ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

コロナウイルスを押し込む。授業がなくても、給料はそのまま。学校教員の高笑い。

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知人が来て言うには、学校現場のゆったり感は半端ない、とのことである。

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学校の授業が全然なくても、当然のように、給料はそのまま振り込まれている。学校教員の高笑いが聞こえそうである。

なんて言うと、憎々しいようだが、そうでもない。
学校教員が普段は忙しいはずの3月を、新型コロナウイルス騒動で、余裕で過ごし、4月も授業がない、このままでは5月も半ばまでは、ないことが約束されたとすると、だれが見たって、余裕がたっぷりあるのは事実である。


それはそうと、「新型コロナウイルス」や「武漢肺炎」「陽性反応」「感染確認者」などの用語を口にすることは、今ではお題目であり、挨拶言葉になったようだ。

新型コロナウイルスとやらに、大騒動するには及ばない。これは風邪である。風邪はうつるもので、やがて治るものである。

感染が、いったい何だろう。逃げても逃げても、ウイルスは追っかけてくる。だったら、逆に、お迎えしよう、とまでは言わないが、逃げても駄目なら、受け入れるしかない。感染するものならば、感染する。
ほとんどの人々は、つまりあなたも私も、すでに感染し、自然治癒している。だからと言って、また感染するかもしれない。毎年、風邪をひくだろう。それと同様で、恐れるに足らない。

重篤化すれば、それは死ぬこともある。肺炎である。甘くはないだろう。しかし、たいがいは治る。
大騒ぎしすぎである。

騒ぎの原因は、テレビである。商売である。
テレビ業界は空前の視聴率に、嬉しくて笑いが止まらない。コロナコロナのお題目で、ちょうちん行列である。

ウイルスと人間とは永遠の敵であり友である。かつても今もこれからも、次々と陰険なウイルスは、自然発生または人為的に出てくるだろう。そのたびに大騒ぎするのだろうか。ご苦労である。

普通の生活をし、体力を保持し、休養し働いて、それでかかるものなら、かかる。そして治るものなら治る。

いつまでも振り回されてどうする気だろう。ぐるぐる回っていれば、ウイルス消滅の時期が早まるのだろうか。

発熱は、熱する理由があるから熱が出るのである。認めようではないか。体力は個人差がある。
ウイルスに対する抵抗力、そして復元力も個人差がある。あるものを無いものとして、扱うことには無理がある。

誰でもが、マスコミの発表する陽性反応者の異常な少なさに、驚いている。

そんな馬鹿なことがあるだろうか。今の交流時代に、どうしてこんなにも感染者が少ないのだろう。


これは感染して自然治癒している証拠である。誰もが感染している。そのことを自分で知らないだけなのだ。
発熱が続かなければ、そもそも、検査をしないのだから、高熱の続くものを検査すれば、それは陽性だろう。
誰にでもわかる。

 熱がなくても、陽性者は何十万人何百万人といるだろう。そう考えるのが自然である。

 

さて、学校教育に話を戻すと、今月、学校が始まれば、教室では集団感染が発生する。
狭い教室である。当然だろう。
しかし、学級の大半の子供は、すでに感染経験者だと推測できる。感染していない子供は、教室で感染するだろう。
したがって、全員が感染経験者となる。
それで構わないという判断なのだろう。

梅雨ごろには、一連の新型コロナ騒動も、過去の話となるのではなかろうか。

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という話である。

感染するものならば、とっくに感染しているという点は同感で、あなたもそう思っているだろう。
あなたが元気なのは、あなたの身体が、コロナウイルスによる症状を、押し込んでいるからに違いない。

 せいぜい表に出さないように、体の中で、ウイルスを死滅消滅させてくれ。

 

 

 

新型コロナウイルス関連の死亡者数、日本で3万人程度。学校再開が怪しくなってきた。

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4月からの学校再開だが、ここにきて少し怪しくなってきた。
新型コロナの大騒ぎは、オリンピックを延期させた。それはそれで、落ち着くところに落ち着いた。
落ち着かないのは、コロナ肺炎の蔓延で、騒げば、騒ぐほど、大ごとになる。

何度でも言う。新型コロナウイルスは、すでにほとんどの人が感染している、と割り切ったほうがよい。

一体全体、武漢発の新型コロナウイルスが全世界に広まっていない、と考える方が不自然だ。
去年から長期間、世界中で交流が盛んなのに、ウイルス感染をしていないなんて、なんのために、普段から『バイオハザード』の類を見ているのだろう。エンタメは、曇ってはいても、事実の鏡である。

 

日本に限っても、すでに、全国津々浦々、ほとんどの人は感染しているのではないか。
とっくに感染して、とっくに自己治癒して、だから、あなたも私も、平気なのである。

中には発症して、重体となり、死亡者も出てくる。これは仕方がない。
車を運転すれば、偶然または必然で、事故になることがある。けがをしたり、死んだりする場合もあるだろう。

同じことで、というより、それよりもはるかに高確率で、ほぼ必然的というくらいに、ウイルスに感染するのは、不可避と考えたほうがいい。

だから対処法は一つである。

休養し、体力をつけ、できるだけ平穏に過ごせ。または気を強く持って、あとは運を天に任せるしかない。

たとえば、日本国民の8割が、すでに感染している、またはこれから感染するとしよう。残りの2割は、感染しようにも、その機会がない人である。
この想定下では、新型肺炎症状による死亡者は、日本では、3万人くらいになる。
そう考えるのが常識である。

あなたにとっての問題は、感染しても、発症しなければいい。発症しても重症にならなければいい。重症になっても、生き残ることである。

 

さて、ここは教育関連のブログだから、学校に話を戻すと、ほとんど全国の小中高等学校は、今日現在、4月から再開の予定である。
どこかが、開いて、うちは開きませんなんて、学校は言える立場じゃない。
一つ開けば、すべてが開く。
開くことが保護者の要望である限り、どうしたって開くのである。
学校は独自の判断で動くようなところではない。

だから、ここ数日は、政府の判断待ちである。
政府が言うことなら、責任はすべて政府にある。少なくとも、学校設置者はそう思いたい。

 

しかしながら、明日から4月である。ここでまた、今さら、学校閉鎖の延長とは、いくら何でも言いにくいだろう。

しかし、東京都においても、知事の発言一発で、学校再開を遅らせることが、できないことはない。

どう出るのか。


と、以上は、知人との話を、かいつまんで書いた。

コロナコロナで、神経が弱る人も多い。

桜が見ごろなら、見に行くのも、気分転換であろう。

 

 

 

 

感染爆発は連続する。新型コロナは自然治癒するから、学校再開である。

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学校教育では、国語科や数学科を中心として、論理的な思考方法の訓練をする。
情報の的確な理解と表現である。

テレビを中心とするマスコミでは、「新型コロナ感染症祭り」が、まだ続いている。
大量に流される新型肺炎についての情報らしきものは、内容が豊富なのではない。陳腐な定型句の繰り返しに過ぎない。
知りたいこと、知っておかなければならないことを、簡潔的確に言わないで、曖昧情緒な言説で事実を隠そうとする。


東京都は、昨日は何人、今日は何人の新たな感染者が出た、と発表する。
どういう基準で誰を検査し、その結果がどうであったということを、はっきりさせなければならない。
検査数と陽性結果との割合は、どれくらいなのか。

感染しているかどうかのPCR検査は、風邪症状があって腹痛下痢などがあって、しかも熱が続いている人向けだそうだ。
個人が勝手に検査依頼しても駄目のようである。
帰国者・接触者外来なるものを受診して、医師が必要と認めた場合に限る。
そんな被験者ばかりなら、高確率で感染しているいるに決まっている。検査の意味がない。

検査の結果、新たな感染者が見つかった、と騒ぐのは不自然である。その数百倍数千倍の陽性・感染者がいると考えるのが自然である。

感染初期の段階では、普通の風邪か新型コロナウイルスのよるものかが見分けられないのだろう。ならば、すでに感染爆発はしているし、陽性者が巷にあふれているだろう。自然治癒した人も、その何倍もいるだろう。

無作為に検査したら、それこそ、都民の半分が陽性か、過去に陽性だったが、今は陰性になった人、のどちらかではなかろうか。

国民の大半が感染しているのではないか。
風邪症状、そして自然治癒があって、国民大多数に免疫ができて、終わりである。感染爆発は最後の火薬がなくなるまで続くだろう。

 

陽性の結果数を云々することは、無駄に思える。各種の集会自粛、もはや流行り言葉になった「不要不急」の外出自粛を要請したりすることも、効果のほどは怪しい。


何度でも言うが、風邪の一種である。重い症状が出る人もいれば、感染しても、知らぬうちに治癒してしまっている人もいる。

自然のままに、ウイルスが消える、または慣れっこになるまで待て、とまでは言わない。しかし、現状では、それ以外に方法がないだろうということは、誰でもわかる。


ついでに、もう一つ。

知人が言うには、「ツイッターはバカッター」と。
言い得て妙である。

ふとした思い付きのつぶやきに過ぎないのに、拡散または拡販材料として使えるから、売名その他の商品売買に便利である。

フォローお願いします、などという字句を見ると気分が悪くなる。黙って、汝のするべきことをしていろ、と言いたいところだが、テレビと同じことで、ツイッターは手ごろな時間潰しに適しているのだろう。
遊びであるから、笑って見ていればいいことである。

 

ツイッターは、いわゆる「有名人」や、すでに他人に影響を与える力を持っている発信者が、自分の意見を多数の他人に向けて、短時間で広報するにはいいだろうが、無名な人や、もともと興味のない人にとっては、無関係である。

通信手段としても、ツイッター好きの仲間内では見ることができようが、ネット環境を持たず、はなからその類の情報を信用していない人には、無に過ぎない。

言説があふれかえることは、その価値が薄まることであって、真に知るべきことを、大量のごみで覆い隠すことになる。

スマホピコピコで、無駄口を増やすのは、ごみを増やすことと同じ、と言えば、怒る向きもあるだろうが、勝手に怒ってくれ。

ツイッターは、個々人のボケ防止や自己満足感を得ることができるのかもしれない。それにしても安直に過ぎる。
せめて一度に最低500文字は書いていなければ、文章にならない。それは怒鳴り声であり、泣き声である。
また、他人の言説を、当人に無断で、盗用というか引用するのも失礼である。


かく言う私も、ボケ防止のために、こうして駄文をつくっているから、バカッター仲間の同類であることに違いはないだろう。

 

 

 

 

4月から学校開始を喜ぶ子供たち。風邪も、新型コロナウイルスも、どこに行った?

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どうやら、4月から、以前、予想したように、学校が始まる。


一体全体、風邪ごときでいつまでも休校にして、いいわけがない。
すべての活動が閉じても、予定の期間が過ぎたら、学校は開かなければならない。

ありていに言えば、子供が親が、退屈なのだ、大変なのだ、我慢の限界である。
教員は無論、授業をしたがっている(大学教員は除く)。
教員とはそういう仕事で、物事を自分以外の誰かに教えたがるのが、習性である(大学教員を除く)。


何度でも繰り返すようだが、人は死ぬ。老衰でも事故でも遊びでも、死ぬ。
風邪で死ぬ者も当然いる。だからどうした。

コロナウイルスによる新型肺炎で死ぬこともあるだろう。ウイルスだから、感染しやすいだろう。だからどうした。

 特効薬でも、あるのか。

ないなら、感染を覚悟せよ。簡単には死にはしない。中には、もちろん死に至ることがある。これも運である。体力である。人それぞれである。

 

アメリカは、ウイルス感染の潜在的な拡大期に、大勢の人が一時に特定の場所に集まって、あちらこちらで、大統領選挙活動の大集会を開きに開いた。集団感染しないほうがおかしい。
今頃になって大さわぎする素振りは、止めたがいい。大国の名に傷がつくぞ。


たかが風邪である。季節が季節である。寒かったり暑かったり風が吹いたりもする。体調も壊しやすい。たまには、咳もするだろう、熱も出るだろう。いちいち騒ぐんじゃない。

 

短文だが、4月からの学校再開という吉報を、とりあえず、喜び合いたい。

 

 

 

できない坊主を授業の中心にしたらダメだ。かっこうはいいが、現実的ではない。ぱるるの授業批評9

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文中の指導者とは、授業を進める人、つまり授業をしている教員のことである。
 

授業批評9 

 

子供が、指導者の指示をすぐに理解し、行動に移すことができた。指示が明確である。

 引き算の筆算。 学習姿勢を確認したのはいい。グループごとの確認は、時間をとるものだが、このくらいなら許容と思う。

しかし、これを毎時間するようでは普段の指導が疑われる。指導者が、研究授業では、参観者への啓発という意味もあるという考えを持っているのなら別である。

 

繰り下がりなどの提示が、わかりやすくできた。その都度、子供とともに確認したのもいい。どうしても押さえるべきところは、くどくなってもいい。ただしその「くどさ」が、子供に不快を与えるようではだめだ。内容の確認が、他の児童にもプラスになると判断できる時だけ可とする。

 

指導者の指示が、穏やかにできていた。それが結局、子供の情緒の安定に寄与するので良。いらいらと大声で怒鳴るなどは、論外。

 

指導者の説明の場面が多すぎたし、一回ごとの時間も長い。

計算のやり方は、繰り返さなくても、次の計算に進ませるのがよい。実際にやらせるのが一番。ほとんどそれ以外にはないといってもよいくらいだ。

 

理解の遅い2名の子供のために、全体を待たせた。これも一つの方法だが、ほとんどの子供が暇になる。たしかに、指導者のポーズとしては、遅れがちな子供にも十分目を向けています、ということだろうが、そもそもあの2名は、授業に集中していない。待ってやるよりも、他の手を考えた方がいい。

 

あの場面では、解決を全員でする方法もあるが、学年的に難しい場合もあるので、状況による。今日の授業を見る限り、当学級では1~2回の練習で、可能だろう、やってみるといい。

 

定着のために多くの問題をやらせる。3の場面では、ドリルの○番に進ませてもよい。

 

指導者「理由も言えたね、すごいすごい」 

ほめるのは、いいことだが、大げさすぎたり連発しすぎると、軽くなる。子供自身も、馬鹿にされたようで嫌になる。

 

段階的に子供の作業の時間を増やすこと。3までは、指導者とともに、4からは子供一人で。5と6が、できた段階で、次の問題をやらせてもいい。その場合はノートにきちんと書かせて、指導者のところまで持ってこさせる。机間巡視のついで、ではだめ。

子供は問題ができて、前に行くという行為を好むものだ。

 

5は、隣同士が答え合わせが終わつているはずなので、それを板書で、確認する意味があるのか?  全然ないとまでは言わないが、場合によりけりだ。理解が進んでいるときは、現実の計算問題に多く当たらせたほうがいい。

 

計算をひとつの流れで教えていたのは良。後は、多くの問題を与えて、計算力の充実をはかること。もっと高めても、大丈夫だ。

 

総じて、子供に確実に力がついている、という感じの授業である。

 

 

 

 

 

 

4月から学校再開。子供が元気に通学する。コロナウイルス騒動も過ぎて、テレビの大儲けは終わり。

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旅客来りて、嘆いて曰く。

 

私はテレビを見ない。テレビは諸悪の根源で、あんなものを熱心に見るのは、それ相応の人々である。
などというと、怒る人もいるだろうが、勝手に怒ってくれ。

私には、あのテレビ受像機の向こうの茶番劇を平然と見ることができないのである。よって、自宅には何十年も前からテレビがない。しかし、PCとモニタ、DVD再生機やステレオ設備は各部屋に置いてある。

インターネットが出る前は、VHSビデオや、のちにレンタルビデオ、DVDでの映画を、楽しみとした。
国産は小津や溝口黒沢、他国ではフェリーニタルコフスキーリーン他、名作駄作をほとんど見た。

今では、ネット配信映画を専らとする。居ながらにして、古今の名作を鑑賞できる。大切に所持していた映画のDVDを1000枚以上、捨てた。保管場所の無駄である。見返したければ、ネットを利用すればいい。

毎年、優秀な映像作家が多くの良作を出す。今も、かつても、これからも、見るべき作品が作られることだろう。
安っぽく最悪最低無恥無知無益のテレビ番組など、瞬時でも覗くに堪えないことが、ご理解いただけるだろう。

テレビの諸悪は、それを見る人が、安直で無責任で、悪臭のゴミに慣れてしまうことである。屑テレビ番組で、人様の時間を奪おうなんて、大罪大悪犯罪である。
すべからく、テレビ受像機を廃棄することをおススメする。

 

先日、某教員から、こんなことを聞いた。
どうにもこうにも、落ち着きがなく粗野粗暴で、クラスでも他の子供に迷惑をかける、そんな子に限って、家でテレビ漬けである。またはゲーム漬けである。

私は、以前より、テレビの洗脳装置としての役目を「評価」してきたが、テレビ大好きの諸君に言いたい。こころみに、テレビのコンセントを外して数日過ごしてみるがいい。
どれほどの平安と落ち着きと会話と思索とが、生まれることだろう。
為政者やマスコミ家業の連中は、それが怖いのである。

他人の頭で考え、他人の口真似をして、簡単に誰かに都合よく操作されるような、安直でまじめでお人好しで働き者の国民のまんまで、いてほしいのである。すなわち、テレビの出番である。

テレビは大衆操作の要である。テレビ局と称する施設は、革命が勃発するやいなや、主なターゲットとなってきた。テレビ局で放送する内容が、つまりは真実であり、世界なのである。指示の司令塔である。

 

これほど言っても、テレビ大好き人間には何にも響かない、届かない。それほど、テレビが生活の一部、または全部になってしまっているのだろう。
お疲れ様である。

 

今時話題の、新型コロナウイルス騒動は、テレビ局にとって、大ボーナスで、嬉しくて嬉しくて、毎日毎日、踊っている。
新型コロナ、新型肺炎、ウイルス検査等々、怒鳴ってさえいれば、千客万来である。テレビも売れに売れる。誰もが、「テレビに首ったけ」である。

バカバカしくって、まさに、見てはおられない。

 

教育現場はとっくに落ち着いた。
誰も風邪なんてひいてない。マスクもしてない、たぶんないからだろう。あっても、あれは洒落みたいなもので、たまにマスクの人を見ると、微笑ましいくらいである。

いい加減に、コロナウイルスで騒ぐことを止めたらどうだろう。
学校は4月から、いつも通りに再開して、何ら差し支えない。

 

誰でも風邪になるときは、なる。現にそうだろう。
どうせ風邪である。季節性のものであること、明らかで、現に、君の周囲でも収まっているだろう。どうしたところで、感染するときは感染する。
体力気力が弱ったとき、体を冷やしたら、風邪をひくだろう。コロナウイルスの出番だろう。ご苦労様。

自分自身の体が、それを抑え込むだろう。抑えきれなければ、重篤になることもある。それが自然というもので、人間の歴史だろう。

万に一つの災難を恐れて、学校の閉鎖を続けるなんて、教育の放棄である。

約束の2週間は過ぎた。それはある種の今後の準備であり、パニックの訓練である。意味はあった。各種イベントの中止も、それなりの意味はあった。これもまた、遠からずやってくる災害災難国際紛争の類の、予備訓練だろう。

だが、マスコミや各種利益団体に踊らされて、ウイルス感染を長く引き摺るのは、いかがなものか。
コロナ騒動に振り回され続けると、保護者や肝心の子供たちが、そろそろ我慢の限界で、怒り出すかもしれないぞ。

季節は春である。青空の下、太陽を浴びて、子供と一緒に大声で笑ってみるがいい。風邪もどこかに吹き飛ぶことだろう。

 

ーーー

と、以上のような話である。

コロナか、そういえば、昔トヨペットコロナという車があった。懐かしく思い出される。コロナマーク2とかも。

 

君は風邪なのか。それは新型コロナかもしれない。しかし、治りかけているようだ。熱もない。

かつて陽性反応が出ていたようだが、今は陰性だ。

 

こんな会話があるのだろうか。知らない。

 

4月から、全国の学校を、平常通り、再開するとして、何か問題があるのだろうか。

あるのなら、言ってみるがいい。