批判は、タブーである。

批判をするにも、マスコミを通してするのだから、「ジャーナリスト」諸君はご安泰だった。どっちに転んでも、マスコミは永遠である。

人は、自分で考えるより、他人の頭で考える方が、または、他人の言説を繰り返すことの方が、楽である。
お手軽な「教養」ごっこである。講演会と称するバラエティである。一種の自己満足であり、「教養」という名のファッションもどきでもある。

講演会は、昔も今もこれからも、流行るだろう。しかし、その効果のほどは定かではない。むしろ害である。

人の話を聞くだけで、読んだり書いたり考えたりすることの代りにしようなんて、あまりに虫の良い思い付きだ。
それでも(だから)、私たちは、講演が大好きなのである。講師先生は、口パク芸人で、多額の現金収入を得て、ご満悦である。


さて。
「授業をゆったり、ゆっくりとしよう」 これは、親切めいた、他人受けの良い流行語だが、時間をかけて授業をしたところで、学習効果が向上するわけではない。

逆に、速さが大切である。授業時間は、さっさと目的に向かって集中させて、休憩時間には、ゆっくりと遊ばせてやれ。

進度が遅い授業は、子供の気が散ったり、根気が続かない。
簡単な問題を短い時間で数多くすること、そしてだんだんと難易度を上げていく。
スピード感がある方がいい。いわゆる「基礎基本」を身につける学習段階では、学習速度を、常に、上げていくことが必須である。

のろくてもいい、ゆっくりがいい、なんて言うのは、およそ勉強を集中してやったことのない連中の戯言で、冗談で言っているのか、さもなければ、何らかの為にする怪しげな発想である。本気で信じ込んでいるとしたら、想像力の欠如である。

教育がゆっくりだったとしたら、我々は自家用車を持つことができなかったろう。自転車で、徒歩で、仕事場に出かけていただろうし、最悪の場合、白人の完全な奴隷になっていたことだろう。
経済成長の恩恵は、速度のある学習によってもたらされたのである。


話を元に戻すと、お手軽な勉強なんてものはない。

あなたも知っての通り、練磨練習と、知的好奇心の持続が勉強である。

講演会が流行るのは、軽率の極みである。
お手軽人がいる限り、そしてそれは永遠にいるのだが、マスコミ人(ジャーナリスト)は、嫉妬を武器にして、寄生虫のように生き延びるだろう。

それにわずかでも抵抗するには、小中学校からの国語の授業である。
文章の裏にある書き手の真意を見抜けるように、児童生徒諸君の読解力を鍛えなければならない。

具体的方法は自分で考えろ。考えつかなければ、そもそも教員に向いていない。

 

 

 

 

大学は私立と国立 どちらを選ぶか 大学教員は甘ちゃん勤務 フェロモン満載の美人学生は女子アナ志望

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当ブログを、時々覗いている人は、もうお気づきのことと推察するけれども、既出の文章を削除して、リライトの上、出すこともある。
多く出すより、少ないほうがいいのである。

さて、本日は、以下の話題である。

 

進学を考える親子が、一度は悩む問題がある。
大学は国公立がいいのか、それとも私立大学なのか。一体、どちらがお得なのだろう。

答えはない。

国公立は月謝が安く私立は高い、というが大した差ではない。所詮、たった4年間である。小学1年から高校3年までかかった費用や、卒業後の収入などを勘案すれば、大学4年間の学費の差など、無視できる。

私大の理系、中でも医学部の費用は別物だが、これも卒業後に、十分すぎるほど回収できる。

だから、費用面で、国公立だ私立だ何のと、騒ぐ意味はないとも言える。

私立と国立とで、設備や構内面積、教員一人あたりの担当学生数の差はあるが、どうせ、満足に勉強しない大学教員であり、学生でもある。無視でいい。

皆さん大好きらしい東大も、東工大も、たっぷり予算で、楽ちんである。では、地方の大学がそれほど貧相なのかといえば、そうでもない。みんな、それなりの設備環境を整えている。あの金はどこから出ているのだろうと怪訝だが、ともかく、生き残りに懸命であるようには見える。
その熱意や危機感が、東大以下旧帝大グループや都内のマンモス私大や目白の古い大学に、あるのかないのか。
ないのである。

都内某(有名)私大の場合、学生数に対して、少ない図書室机席数、教室の狭さ、学食のお粗末さ、学生への各種便宜など、全然サービスが悪い。全在校生が授業のために、まともに登校してきたら、教室その他の設備は、たちまちパンクする。どうせ学生が、出席しないだろうことを前提にしているから、そして事実そうであるから、無事に、過ごせているのである。

学生の不勉強は言うまでもないが、大学教員もまた、私立国立を問わず、甘ちゃん勤務だから、お互い様である。

となると、心ある学生はどうするのだろう。

 

地方の高校生は、地元の大学に行くか、都会に出るかで、悩んでる子が多い。都会への憧れ、などというのは、墨東綺譚の昔で、今はない。しかし、生徒の多くには、どんな遊びかは知らぬが、「東京で遊びたい」という本音がある。

マスコミ志望の子は、都会の有名私立大へ行きたがる。地元の国大に現役で入るより、浪人してでも東京へ出たがる。大学や学部はどこだっていい。いちばん簡単に入れそうなところを選んで、首尾よく滑り込む。バイトに精出して、夜も昼も怪しげな交際関係を探し回って、ようやく、テレビ局なり周辺の関連会社に入ることができて、大喜びである。

 

地方大学では、マスコミ関係の就職は難しい。しかし、フェロモン満載の美人学生は別枠である。一部では、報道部の女子アナウンサーは、女子穴とも言われているらしい。馬鹿にされるのもほどがあるが、理由もあることなのだろう。
美人は、何かと贔屓してもらえるけれども、所詮、一時期の花である。すぐに、田端義男の「十九の春」の歌詞と同じになる。

 

就職がうまくいかなかった時は、世間体もあるからと、留年する学生が、昔は多かった。当今では、留年もまずいので、誰もかれもが大学院に行く。理系ならわかるが、驚くなかれ文系の学生までもが、院に進学する。
どうせ、不勉強な輩ばかりである。ろくなことにはならないだろう。

企業もそれを知って、院卒よりも大卒を採る傾向にある。女子はなおさらで、少しでも若いほうがいいのだろう。

 

さて、話を戻すと、大学は国立が、私立をやはり少しリードしている。
それは結局のところ、日本人の気質による。
おもてなしである。勤勉である、真面目である。
受験生の実態を見るとわかる。宿題をごまかさないのである。全教科に誠実に取り組むのである。どの教科にも手抜きしないのである。ノートを緻密に作る子が多いのである。

良いとか悪いとかではない。日本人の生来の気質の特徴が、国立大学の子供たちと、私立大学の子供たちとでは、なんとなく分かれていることを感じるのである。あとは察してくれ。

もっとも、すべてにわたって、そこそこできることは、奴隷には適切だが、創造的な人間には不適なこともある。不勉強の極みのW大が、マンモスであるにしても、時々面白い人材を出すのは、ある方面だけでも、多少は突出した面がある子の方が、無難な、なんでも人間より、やがては、使えるからである。

 

 

高校教員が人材不足。そこの君、大手企業や銀行や商社を蹴って、高校教員になってくれないか。

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某氏いわくことには。

 

人は常に批判にさらされていなければ、だめになる存在である。
権力は必ず腐敗するというが、自分に酔ってやがて腐るのは、何も政治家や独裁者
ばかりではない。

並の教員も、並以上または以下の教員も、第三者からの厳しいチェックが入らなければ、向上しないどころか、腐って落ちていくこと必定である。

その典型が、大学教員である。
小学校教員は年端もいかない子供とその親から、中学校教員は不安定な子供と進学を気にするその親から、高校教員は変わり者の子供から、批評批判非難が、大小の差はあるにしても、受ける。
ところが、大学教員だけは、どういうものか、誰からも、批判も批評も、監視も、されることがない。腐敗しない大学教員は、0.1パーセント以下だろう。

しかし、今日は高校教員についてである。

いかにも、高校教員は、小中学校のそれに比べて、楽である。何が楽かといえば、すべてが楽なのである。楽をしてないのは、それは趣味である。趣味として、苦しんでいる。
外部からの批判が少ないから、同僚同士で張り合う。無い知恵絞って、自分は優秀なんだ、少なくとも、馬鹿じゃない、というほどのことを、一所懸命に周りにアピールする。自信がない、または、虚栄心が強いのである。
それがよい方に出ればいいが、悪い面に出る。たとえ人事でどんなに優遇してやっても無駄である。自分から崩壊する。
教員自身が崩壊するのは、勝手というより、自業自得だから構わないが、生徒が迷惑する。

これだけでは、よくわからない人もいるだろうが、仕方がない。想像してくれ。

子供のレベル、学校のレベル、地域のレベルが、厳然としてある。それを了承して、子供は、当該高校に来ているのである。または、ようやく入学できたのである。
であるのに、子供の状況を見極めないで、見当違いな授業をする。しかも、下手である。子供に力をつけるどころか、少ない蓄積をそぎ落とす、丸裸にする。のみならず、破滅させる。

こういう教員は、どこの高校にも、一定以上の数、存在する。
なぜそうなるのか。

答えは簡単である。


仕事が楽だからである。

楽であっても、もともとが真面目(であるはず)な教員である。よせばいいのに、どうすれば、自分をもっと偉く見せることができるだろうかと、画策する。肝心の授業はどうでもいい。他の同僚に比べて、自分は仕事ができる男、または女と、思ってもらいたくて身悶えする。まして、同僚よりも劣ると他人に思われることが死ぬより辛い。自分で自分を追い込む。追い込みすぎて、躍起となる。あっという間に崖っぷちである。

こんなことも、他からの批判がないからである。
友が注意してやればいいだけのことだが、その友がいない。なぜなら、学校の同僚は、すでに友のようなものだからである。ようなものに過ぎないから、それは他人であり、ライバルである。しかも、脳内のライバルだから、始末が悪い。

結局、人材不足なのである。

かつて、某国諜報組織は、優秀な人材を確保するために、丁寧に時間をかけて調べ上げてリクルートした。組織の拡大を嫌った大統領が予算を削減して縮小した。それで大失敗したので、今度はあわてて増員するために公募すると、変なのが集まってきて、またもや大失敗した。
人材が鍵であることの証左である。

政治が悪い、制度が悪い、教育が悪い、等々というが、結局は人材がいない。いても極少である。全然足りない。


人材を育てるのは、ステロタイプだが、やはり教育である。
教育は小中高校と子供の年齢が上がるにつれて、お粗末になっている。大学は教育機関というよりも、教員の娯楽室、子供の遊園地だから、除外する。
日本の小学校教員は、なるほど、良い面と悪い面とがあるにせよ、世界一だろう。中学校教員はかなり落ちる。高校教員はもっともっと落ちる。
具体例には事欠かないが、いちいち示すことでもないだろう。

結論である。
そこの君、高校教員になったらどうだろう。
大手メーカーや商社筋から引く手あまたの君、高校教員を目指してくれないか。
エントリーシートを数百枚送り付けて、やっと入社できるらしいそこの君も、努力次第だ。
多くの味のある人材が、教員になることは、日本のために吉である。

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と書いたのも、今は昔。

さて、教員志願者が減っていると聞いたが、本当か?

ドラマの学園ものは人気で、特に高校生を題材にしたものは、日本に限らず、どの国でも人気である。そんなただなかに入る仕事だから、本音では、誰もが「先生」になりたいのではないか。

 

(お気づきのように、過去記事を消して、少し改訂して出しています)