ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

何が悲しくて教員なんか。都会と地方の教員のメンタルヘルスケア。コロナ騒動以後~♪

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働き方改革だそうである。メンタルヘルスケアだそうである。
教員は、体力気力とも、無理を続ける人が多い。ふとしたはずみで、精神を病む。
疲れが残る、気持ちが落ち込む、などというが、そんな生易しいものではない。死にかかるほどの疲労で、起き上がることができない人もいる。

教員には、骨休みがない。俗に、骨惜しみなく働くというが、教育現場は骨を惜しんで、できることではない。
現在の日本の教育を、どうやら形にしているのは、教員(にも色々あるが)の自己犠牲のたまものである、と言えば、言い過ぎだろうか。

日本人の気質は、個人よりも全体に傾く。
個は全体を、基準にしようとするから、無理をする。全体は常に、いっそうの効率を求める。個は、それに流され、または進んで流れを速め、拡大しようとする。

先の大戦のおり、軍が暴走したにせよ、それに抗う者は少く、多くの国民は、進んで追随し、応援した。日本人の哀しい気質であり、一種の美徳である。

 


日本の公教育、特に小学校のほとんど、公立中学校の約半分、公立高校の3割は、教員の自主的な善意に寄りかかりすぎである。
しかし、コレは教員自身にも責任がある。

かつて、某米国人が、日本人は働き過ぎだ。彼らにはプライベートな時間があるのか。
休みを取らない。時間超過も進んでするし、さして苦とも思っていないようだ。
家庭や自分の時間を大切にしない。いったい何のために生きているのだろう、と評した。
図星である。教員を見ているとよくわかる。朝から晩まで働きづめで、しかも、個人の時間を持たない。持ちたくない。帰宅しても、まだ採点している。

 

話は変わるが、都会と地方との教員の、自殺やメンタルを病む確率は、地方の方が断然高い。
不思議なようだが、これには理由がある。

都会の典型として、たとえば東京だが、ほとんどの教員は、地下鉄電車等の公共交通手段で通勤する。
一方、地方の教員は、自家用車がほとんどである。それがどうしたと言われそうだが、大きな差がある。

電車通勤の教員は、帰宅途中で、居酒屋に寄りたい放題である。酒を飲んで、今日の鬱屈を発散する。同僚と飲むこともあれば、一人酒で、知らぬ相手と一期一会である。新橋神田上野等の駅裏をのぞくといい。みんなよろしくやっている。
コレが意外にも、教員の精神衛生に影響があるのである。

ところが、地方はどうだろう。車を自分で運転する。
地方教員が自家用車で通勤するのは、便利なようだが、そうでもない。
学校を出たら、家まで直行である。居酒屋なんて、もってのほかである。助手席には山ほど提出物や教材を詰めこんでいる。くたくたになって帰宅すると、翌日の準備や今日一日の後悔にますます疲れはてる。そして、翌朝、寝不足のまま青い顔で出勤する。

自家用車でも、車を置いて街に出ればいいじゃないか、と思うだろうが、無理である。わざわざ飲み屋に出かけるだろうか。まずあり得ない。第一、翌日の授業その他が気になって、出かける時間が、惜しいのである。
メンタル面も、体力面も、すでにして、アウト寸前である。

一方、都会の教員は、ほろ酔い気分で、ご機嫌で帰宅して、ネットなりテレビなり、寝転がって楽しんで、朝までぐっすりと眠る。しかも、休日ともなれば、遊びの山である。大都会では、何をしてもどこに行っても、遊びに事欠かない。東京の教員がメンタルを病むわけがない。それでも病むなら、もとから病人である。仕方がない。

 

地方の教員は、なるほど、住居だけは東京人から見ると億円以上の建物に住んでいる。しかしながら、大邸宅とメンタルとは、あまり関係がない。
人は1畳あれば眠ることができる。狭い都会暮らしは、なーに、街中が自分の庭だと思えばいいのである。

 

 以上は、居酒屋で、某教員から聞いた戯言である。誰もが居酒屋好きでもあるまいに。

しかし、ふざけ話にも、真実は隠れている。

どうして私たちは、毎日を楽しまないのだろうか。働きづめに働いて、それで満足なのか。

二宮金次郎の像は、為政者にとってあまりに望ましく、一人ひとりの国民にとって、あまりにも不気味だと、ついでながら、聞いたことがある。

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以上は、数年前のお話。

令和3年7月。コロナ騒動に、オリンピック不始末と、どうにもこうにも出鱈目である。

東京は居酒屋があっての東京である。酒を提供しない、歓楽街の楽しみがない、となれば、狭い地域に多人数を放り込んだ泥沼にすぎない、と知人は言う。

オリンピックはスポーツ芸人とその取り巻きとからなる4年に一度の荒稼ぎの祭りだが、どうやら、そのいい加減さが露呈して、オリンピックそのものを放擲する時が来たのか。

11年後には、あるとすれば、ブリスベンで開くと決まって、オーストラリアの人は喜んでいるようだ。しかし、確実にあるのか。世界が、オリンピックでもやろうかという余裕のある状況なのかどうか。そんな先のことがわかるのか。

日が暮れて、朝が来る。しかし、人の世が、今日も明日もこれからも、同じ毎日が続くと考えるのは、諸行無常を忘れているのではなかろうか。

無益で大袈裟な抵抗はやめて、ウイルスを愛し、ともに生活せよ。さっさと酒と肴とを出して一晩中、楽しませろ。コロナごっこも、大概にしろ。

 

 

 

女教師の憂鬱。JKとイケメン、独身有利の職業。

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教育は、前提として、子供が必要だ。子供、教員、学校の順である。

結婚が珍しいものになって、子供が希少なものになれば、やがては、学校は減少し消滅する。極端な話ではあるが、制度としての教育は、縮小するだろうし、そうあるべきだ。
なくなるのではなく、融合である。学校は生活に溶け込んで、個々人の学習が、自学自習こそが、大筋となるはずであるし、そうであってほしい。

教員は、独身者が多い。特に女性教員に多い。

なぜなら、経済的に恵まれているからで、当然ながら男女同一賃金が徹底しているし、へとへとの肉体労働でもない。

異性への興味なんて、教室に入れば吹っ飛ぶ。この意味は、例えば高校大学の教員ならば、ピンとくるだろう。
男が、銀座のクラブに夜毎に出入りすれば、銀座の女が世間の女であると勘違いするように、教室で、美少女美男子を見続けていると、世間の同世代の男女に、興味が向かなくなる。

女子校の男先生は、独身が多い。それはそうで、どんなブ男教員でも、JKからすれば、男ではある。もてないわけがない。バレンタインチョコなんて、食べきれない。
女性への目が肥えてくるから、自分の配偶者を見つけようにも、相手にアイドル並みの容姿を求めてしまう。男先生の自宅には鏡がないのである。

女先生も同じように、教室に入れば、イケメンなんて腐るほどいる。夫を選ぶにあたっては、よほどの美男子でかつ高収入でなければ、男ですらない。

以上のような馬鹿なことを、彼らが本気で考えているのは、自分たちが、まあ、ぎりぎり若いからである。しかし、年齢とともに現実に向き合わざるを得なくなる。

しかし、意外にも、男女とも、ある年齢の限度を過ぎると、自分が見えにくくなる。というより、見たくない。それでも、気分だけは、若いものだから、理想に適合する配偶者がいない。生涯独身まっしぐらとなる。

かように、人は見た目が大事で、見た目こそが、すべてである、と米国の社会学者が言った。事実をいまさら指摘して、どうなるものでもないが、職業学問はそんなものである。

見た目が大事とはいえ、教員の容姿容貌に、平均以上のものが求められているわけでは決してないから、安心しろ。


教員は、楽しくやりがいがあり、自己実現ができる仕事である。給与も安定しているし、旅行や趣味の時間も十分にあるし、そこそこの配偶者に恵まれる率が、心がけ次第で、かなり高い。

教員は良いことづくめである。と、普通には言える。

では、普通でない場合はどんな場合だといえば、それは、「ぱるるの教育批評」のそこかしこに書いてある。読んでくれ。

だから、微妙な仕事であるが、百人の教員がいれば、99人までは、十分に恵まれた職業だ。特に女性にとっては、ダントツに有利でおいしい選択である。
理由は皆さんご存知だろう。わからなければ、女性教員を探して、直に問うてくれ。
身近に女性教員がいなければ、他の職業についている女性に聞いてくれ。

女性の仕事で、子供に人気の高いのは、医師、議員、大学教員であろうか。
高額の所得で、自己陶酔感を満足できる仕事として、タレントという手もあるが、容姿容貌の改造や性的逸脱の覚悟等が必要だし、第一に、芸人は堅気の仕事ではない。「それ者」であり、河原者である。
美貌と野心とを併せ持ち、なおかつ、芸人になる覚悟があるのなら、それもいいだろうが、運にも左右される。極めて特殊な「お仕事」である。

受験ゲームが得意なら、医者になるのが吉である。それほどでもなければ、教員がよい。
かつて高評価だったらしい航空機乗務員は、どちらかといえば、芸人に近いが、自分大好き人間にとって、安定の職業である(今は知らない)。
議員は、もっとも下品な芸人ではあるが、野心を満足できる確率が高く、死ぬまで自己陶酔できる。遊んで儲かる仕事の筆頭である。

医者なり、教員なりの、安定した収入を得る男に嫁いで、議員を目指す作戦もない話ではない。

 

 

みんな楽しいオリンピックごっこも来週だね。コロナウイルスで大儲けする。たかが風邪なのに。

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マスコミ、特に、テレビと新聞とは、常に視聴者・購読者の不安を煽ることで、商売をしてきた。卑しく低劣で愚昧かつ高慢なる連中である。
日本国民は、よりによって、そのテレビ・新聞が大好きだ。深く信頼し、かつ尊敬申し上げているのである。

馬鹿馬鹿しくって、見てはいられない。
高々、風邪の原因のウイルスの一変種に過ぎない「新型コロナウイルス」とやらを、ここまで、仕立て上げたのはマスコミである。連日連夜、大々的に宣伝をした。ついでにワクチンごっこも、いよいよ佳境に入る。

 

やれやれ、何をそんなに騒ぐのだろう。

君は、コロナウイルスで、人がばたばたと死ぬのを見たことがあるのか。
毎日、何人も人が死ぬのは、寿命である。老衰である、肺炎である。風邪を拗らせたのである。呼吸器系統の持病その他である。人は死ぬものである。人類史上、毎日、人が死なない日はなかった。

それをなんだろう、コロナコロナと、お題目を唱えて、国中練り歩く。新興宗教も、ここまでくると、たいしたものだ。
どうせコロナは、終わる。または永遠に続く。どちらも同じことで、相手にするに及ばない。

しかし、コロナごっこは、儲かる。とにかく、儲かる。誰が儲かるのか、それは君自身で考えるがいいだろう。というか、答えは、とっくに出ているだろう。

一部、または大部分の人が、大きな利を得ている限り、永遠に、コロナ騒ぎは終わらない。終わらせたくない。

 

そういえば、もうすぐ、オリンピックである。これもまた、大金が動いて、儲かるべき人のところへ、わんさと金が転がり込む。

マスコミは嬉しい悲鳴である。

マスコミは、目玉の事象がどちらに転んでも、マスコミ信者がいる限り、永遠に儲かり続ける。いい商売である。


一年延期のふりをして、実際、延期したのだが、オリンピック開催は、予定通りである。テレビネットワークが、オリンピックを止めさせるわけがない。五輪マフィアは巨大である。彼らがやれと言えば、やるのである。

よって、オリンピックは開催する。

 

日本も世界も、オリンピックが見たくて見たくて仕方がない。コロナで押さえつけられた気分を、今度は、テレビの前に端座して、コンビニ弁当喰らいながら、オリンピックテレビ劇場で吹き飛ばしたいわけである。

オリンピック開催を、表向き反対していた連中も、本音では、オリンピック・コロナンピックを、死ぬほど楽しみにしていたのだった。待ち望んでいたのである。
テレビは、空前絶後の視聴率と広告収入他で、大金が流れ込む。取り巻きの誰もが、億万長者になれる。
五輪マフィアと全世界の視聴者とは、ほおずりして、抱き合うのである。こんなめでたいことはない。その時、両者はマスクをしているのだろうか。

日本も世界も宇宙も、誰もの楽しみ。オリンピックごっこ

 

加工美少女。オリンピックとワクチンごっこ。英語教育は時間の無駄。

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かつて、ある人曰く。

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小学校の英語学習は百害あって一利もない。「偽毛唐」の真似事になるだけである。
なるほど、英米語は、世界中で大きな顔をしている。観光旅行で英語の通用しない国は、ほとんどない。あるとすれば、それは田舎である。
だからといって、世界中の人がアメリカ語を話す必要はない。話せるわけがない。まして日本語だけで、十分に話が通じる日本ではなおさらである。

 

インドやフィリピンやシナなどで、英語を話す連中が多いのは、発展途上国だからである。方言だらけなので、母語を使っていては、経済発展がおぼつかない。
一方、日本の言葉は長い歴史を持っている。豊かな文化伝統がある。外国文献の翻訳も世界一である。そこそこの工業国でもある。日本語が理解できれば、通常の生活に、なんの支障もない。


日本人で、英語が必要な類は、自分の商売に必要不可欠だからである。

それ以外の人には、外国語習得など、時間の無駄である。英語商売人や、外国語の趣味人は、勝手にやってくれ。

 

ところが文科省はそうは考えない。日本全国津々浦々まで、英語を浸透させようとする。いったい、ここはどこの国だろう。

文科省は、「ALT・ネイティブスピーカーの活用」という御大層な題目で、アメリカ人のフリーターを、日本に大量に来させて、国民の税金で小遣いをたっぷりやって、小中学校で遊ばせようという魂胆である。
これも、日本政府が、アメリカに献上する奉納金の類である。

小学校で、国語も満足に教えないで、何が、英語学習だろう。まともな日本語の文章も十分に書くことができないで、何が英会話だ。

しかも、アメリカからやってくるALTというのが、怪しすぎる。
以前、何人かの教員とALTとで、テニスをしたことがあった。ふてぶてしい態度で、ベンチに寝転ぶなり「日本の街は汚いねえ」だと。
こんなやつらを、教育委員会の担当職員は海外から、高給を餌に何人も連れ帰ってきた。彼らは、遊び半分、観光客気分で日本の街をうろつく。昼の学校は、ほんの片手間である。

馬鹿にされきっているぞ、日本人。

 

言葉の習得、言語操作の訓練期間として、小学校教育は特別な意味を持つ。母語が確立される10歳前後までの国語教育が人間の思考の原型をつくる。
小学校では、日本の古典を叩き込むのが当然なのに、国語の時間に出鱈目なことをやっている。お粗末な、できの悪い、薄っぺらな教科書を使って、お茶を濁している。そこに持ってきて、英語だ。
文科省は「英語」を押し付けるべく、「帯時間」や特別枠などを増やした。
ついには教科化し、国語を圧迫し、ますます「英語教育」に力を入れる方向である。

亡国を通り越して、国賊の所業である。政府、文科省は、国語を蔑視し英語を持ち上げることで、無国籍の、「グローバル」で、ひ弱で、シナやアメリカに同化されやすい日本人を作ろうと、必死である。

さて、その挙句、英語を得意がって話しているが、なんのことはない、「昼何を食べた」という程度である。話の中身は上っ面で浅い。
話すべき内実を持っていないのに、口先だけの単語を転がしても、馬鹿にされるだけである。

その証拠が、アメリカ人である。世界中、英語の通じないところがないから、教養のない不躾で粗暴なアメリカ人でも、大きな顔で、のし歩いている。
外国語を、時間をかけて理解しなければならない国民から見れば、まことにウラヤマシイ。

英語は世界の「共通語」になった。すでに動かしがたい既成事実であるなら、日本人として、どのように英語を利用すればよいかである。
まず、会話は一切しないほうがいい。英文を読むことを第一優先にすべきである。その次には、英作文であるが、どちらにせよ、遅かれ早かれ自動翻訳の精度は徐々に上がる。

となれば、やはり日本語である。
日本語の使い方を、もっと訓練するべきだ。日本語が先で、英語の読解は、その後に続くのである。
都合のいいことに、この両者は両立できるどころか、互いに補足しあう。英語を学ぶことによって、日本語の理解が促進されるだろう。

ただし注意すべきは、学校教育で英会話は無駄である。あれほど効率の悪い、「勉強もどき」は滅多にない。程度は低いくせに、実際の時間はとてつもなく浪費する、イケナイお遊びである。

英会話を含めて、英語教育の過度な重視には、大反対である。

 

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さて、時は移って、世の中はコロナンピック・オリンピックである。コロナワクチンとオリンピックは、ともに、「ごっこ」という名に相応だと思うが如何。

 

コロナウイルスで、ばたばた小中高校生が死ぬのなら大事である。寡聞にしてそんな話は聞いたことがない。彼ら彼女らは、平気の平左で、TikTokで、加工美少女になって半裸をさらしている。コロナどこ吹く風、黒いマスクは、ファッションである。

一体全体、日本中がコロナウイルスで大騒ぎするのは不可解至極であって、だれが何のために、騒ぐのだろうか。なかなかに怪訝である。

 

 

 

 

 

平和教育とは何ぞや。コロナンピック。中国人と瓜二つ、アメリカは遠い。

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ある人曰く。

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平和教育というモノが、学校現場で、一時、パンデミック、大量伝染病のように流行った時期があった。
平和教育は、「非武装中立」「憲法9条を守れ」「アメリカ軍出て行け」というお題目を唱える。

何が嬉しくて授業そっちのけで、騒ぐのだろう。目的は日本の共産化であり、コミンテルンの作戦に従ったのである。
教育関係者は、単細胞で無教養な人が多かった。ナイーブで素朴でお人好しが多かった。東大教員には、特に多かった。純情な公立学校教員にも多かった。
日本の子供を、言葉だけの夢遊病者にして、現実を調査し分析し検討し対処させないようにして、日本のさらなる弱体化を図った。

平和教育は、日本人の知性の鍛錬を奪う方策だったのである。

地政学では、日本は、やがて中華人民共和国に併呑される。これは仕方がない。長い目で見ると、名実ともに、日本が中国の一部になってしまうことは、いくら鈍感な国会議員であろうと、先刻承知、常識であろう。
中国人になるよりも、アメリカの州になって存命する方がいいのだが、日本の国土は中国から近く、アメリカから遠い。肌の色も中国人と見分けがつかない。

アメリカは中国と仲良しである。日本はアメリカの財布である限り、アメリカの部下であるが、財布の中身がなくなったら、中国へプレゼントされる。
それを恐れて、日本政府はアメリカべったりの姿勢を崩さない。

ここでいう日本政府とは、日本の政財界の人々のことで、アメリカの犬であり続ければ、生命財産の保証はあるが、北京政府はアメリカほど甘くはない。

中国が乗り込んできたとき、最初に根絶やしにされるのは彼らである。

中国人にとって、漢族こそがエリートで、ヤマトンチューは東夷である。駆逐されるべき対象である。チベットを見よ。
こんなことは、NHK朝日毎日等々日本のマスコミ人には常識であるが、報道しない。都合の悪いことには、そもそも触れない、起こらない、あり得ないことになっているのが、彼らの建前である。

日本の教育が、物事を根本から考えさせようとせずに、上っ面の豆知識の蓄積を大事にしたがるのは、こういう理由からである。そのためにあるのが、東大等に受かりさえすればメデタシの受験ごっこ、入試制度、教育体制である。
もちろん、受験ごっこにも意味がある。大ありである。受験の訓練は、よき労働者を作る。アメリカ中国ロシア等外国人に仕えて働く奴隷を、育てる。

以上を極端だと思うなら、思うがいい。
日本人であり続けることを希望するなら、核武装が必要であることも、日本以外では常識である。

北朝鮮が無理を重ねながら、突っ張っていることができているのは、核ミサイルを所持しているからで、幼児でもトリガーは引ける。殺傷力は大人が撃ったのと変わらない。
核を持ってこその国家であり、均衡である。勢力均衡こそが「平和」の鍵であること、昔も今も同じである。

以上に疑問を持つのなら、歴史を読んだらどうか。
トゥキディデス『戦史』やケネス・ウォルツ『国際政治の理論』など、せっかちな人でも簡単に読める。

 

 

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マスコミは、コロナウイルス騒動の話題を、いまだに長々と引き延ばしている。まるで大事である。その一方、危惧を示すふりをしつつも、オリンピック開催が嬉しくて仕方がない。

最新のキャッチコピーは、出遅れたが故に、かえって余りがちの「ワクチン」である。

聞くところ、多々某某の職場では、ワクチンがたっぷりと用意されているようで、年齢にかかわらず打つことを推奨されている。しかし、年配者は打っても、若い人で打つのは少ないようだ。本能的に怪しいと考えている節がある。先日何人かの若い知人たちに、ワクチン接種はどうするのかと問うと、打ちたくない、と言う。本音だろう。

 

 ちなみに「コロナンピック」なる単語は、ここに書くのが最初である。用語の著作権を主張しておこうか。

 

 

 


 

 

 

 

女子学生に手を出して、自殺させても知らんぷり。ごく潰し大学教員の「見立て」コロナで受益。

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小中学校の教員は、授業でも休み時間でも、子供の発信したすべての兆候を、見逃すまいとする自覚がある。高校や大学の教員は、子供の変化に鈍感である。
変化を見抜いて対処することは、教員の仕事の肝要である。

医者でいえば、見立てである。素早く正しい見立てができないのなら、一人前とはいえない。
「見立て」とは、診断・予後・治療について専門家が判断した意見の総体のことをいう。患者のサインをうかうかと見逃す医者は、素人またはそれ以下である。

子供は、日夜、サインを出しているが、家庭では、保護者である親が受け止める。親ならば、受け止めて対処する(はずである)。

学校では、教員が受け止めなければならない。
子供の出すサインをキャッチして、適切に応答する教員がいるからこそ、学校の価値がある。教育成果も上がることだろう。
教員が、サインに無頓着であったり、鈍感であったり、見逃したり、受け止め損なったりしたら、子供は失速または停滞、場合によっては墜落する。
これが子供の気持ちや学習達成度の落ち込み、情緒不安定、病気や不登校、場合によっては自殺につながる。

子供のサインを、いち早くキャッチし、その裏の本音を見抜いて指導する。
正しい見立てができるかどうかが、教員の価値を決める。もっとも、それが仕事なはずであるから、できて当然である。できなければならない。

大学教員はその逆で、見立てるどころか、万事いい加減に対応して、学生を不幸にすることが多い。
子供を突き放すだけならまだしも、女子学生に手を出して、妊娠させ、ついには自殺に追いやっても、知らんぷりである。
20歳過ぎれば、大人だ。互いに一人前の研究者だ、などと大嘘をついて、子供の教育責任を、一切免れた気でいる。
だから、私は、かかる大学教員を「教員の恥知らず」「最下等教員」と考えている。
これは世間一般の、大学教員への評価と、違うかもしれない。しかし、内実は本人たちがよく知っているだろう。

そういえば、大学授業料を無償化するとか騒いでいる。とんでもないことである。タダより高いものはない。
教育がタダであっていいわけがない。有償が当然であるが、何分にも現在の大学授業料は高すぎる。内容に見合った料金にするべきで、だったら、小中高大と、どんどん安くしなければならない。
現在、義務教育どころか、高校までもが限りなくタダに近づいているので、大学までタダにしたら、これはもう、無能な大学教員の思うつぼである。

話があちこちしたが、子供の毎日の状態から、見立てを得ることは、高校や大学でも、必要不可欠なのだが、子供の年齢が高くなるにつれて、教員は言い逃れがしやすくなるのである。
発達段階、責任能力、社会経験の蓄積とかなんとか、色々と理屈をつけて、問題を無視する。

高校生だろうが、大学生だろうが、新入社員だろうが、古参だろうが、問題を抱えて生きている。あなたもご同様。人は自他を問わず、見立てをする。まして、教育現場ではなおさらで、見立てを放棄するようでは、そもそも教育ではない。教員ですらない。穀潰しである。

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以上は以前の話である。

少しく付け加える。

大学教員の95パーセントは不要である。大学の授業(のようなもの)は、すべてネットで十分におつりがくる。オンライン何とかで、特に優れた教員の講義を受ければいいだろう。この件については、すでにどこかで書いた。

 

コロナ騒動が続いて、今度は、世間はワクチンに夢中で、教員には極楽が続く。だれもが、教育活動を批判検討もせず、底なしに甘い評価を与える。これでは、どうしようもない。

コロナごっこは、各方面に甘い汁をもたらしたが、まだまだ、利が続く限り、受益で汁液で獣疫は、なおもなおも、活躍が続くのである。