ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

大学は、学費無料でも高すぎる。むしろ大学が学生に、月々の金をやれ。数学教員、国語教員その他もろもろ。

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「教員」生活を満喫したいのなら、大学教員で、これ以外の選択肢はないと言っていいほどの楽園だが、しかし、教員志望者の多くは、小中高校の教員になる。

教員の質は、国公立学校勤務の教員がよろしく、私立学校のそれは劣ること、何度も話した。私は違うというのなら、それでいい。おめでとう。


教員職は、教科によって、およそ職種が異なるくらいに学力、仕事量、遂行難易度の差がある。しかしながら同一賃金というところが不公平であるが、これが人の世の常である。
教科教員になるなら、ダントツで数学教員がよろしかろう。理由は面倒だから、勝手に考えてくれ。最悪は国語教員で、相応の能力のある人以外は止めておいた方がよい、泣きを見ることになる。教員ではなく、子供たちが損失を被る。

木下是雄は学習院大勤務の頃、文章推敲ができる教員を、他大学から貸せと言ってきたが、そうはいかない、たいへんなコストをかけて育てたのだから云々、と書いていたが、本音だろう。
腐った論文を手直しするには、並の能力では足りない。

話が飛ぶが、ともかく教員たるもの、中学高校生時代に、どんなレベルの学校に通っていたにせよ、学級または学年で最低一度は、成績トップの経験を経ている方がいい。というよりも、絶対的に試験トップの体験が必要であって、そうでもない者が教員をするなんて、図々しいにも、ほどがある。
この経験があれば、ある種の余裕が生まれるので、どんな子供の指導も、穏やかにできるはずだ。

 

一国の首相職、その他政治稼業につく輩は、馬鹿だけはお断りである。無能な者が国の舵取りなどできるわけがない。嘘で固めた毎日を送って、国民に多大の迷惑をかけることになる。現に、これまでも、今も、然りであった。これからも、そうだろう。
閑話休題(あだしごとはさておきつ)、やたらに悲憤嘆くは、けだし賢人のなすところにあらず、とやらなので、賢人でなくとも、日本の政治云々の話題は、飯が不味くなるのみ。ご法度である。

 

大学は休校状態である。ゼミだけやっているところもあるが、あれはセミの鳴き声に似たもので、ゼミナールにあらず。

そのくせ、学生からはどんどん学費を絞り取って、普段でも遊んでいる大学教員に、濡れ手に粟の大判振る舞いを続けている。
大学は今年度は、学費を無料にするのは当然こと、それどころか、たんまりある財源を取り崩して、すべての学生に毎月10万与えてもよいくらいだ。たまには、恩返しすることだ。

ちなみに、大学教員は全然生活に困っていない。今年一年は無給でよろしい。働かなければ、給与がもらえない、という単純な原理が、わかっていない連中なので、少しは体験させるといいだろう。目をキョトンとして、働くってどんなことなの、とアルバイト学生に問うことだろう。

 

 

私立の中学高校への進学は、いかがなものか。教員のレベル、競争力の不足が。

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私立中学高校への受験を考えている人や、特にその保護者には、苦い話をする。


「私立中学高校」(以下私立校と書く)への進学は、考え物である。
もっとも、「国公立の中高」(以下公立校と書く)が大嫌いで、なにがなんでも私立校に行きたい、行かせたい、というのなら、勝手である。


どうせ私立校に入るのなら、超一流と言われている学校に限る。
いったい何が「超一流」なんだかよくわからないだろうから、とりあえずは、当該年度卒業生数に対する東大京大の合格者数の比率が高いところ、ということでいいだろう。
とはいえ、東大京大の進学率の点でも、公立校のほうが優位に立っている。

何度でも言うが、私立校に行かせるのなら、超一流校に限る。
並か並以下でもいいから、ともかく私立校に行かせたい場合は、公立校に受け入れてもらえない特殊の事情のある場合で、それはそれで、見合った私立校が存在はする。


一流校と呼ばれる私立校は、どのくらいあるのだろうか。
簡単に言ってしまえば、各県に一つはある、と仮定したい。
どうしても私立校がいい、だから越県してでも通わせる、または下宿や寮に入れさせる云々、は酷である。そこまでする価値はない(と思う、と言っておく)。
だから上記の進学率が低くても、各県に最低一つは、名目上に過ぎないにしても、一流私立校を認定するしかない。


中途半歩な私立中高が、なぜ無駄なのかを以下に述べる。
しかしながら、世の中には気分というものがある。保護者の思い入れ、思い込み、勘違い、憧憬の類がある。これは、仕方がないので、勝手にしてくれ。


私立校の最大の弱点は教員のレベルにある。
すなわち、私立校教員は、規模の小さな私企業に勤める雇われ人である。しかも、勤め先たるや、経営が不透明で、馘首の恐れや、倒産の恐れもある。したがって、教員自身の気分が安定せず、自己肯定感が薄い。
公立校からの転属組も多い。こういう連中と根っからの私立校しか経験していない教員との軋轢もある。公立校定年退職者の第二の就職先でもある。
ともかく、教員の素性がぐちゃぐちゃで、校舎をどれほどきんぴかにしても、教員のプライドは低い、低すぎる。

というのも、私立校の教壇経験しかない教員は、劣等感がある。
それは私立校の教員採用事情にあるわけだが、この辺りの詳細は避けたい。以下を読んで、想像してくれ。

公立校教員は一応、正規の試験を受け、合格して採用されている。相次ぐ転勤で場数を踏んでいる。公立ゆえに勤務先の倒産不安がないから、人にもよるが、中には教育に全力を傾けることが可能な人もいるだろう。

私学は、私学教員適性検査と称するテストを受けることになってはいるが、その得点によって、当該私立校が採用するかどうかは、私学経営者の判断による。つまり不透明な情実採用が可能である。別名、縁故採用、雰囲気採用と言う。
こんなことができるのは、私企業であるからで、美人学生をどうでも採用してしまう某職種と同様である。


教員のほとんどを、東大京大卒で固めている「一流」私立校もある。この場合、当該校の教員のプライドは保たれている。

とはいえ、教員の余計なプライドなんかはどうでもいいことで、生徒にとっての最大のメリットは、東大が身近に感じられて、アノ教員でも合格したのだから、俺なら軽いな、と思えることにある。その子が、必ず合格するかは未定ではあるが。


教員の問題以外には、私立校の短所は、生徒が同質性があるということである。これは長所のようだが、そうでもない。中途半歩な連中が多く、傑出した才能が見当たらない(ことが多い、と言っておく)。
もっとも、親にしてみれば、似たような生活環境や学習能力の子供が多いということは、ある種の安心感を持てるのだろう。
変わり者は嫌だからね。うちの子は普通に育ってほしいの。


話を変える。
先年、某講演会の後の、立食パーティで、講演者の某女性Aと、某女性教員Bとの会話。
B「いいお話でした。母校の高校でも、お話しされるといいですね。どちらの高校のご出身?」
A「女子学院です」
B「は? 何女子学院?」
A「すみません。ただの女子学院です」

以上で、ピンとくる人向けの話なので、意味不明の人はそれでいい。

というわけにも、いかないだろうから、説明する。
東京では女子学院というだけで、桜陰雙葉と並んで女子御三家と呼ばれる「一流私立校」であることを、大概の人は知っているだろう、という思い込みがある。
しかし、それは関東での話。少し離れると、○○女学院、○▽女子学院などが、多く存在するので、Bの発言となったのだろう。

事程左様に、私立校出身の有名無名のプライドなんて、たかが知れている。むろん、公立校も同じことである。

知友学友や真っ当な恩師を得ることができるのならば、どこでもいいのである。無理をしてまで、欠伸の出る授業を受けるには及ばない。

 

 

 

 

 

考える授業。教育評論家、有識者、テレビ芸人は、コロナで儲けたか。

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知人来たりて、また言う。

テレビ局及びテレビに巣食う芸人ども、ならびに、選挙で職を得たのをいいことにやりたい放題の議員職にある者ども。
彼ら彼女らにとっては、新型コロナウイルスとやらは、神であり仏であり救世主である。

これだけで、わかる人には、電光のごとくわかるだろう。
わからない、またはわかりたくない人にとっては、これ以上百万言費やしても無駄だろう。

 

ぱるるの教育批評」は、扱うテーマが学校教育を主とする。
現場経験豊富な、というか、ほとんどそれしか取り柄のない筆者が、折に触れ思うこと、思い出したことを、ボケ防止に書いているのである。教え子の何人かは見ている。記事の内容に興味関係がある者、その他も見ている。

その中で、私が大嫌いなモノの一つは、教育評論家と称する類で、そもそも教育について話すのは、誰でもできることである。ことさらに教育評論家などと自称するとは、片腹痛い。
それがどうだろう。どうせテレビ芸人の類と笑って済ませてもいいが、世間は、肩書に弱い。事実または事実に近いものと勘違いする。

尾木ママとやらの気持ちの悪いテレビ芸人も、局の方針に従うので都合がいいのだろう、いろいろ口走っているようだが、在野から学校教育についてあれこれ言うのは、素人以下の所業である。まして、テレビで食する者が気の利いた風を言うのは噴飯ものである。
どうせネットその他の情報を、血走った目で探し回って、さも自分の意見のように言う。
いかにも卑しいやり口だが、それがテレビマスコミで生きるということで、だから私は、テレビ業界およびその関係者を、心底憎むのである。


さて、コロナごっこである。
「コロナごっこ」は私の造語である。
新型コロナウイルスをめぐっての政府マスコミその他の対応が、まさに、子供の「ごっこ遊び」であって、内実のない「のようなもの」「かもしれないもの」「そう信じ込ませたいもの」を、さも事実であるかのように大袈裟に扱うことを、総称して「コロナごっこ」と言ったのである。

学校現場では、さすがにコロナごっこなどという言葉は使われていないし、使おうとしないし、許さない。そんな言葉が吐けるほどに、学校教育現場は、自由は保障されていない。残念でした。

 

三密だの社会的距離だの、不要不急、自粛、以後の世界、等々、言葉の乱用で、いったいこれは何のまじないなのだろうか、不気味である。

 

マスクも相変わらず流行だが、このモードは永遠に続くのだろうか。
小津安二郎の映画『東京暮色』の中で、家族を迎えに警察に行く場面で、原節子がどういう理由かマスクをしている。これが大方の男性ファンにはたまらなくエロいと話題になった。機会があれば見るといい。

以前のことだが、マスク嫌いのトランプ大統領が、マスクをつけていないことをマスコミに問われて、「他の部屋では、つけている。マスクをすると、もっと男前に見える」と真顔で答えていたが、それはそうだろう。

一般にマスクをすると、美男美女度が上がる。特に中高生はそうで、某教員に言わせると、廊下でマスク姿ではあるが、びっくりするようなイケメンとすれ違ったので、はてあんな生徒がいたかしらん、と怪訝だったが、なんのことはない、マスクを外してみれば、いつもの悪ガキだったそうな。


どうも暑さで、話があちこちしたが、もう少し書く。ただしすでに言ったような気もするのだが。
新型コロナウイルスという単語を発するときの、テレビ芸人(レポーター、司会者、口パク女に男、解説者=何を「解説」してくださるのだろう、有識者=これまた御大層な肩書である)たちの、嬉しそうな誇らしそうな、態度や顔つきを見よ。物干し竿で、まとめてなぎ倒してやりたい。

何度も言うようだが、コロナごっこは、政治屋にとっては大儲け、責任逃れ、検察追及をかわす手段となった。
マスコミ、特に、テレビは、視聴率が跳ね上がり、空前絶後の利益に、笑いが止まらない。
独占企業集団のNHKのごときは、視聴料は搾取するくせに、番組は過去のゴミテープを垂れ流す。
NHKこそが、まず人員削減をし、せめて令和2年は、視聴料を無料にすべきであろう。


話変わって、いわゆるGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)は、コロナ騒動で、これまた、ニッコリの集団である。

アマゾンは便利なので、まあよい。
アップル社の製品は丈夫なので、これもよかろう。
グーグルは普通に使用できる。
フェイスブックは危険なゴミである。もともとの出自が、美人学生の品定めのためにネットを利用するカラクリである。何がフェイスブックだ。自分の情報のほとんどを、喜んで外に出すなんて、どうかしている。
物事、特に人物は、一部または大部分を秘するから、花なのである。人となりを知りたければ、直接会うしかない。


ところで、ネットは匿名性が最重要である。
投稿者の情報開示の強制は、独裁政治に陥る危険が極めて高い。
選挙が投票者の記名制となってしまって、現政府の反対者は抹殺されるようになる。
あれもこれも、匿名性が必要であって、普段の消費財のすべてを、デジタルで決済するなんて、どこまで間抜けなんだろう。
スーパーで、スマホをかざして物品購入することが、それほどスマートなことであろうか。後ろで並ぶ他の客のことを考えろ。もたもたしすぎだ。


話を変える。
ほとんどの大学は、どうやら、「オンライン授業」とやらを、最低でも2021年3月まで続ける様子だ。大学の教員は、この1年間、対面授業を1時間もしなくても、基本給はもちろん、各種手当もばっちりゲットしている。もともと趣味と暇とで成り立っていた職種だが、こうなると、存在の軽さが、耐えられないほどになる。
もう、無駄な二流三流大学なんて、片っ端から潰せばいい。
学士修士は、昔で言うところの通信教育、今風ならネット講座で十分だ。
優秀な研究員だけを勤務させて、後はカリキュラムプログラムでよい。
しかし、キャンパスごっこもしたいだろうから、それは社会サークルの出番だろう。老若男女入り乱れて遊ぶがいい。単位はやるぞ。


また変える。
テレビマスコミは教育の敵、国民の敵、亡国の徒である。
テレビに負けない人間になれ、といったところで、家庭も親も、生まれたときからテレビ漬けである。当人の知らないうちに、テレビマスコミに飼いならされている。

もっとも、田中美智太郎先生がおっしゃったように、「時流に飼いならされるのではないかと、自ら不安をもつような弱い精神ならば、むしろ飼いならされた方が、君は幸せにだろう」云々。
ならば、従順可憐が特質とされている日本国民は、全員が、むしろテレビマスコミに騙されて、踊らされて、酔い続けていた方が幸せなのだろう。

今回の武漢コロナ、別名、何が新型なんだか「新型コロナウイルス感染騒動」について、マスコミの弊害は、はっきりと出たのである。
テレビが連日騒ぐと、国民の大部分は事実だと誤認する。

以前から、このブログを見るような奇特な人はご存じだろうが、コロナごっこは最初から怪しさ満載だった。
一体全体、武漢コロナが直接の原因で、人を死に至らしめるほどのものであるかが、一向にはっきりしない。
どうやら風邪の一種なのに、大騒ぎする。やたら、恐怖心をあおる。タレント医者もどきや、宣伝大好き知事その他のパファーマーの、連日の公演は、気味の悪いものだった。

目に見えないウイルスというゾンビ遊びは、商売の停止、学校の停止、人の動きや交流を禁止して、地球全体を覆う大イベントになった。
いやはや、困ったものである。

コロナごっこは、一部に莫大な利益をもたらして、その他大部分に、大きな損失を与えたのである。
狂ってる。本当に狂っている。

3月に日本の多くの学校が閉鎖されたとき、教員たちは戸惑うそぶりを見せながらも、本心では喜んでいた。
4月5月と長い有給休暇が続いて、教員たちは楽ができた。今でも、学校は変則的な再開中だが、やはりどちらかと言えば、去年に比べると、安楽椅子である。


以前話した繰り返しになったようだ。

コロナウイルス騒動で利を得るのはいったい誰だろうかと、考える授業を、一度はしてみるといい。

 

 

新型コロナウイルス騒動で、世界イベント大成功。政治屋とマスコミの高笑い。

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今回もまた、教育から少し離れた話題となったのだが。

某人来りて、話すことには。

 

毎日毎時間、マスコミと称する売名企業は「コロナウイルスごっこ」をさも真剣げな声色で、ご苦労なことである。
たかが鼻風邪ごときに、まるで不治の伝染病のごとく大袈裟に報道する。バカバカしくて見てはいられない。

 

政治関係業者も、嬉しくてたまらない。
東京都知事のごときは、保育所の壁に貼ってありそうな諸注意を言うために、したり顔でテレビカメラの前に立つのが、仕事であるらしい。

 

今回のコロナ騒動は、都道府県各知事の自己宣伝、国政担当者の悪事隠蔽場所、公務員の幸福感の増幅、マスコミ業社の高収入、その他諸々のニッコリニンマリを産出した。

コロナごっこは、彼らの利が続く限り、永遠に続くだろう。
ご苦労である。


コロナウイルスで、人が死ぬという。へー、どんな病気なんだろう。
だったら、若い連中で陽性反応者はバタバタ死ぬはずだが、みんな平気の平左、それどころか、自覚もないんですけれど。いえいえ、若い連中ばかりではない、40、50、60、70、80代まで、コロナ陽性ってなんだろう?の世界である。

 

コロナウイルスが原因の、「死亡者数」というが、本当か?
死因は持病の悪化だろう、または老衰である。
それを、さもコロナウイルスが元凶かのように報道する。
嘘くさい。

 

今回のコロナごっこは、まったくもってインチキ極まりない代物である。
陽性確認者をどんどん増やしているが、あのなあ、もうとっくに国内だけで、百万人でも一千万人でも、感染していなければおかしい。
感染していないのなら、微弱すぎるウイルスである。無視でいい。
感染していて、この状況なら、微力すぎるウイルスである。同じく無視していい。

 

コロナごっこは、世界中を巻き込むことに成功した一大イベントである。企画者はとんだ興行師だ。各国は、まんまと集団ヒステリーになった。笑えるではないか。

この分では、これからも、次々と人為的災害災難、特にウイルスごっこが流行るだろう。そして毎回毎回、大騒ぎして、利を特定の連中が集めることだろう。
良かったな、おめでとう。お疲れ様である。

 

 

 

 

 

児童生徒の陽性検査。休校して消毒。コロナウイルスという集団ヒステリー。

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某知人、来りて、嘆いて曰くには、、。


先日、某駅から電車に乗った。沿線には、進学で名を売っている私立の男子校と女子高とがある。
夕方でもあり、学校帰りの子が多く乗っている。ひとり残らず、一様にスマートフォンをのぞき込んでいる。数人で会話している連中も、手にしたスマホ画面を見ながらネットの話題である。

 

どうも困ったものだ。昔は、文庫本を読む、参考書を見る、友達と会話するくらいだったが、今では、だれもがスマホに憑りつかれて、不気味である。

マスクをしている子は、8割くらいか。むしろ、その多さに驚いた。息苦しくないのだろうか。とはいえ、私も同調してマスクである。

 

子供は学校では、教職員の神経質な対応に、無難に合わせているふりをしていても、本心は、コロナなんて、無視である。子供同士で話すときは、マスクをしない。せっかくのイケメンや美少女顔を隠してたまるか、であろう。
というのも、学校ではコロナ風邪なんて、見たことも経験したこともない。周りを見渡しても、コロナ発症者がいない。いったいどんな症状なのかも知らない。
コロナウイルス感染症とやらは、テレビの向こうで、利害関係者が騒いでいるだけである。
コロナって何?  誰も正確に説明することができないだろう。あれは、検査の結果発表にすぎないのではないのか? と、健康真っ盛りの中高生は感じている。


陽性反応が出たら、隔離だの入院だのを建前にしたものだから、行政も医療も、怖くて、意図的に大量の検査しない。するつもりもない。
多数またはほとんどの子供が陽性だったりしたら、どうする気だろう。とりあえず、数日休校にして、校内中を消毒する気だろうか。
陽性だった子供は、みんなからつま弾きされるのだろうか。

お気の毒である。

そんなわけだから、今では、子供も大人も、風邪すら、うっかりかからなくなった。咳をすることを忘れた。
普段から喘息気味の子は大変であるが、なんだ、咳しなくても大丈夫じゃないか。気持ちの問題だったんだなと、当の本人がつぶやいた。

これほど、子供が元気であることは、いまだかつてなかったことである。
なーんだ、やればできるじゃないか。ご健康そうで何よりです。


大事ぶって、政府行政はマスコミ連動で宣伝するが、さっさと、毎日、数万数十万の国民の検査をしたらどうだ。それすらしないで、何が感染症対策だ。お笑いである。

コロナに感染しているくせに、事実を表に出したくない。出せば、医療が崩壊するのだそうだ。

崩壊なんて、するものか。

騒ぎすぎである。陽性反応が出ただけで、大騒ぎし過ぎである。

国民全員が陽性になったら、たぶんなると思うのだが、いったい次にはどういうお話をでっちあげるのだろうか。

武漢ウイルス、新型コロナウイルスとやらを、鼻風邪くらいに思うがいい。

事実は、鼻風邪に過ぎない。陽性者のほとんどは、無症状だという。したがって無自覚であるという。だったら、何が問題なのか。

コロナとともに、コロナを愛して生きるのなら、いい加減に、コロナウイルスを、生活習慣にするがいい。With corona から Love corona である。もはや観念したらどうだろう。

うつる時はうつる。むしろ、ウイルスならば、うつるのが自然である。現に今まではそうだった。たかが武漢コロナウイルスごときで、身もふたもなく慌てて、どうする気だろう。
それこそ、中国北京共産党の思うつぼ、とまでは言わないが、コロナウイルス騒ぎは、中国にとって、損失よりも利益が大きいのである。理由は各々考えてくれ。

 

何度も言うようだが、新宿区でも豊島区でもいい。取りあえず、区内の私立中高等学校の生徒全員をPCR検査してみようか。さあ、その結果はどうだろう。数人ということはないだろう。陽性者が、わんさか出るだろう。
当然のように休校にするのだろうか? 休めば、それで何かが変わるのだろうか?

 

国民全員が陽性になるまで、この騒ぎは収まらない。どころか、次から次へと、文字通り「新型」のウイルスが増産拡散されて、永遠に、騒ぎ続けることになる。

もはや、ウイルスごっこの効果のほどは試された。永遠にマスクを手放さなくなるだろう。
ウイルスに対しての、完全な防御策はない。ならば、無駄な抵抗をやめて、元気に通常の毎日を送ろう。すべてを平生通りに戻してよいのではないか。

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とまあ、大体以上のような話である。
マスクは、人の免疫を弱める。自宅でPCとテレビ漬けの毎日では、体力も落ちて、精神まで病むことだろう。

コロナ騒ぎを続けていけば、現在以上に人類は脆弱になる。生殖能力も衰えて、人口は少なくなる。

人工削減には、今後次々に作りだされる予定の新型ウイルスは、効果があるかもしれないが、それにしても、あまりに迂遠な方法ではなかろうか。

 

そういえば、過日、シニアが多く集まる会合に出たのだが、みなさん、コロナ禍を、たいそう気にしてらっしゃる。新型コロナウイルスに、非常に神経質であり、敏感に大袈裟に対策をしているようだ。

是非は述べない。

 滿汐は沖からではない、気づけば足元から押し寄せている。まだまだ明日があると思うのは、人の常である。これ以上書くと、差し障るから、もう止すが、コロナごっこも、いい加減にしないと、当人たちが集団ヒステリーを自覚しなくなる。

これが、いちばん困ったことである。

 

 

 

 

 

 

高校の国語科教員、試験対策お疲れ様。能力不足で挙動不審。

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現職の教員は、仕事上の能力不足の人が多い。
だからといって、教職に限らず、仕事に必要とされている能力を持った人がどこにいるのか、どんな職業があるのか問われると、答えに窮する。

国政に顕著だが、政治関係で食する人を筆頭に、どのような仕事でも、能力未満の人が大部分である。みなさん自分をごまかし、他人を欺き、どうやらこうやら、アップアップで仕事をしている、または、しているふりをすることが、社会の実情であること、貴兄がすでによくご存じのとおりである。


さて、今日のお題は、高校教員の能力のなさに、哀れさを感じる、というより、呆れるしかない、である。

能力不足の教員が通常なのは、大学の教員である。しかし、大学教員は、仕事というより、趣味で高給を得る、という幸運な特殊な世界の住人だから、ここでは論じない。彼らは、「仕事」量と収入とがまったく反比例する特権階級である。

大学教員のような、極端な例はともかく、小中高校の教員の中で、もっとも「おいしい」のは、高校教員である。
高校教員は、教員として、いかにも教員らしい職業と言えるだろう。
扱う相手は、青春真っただ中の、「ちょうどよい年ごろ」の少年少女であって、話してよし、聞いてよし、かまってよしの、「三良し」で、教員は楽勝の構えである。

であるにもかかわらず、落とし穴があるのは、教科によって、仕事の質量の差が大きいことである。教科ごとに、別の職業と考えてもいいくらいである。工業高校商業高校の楽ちんぶりは、今は触れない。ここでは普通高校を例とする。

国語英語数学などいわゆる主要教科の担当教員は楽ではない。この中では、数学科が圧倒的に楽勝。次が英語科で、国語科は最悪の選択である。
しかしながら、国語が教科の中では最も重要であること、貴兄も賛成だろう。
国語は、思考の根源、民族文化の継承、情報収集伝達の要である。教科教育の基本であるといっていい。
なおも、しかしながら、国語が教科として頭抜けて重要であることと、それを教えることができるかどうかということは、まったくの別物である。

教員ひとり一人の能力の問題だから、言っても詮無きことではある。
しかし、悲しい現実を知っておくことにも、意味があるだろう。


能力不足は、国語教員に限らず、他のすべての教科教員にいえることであるが、しかし、国語以外の教科は、ごまかしがきく。このことは、あなたが、教育の門外漢であったとしても、少し考えればわかるだろう。
それでもわからないのなら、以下を読んでも、失礼ながら、たぶん永遠にわからないだろう。

 

教える行為として、困難で手ごわい国語の教員が、なんともお粗末至極で、結局は、自分の能力不足を自覚せざるを得ず、よって教員としての自信が持てない。
国語は普段話している言葉だから、誰でもが知っていて、ある程度は自由に話し読み書くことができる、と少なくとも当人たちは思う。
こんな教科を教えるに際しての、子供の実力を伸ばし、子供を圧倒していく、資質や学力とは、いったい、どのようなものだろうか。
英語科のような単語知識や、数学科のような問題回答慣れ、などとは、全然違う。

 

国語科教員に求められるのは、読解力文章力膨大な読書量、知識意欲、哲学心理学社会学その他全般の知識、はったり芝居おどけ阿呆尊大カリスマができることなど、そのすべての特質を備えた、人間味あふれた人生経験豊富な人物であることが、要求される。
そんな人間が存在するのか。

いるわけない。
と言いたいが、実はいる。
ごくごくまれに、いる。国語科教員千人にひとり、万人にひとり、存在するかもしれない。ロングテール説である。母体を限りなく大きくすれば、ともかくも、存在はする。
当然、そんな教員に邂逅できる確率は限りなく少ない。


大きな話はここまでとして、通常の高校国語科教員の話に戻す。
案外簡単な話となる。
定期テストで、自分の担当する学級の平均点が、他の学級より、1点でも、高ければ、それで大満足な教員がほとんどである。
というより、そのこと以外に関心がない。
子供の実力を向上させたかどうかではなく、もとよりそんな芸当はできるわけがないし、能力不足がデフォルトなのだから、どうやってごまかしをして毎日を過ごしていくかに、主な関心がある。

定期テストで、採点に手心を加えて、他クラスよりも平均点を上げるかである。
それよりも効果のある簡単な方法は、テストの作成担当になった機会を利用して、テスト内容を、試験日すれすれまで他の教員に教えない、見せない。
他クラスの子供には予習をさせないのである。教員にテスト準備や復習をさせないのである。
その一方、自分の担当クラスの子供には、ほとんどテストの内容そのままを、あらかじめ吹き込んでおく。
試験日前から、担当クラスを格段に有利な状態に持っていく。
これが、一般的な国語科教員であって、事実そのままである。

 

さあ、試験が終わった。採点する最中も、他の教員のクラスの結果が気になって仕方がない。目をきょときょとさせながらディスプレイに成績を打ち込む。あるいはあえて、後から打ち込む。
思惑通り、自分の担当クラスがトップで、他クラスが下の下なら、してやったり、「私はできる教員ですよ」とばかり鼻が高い。
これだけ汚い手を使っても、結果が悪ければ、不機嫌極まりなくなって、ふさぎこむ。周りに当たり散らす。

 

あなたが教員なら、あるあるで微笑むことだろう。高校に限定したが、中学でも同様だろう。


このくらいにしておく。