ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

スポーツが得意な高校生は、低学力でも入試に勝てる。大学は宣伝のためなら、なんでもあり。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

大学はどこもかしこも経営難である。

「偏差値が55以下ともなると、大学というよりはレジャーランド、暇つぶし、学士を得るための免許センターのようだ」、入試情報に詳しい人の言である。

 

馬鹿げた偏差値ごっこは論外として、大学は、高い費用を払ってまで行く価値があるものかどうか、本人よりもその親に尋ねてみたい。

 

学校は昔から、教員がすべて、である。

子供が学校の主役だ、なんて利いた風なことを言う者もいるが、とんだほら吹きである。教員にろくなのがいないのに、優秀または優秀になるべき子供が、集まるわけがない。

 

とはいえ、世の中には、奇怪な学校がある。旧帝大系は、官立で古い。誰もが名前を知る。受験テクニックの上手な子供が受験する。自ずと偏差値は高くなる。偏差値が高いと、受験者が余計に増える。中には、そこそこの人材も出る。

教員が疑問形でも、学校の名前で乗り切ることができる。

 

一方、私学はどうか。これはもう宣伝しかない。

宣伝のためなら、学力よりも知名度をとる。一例をあげればW大で、なんでもありである。もちろんW大ばかりではない、どの大学でも、すでに名の知れた、または今後有名になりそうな子供なら、学力無視で、どんどん入学させる。

タレント受験者の実例をあげるまでもなく、こういう私立学校のからくりなど、みなさん、すでによくご存じだろう。

それでも有名校に入れば、就職その他、何かと便利なので、多くの無名な受験生は、勇んで受験して、合格さえすれば、喜んで入学するのである。

 

世間と大学の、学生と教員の、奇妙な馴れ合いは、日本独特の一種の文化である。東京都内の雑踏を歩きさえすれば、理屈抜きで体感できる。遺伝形質や学力や勉強意欲のあるなし、学校の良し悪し、教員の質の上下など、関係ないのである。

大学と街と若者と生活とが、いい塩梅に溶け込んでいる。どうしようもない。

 

こんな無駄を許すどころか、むしろ暖かく見守るなんて、日本はよい国である。ぬるま湯どころか、国全体が温泉保養地である。

しかも、これまでも、今も、これからも、世界に向かって「おもてなし」を、喜んで「させていただく」のが大好きな、嬉しい国民性である。お人好しというより、間抜けである。

 

話を戻すと、大学である。

大学は生き残りをかけて戦国時代に入った。と言えば、格好良さげだが、これまでが、ぬるま湯で、大学というだけで、客が集まった。しかし、甘え続けるのも、いい加減にしなければならない。

では、どう戦う気なのだろう。本来は主戦力であるべき教員の「実力」の向上が望めない。もとより、戦力にならない者どもである。

 

以前のことだが、某国立大の教員なんて、ウイスキーが切れると、授業にならない。自分の研究室にはウイスキーがとりそろえてある。脱兎のごとく教室を飛び出して、ストレートで飲む。水も飲む。教室に駆け込む。その繰り返しだが、学生も表立っては非難しないし、できないし、まあ、する気もない。某大の学生であることだけで、嬉しいのである。

 

「大学等における就学の支援に関する法律」とやらで、ますます、大学は、遊技場と化すだろう。おめでとう。

 

 

 

 

 

「難問題」も笑って解ける。入試問題作成、ご苦労様である。読書量と質。

paru 2

中高一貫学校の入試問題は中学の教員が、高校の入試問題は高校教員が、大学入試問題は大学教員が作成する(ことがほとんどである)。

 

次年度の入試問題作成担当に決まった教員は、校務分掌を外される、または著しく減らしてもらえる。問題作成に没頭させるためである。といえば、いかにもだが、そこは教員の能力次第で、楽に良い問題を作る者もいれば、苦しんだ挙句、怪しくて下手な「問題」を作る教員もいる。

中でも、国語関連の科目は、作成が難しい。

 

小論文が、大学入試で大きな比重を占めている近頃ではなおさらで、あれは当初は、受験生に書かせて、それを読んで採点していたが、まともに採点できる代物ではない。受験生の舌足らずの下手な文章を、公平に評価できるものではない。

それで、課題型小論問題などと、いろいろと内部で名前を付けて、小論文とはいえ、従来の国語読解問題に近づけている。課題文章を要約させたり、記号選択などを取り混ぜて、採点しやすくした。

 

いまさらながら、受験生諸君に言うのもなんだが、小論文問題だからといって、特に準備をしなくても、国語科が、よくできていさえすれば、軽く解けること、君が知っての通りである。

 

面白く感じるのは、普段よく読書する子供は、この10年で、特に有利な傾向になってきている。

これは出題するの側の教員が、御多分に漏れず、勉強不足、基礎教養不足、読書量の少なさなどから、出す分野が限られてきているし、問題作りの冴えもない。受験生のほうが、読書量や読解力ともに優れている子供が増えてきたためである。

 

例えば、ある国語の得意な高校生は、問題文を見たとたんに、答えが透けて見える、と言ったが、多分その通りだろう。

出題する大学教員や高校教員よりも、受験生が上手だから、無理もない話である。

これをまさか、とか思うのは、その経験がないからで、特定科目が並外れて得意な子供には、めずらしいことではない。

 

過日も某国立大学の試験問題を、何人かの子供と覗いてみれば、あの文章もこの文章も既読だと言う。著者も題材名も問題に表記してあるから、この人ならこの傾向の思考形式だ、と見抜いて、笑っている。

 英語問題は、最初の数行で、Hemingwayのあれだ、Maughamだ、古いの選びやがって、などと言う子供もいる。

 ただ、国語の読解問題は、近頃の雑文屋の文章を出すことが多く、これには閉口する。いわゆる格の通った文章ではなく、ひどい悪文ばかりである。

子供も、脳科学社会学だのを装った売文屋の駄文を無視するだけの見識はあるので、読んではいない。試験日が初見である。

しかし、これは前にも書いたが、出題者の意図を見抜いて、彼らの予想する答えを投げてやれば、喜んで食いつくから、心配はない。

 

というわけで、受験生諸君には、普段から一流の本を読んでいさえすれば、良い問題は軽く解くことができるだろうし、悪い問題はそれなりに笑って回答できることを言いたかったのである。

 -----------

以上は、ずいぶん以前に書いたものである。近頃の入試問題を見ていないので、評価できないが、どこの大学のどの学部の、そして何年度の国語問題が優れているのだろうか。校種別に入試問題グランプリなるものを、作ったらどうだろう。

 

 

 

音読を忘れた学校。音読指導は学習の基本であり、教員の必要条件だ。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

近頃、小学校現場で、音読をさせることが少ない。というより、皆無である。
これは、音読で育った世代が、現役学校教員として、完全に死に絶えたからである。
もはや朗々と子供が本を読む声が、学校の教室の窓から聞こえることはなくなった。今後もないだろう。

教育の基礎は、簡単に言えば、計算と漢字の読み書き、及び音読である。この三つができていないとすれば、学校教育の、特に義務教育である小中学校の存在価値はない。

 

かつて、学級の学習状態を知るには、子供に音読をさせれば、よかった。
どの子も、程よい声ではきはきと上手に音読する学級は、授業が落ち着いていて、子供の知的意欲、理解力などが充満している感があった。教員も子供も、授業に集中し、日々成長を感じることができたのである。
音読の下手な子ばかりの教室は、教員が駄目であることが多かった。子供も荒れていた。
音読は、教育活動すべてのバロメーターであった。

ここまで言っても、わからない輩はわからない。わかりたくない。音読の重要さを、身をもって知らない連中は、教育を語る資格がない。
ということは、語る資格のある人も、いなくなったということである。

と、極端な話をしても、益がないかもしれないが、音読を鍛えることが、あなたの学級をよりよくするための第一歩であることを伝えておく。

音読の訓練は、簡単である。子供に実際に読ませればいい。教員が、子供の音読のまずさをいちいち指摘し、範読し、繰り返させればいい。これはどんな学級でも、担任なら、一週間で指導できる。中学校国語科の授業でも、1学級に3時間あればできる。そこで習った、上手に音読する能力は、子供の一生の宝となる。音読は、子供にとって有益かつ唯一無二の学習なのである。
これしきも気づかないで、何が教員だろう。何を教えるというのだろう。

とはいえ、学校はあるが、教員はいない。国会議事堂はあるが、政治家を探そうとすると、難儀であるのと同じである。

 
音読指導は、指導する教員に教養がなければ、どうにもならない。
教員が、読書家で、知識量が豊富で、文章の読み書きが得意で、音読が上手で、芸術的な感性があり、俳句短歌落語の類もたしなみ、楽器ができて、音楽を聴くのが好きで、ついでに絵も描き、展覧会の常連で、本物の芸術作品を長年鑑賞しており、鳥獣草木に詳しく、世界を旅し、仏典も読み、得度し、修行し、云々。とまでは、いくらなんでも、無理な相談である。

音読の指導は、ある程度の指導力を持っている教員なら、できる。

音読指導すらできない教員は、職を辞したほうが日本のためのみならず、ご本人のためにも、幸せというものだろう。
現実は、そういうわけにいかないので、不幸せな人々が、満ち溢れているのである。合掌である。お布施である。祈るのである。

ここでも、結局、人が生きることは、運であることがわかる。
学校で、「教員」に出会えるかどうかは、子供の運である。親の福である。
再び、合掌せざるを得ない。

 

ついでに言っておくが、高校からでも遅くはないぞ。

 

 

 

 

筑駒文化祭。褒めて育てる。楽しい見世物、童形と時分の花。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

子供は褒めて伸ばすという。人は誰でも、褒められたい存在だから、まして素直な子供のころは、褒められたくて仕方がない。

安直な誉め言葉は、子供とはいえ、相手に見透かされる。
しかし、褒められた当人からしたら、見透かしても、やはり褒められたのだから、何割かは嬉しい。
褒めることは、褒める側にも、褒められた側にも、プラスに働く。みんなハッピーである。

たとえば、物事の批評は、褒めることが第一で、けなす必要はない。けなすより無視すればいい。無視が一番強烈な否定であって、わざわざ、まな板に置くまでもない。

誉め言葉は、とりわけ教育現場では大切で、ほとんどこの一手しかないくらいである。否定的な言動は厳に慎まなければならない。


先日、筑駒中高の文化祭について述べたが、褒めることを忘れていたので、少しく付け足す。

去年、演劇は、既成の原作を使って演じるよりは、むしろ子供自身で自由に脚本を書き、演出して、仕上げたほうがいいし、できるはずだと書いた。
在校生がそれを読んだかどうかは知らないが、今回の文化祭では、演劇系はほぼ自作のようだった。
ようだった、というのは、すべて見たわけではないし、スタッフに確認したわけでもないからだ。

結局、3本見たのだが、その中で、3CHRの「50RT」について言う。

風刺っぽい、ありがちな内容だが、うまくまとめていた。
特筆すべきは、鈴木秘書役で、演技なのか素なのか、わからないほど、キャラの面白さがにじみ出た。陽菜役も自然な演技でよろしい。他の演技者も、ほどよい抜け感と、手作り感があった。この分では、来年も来るか、と期待させる。

ところで、筑駒文化祭に先立って、某進学女子中高の文化祭に行ったのだが、中学演劇部と高校演劇部との格差にがっかりしたのだ。
圧倒的に中学生がいい。
理由を考えるに、男女問わず中学生は 、世阿弥流に言えば、時分の花が盛りである。童形が残っているので、何をしても可愛らしい、幽玄である。
一方、高校生、特に女子高生はもはや大人である。しかし、20歳過ぎの女性の落ち着きというか、安定はない。しかも演技力は子供並みである。外見と実力とのギャップが大きすぎる。
高校生と違って、中学生は、なんといっても姿がいい。そこそこの演技で、形になる。


映画演劇絵画彫刻、その他諸々は、人に見せるのである。つまりは「芸術」は見世物である。見世物には花がなくてはならない。その花は、素人の場合、外見に尽きる。


さて、話を戻すと、進学率が高いだの、三大行事だのと、身内または贔屓がどんなに騒いでも、結局、見世物である。見に来ていただいた人々に、楽しんでもらわなければ、何にもならない。
子供たちが文化祭に取り組むことによって、成長したという。それはそうだろうが、来訪者あっての、達成感である。多くの参観者がなければ、学校行事としても失敗なのである。

この辺りを、よく考えて、他の行事とは、違う意識を持たなければならない。
人を楽しませることが、どんなに難しいかわかるだろう。落語家は自分では笑わない。
筑駒文化祭は知名度がある。学校も子供たちも、PRに余念がない。大きく露出するのなら、それに見合った内容を示さなければならない。

とはいえ、ご想像の通り、出来栄えはともかく、中高の文化祭は面白いものである。

 

f:id:paruru236:20191119092139j:plain

キャラの立つ布陣。

 

f:id:paruru236:20191119092238j:plain

f:id:paruru236:20191119092241j:plain

豪華なパンフレット

 

f:id:paruru236:20191119092201j:plain

熱演。

 

 

 

若い女性教員の悲哀。低学年は女性、高学年は男性の担任がいい。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

某人、つくづく述べたことには。

ーーーーー
女性教員だから、男性教員だからと、云々すると、性差別だとジェンダー論者から叱られそうである。
しかしながら、夏は暑く、梅雨時には雨が降るというように、至極当然の話をしたい。
もちろん、大体においての雑駁な話なので、例外は常にある。

小中学校での女性教員は厳しい立場だ。誰にとって厳しいかといえば、教員自身のほかに、肝心の子供や保護者にとっても、厳しいのである。辛いのである、苦しいのである。

子供の学校生活は、担任教員と密接な関係を持つ。
中学校では教科担任制だから、一人の生徒に多くの教員が関わるので、幸運なことに、担任の影響は、弱まる。
小学校は学級担任制で、ほとんどの教科を一人の教員が教えるから、担任の影響が大きい。大きすぎる。

担任教員が女性、特に若い女性だと、どんな変化が子供に出てくるだろうか。
落ち着かない、不安定、怠惰、退学、喧噪、不熱心、指示が通らない、子供自身が授業を心底楽しんでいないような感じがある。

これらは、以前からも、今も、指摘されている。特に高学年の5年生6年生に顕著である。

これは、表立っては言えないし、言っても詮無いことなので、タブーである。しかし、子供や親の落胆は隠せない。その反射として、教員自身が不安を感じて悩んで、ますます泥沼に入ることがある。

男性教員と女性教員との違いをどのように縮めるか、または逆転するか。性差を、感情豊かな指導上の利点として、子供に好影響を与えるには、どうすればいいのか。

教員個人の資質や努力や、または職業的慣れで解決するしかない。と答えるのも、一つではある。

男性教員にも色々ある。安定した若い女性教員のクラスもあれば、不安定な男性教員のクラスもある。
問題は、教員の個性や教授技術以外にもある。
どうも、難しい。人と人とのつながりには、相性がある。

であるのに関わらず、表向き平穏無事に過ぎているかのような学校生活は、結局のところ、子供自身の可塑性が大きく、子供が「観念」をしたことによって、担保されている。
担任の授業を毎時間、強制的に受けなければならない。常に不平不満を抱えていては、子供当人が持たない。子供は伸びようとする若芽、または雑草のようなものだから、環境の不具合不公平を、自分の頭から取り去ろうとする。または自然と乗り越える。
それはそれで生き物の知恵だが、いずれ、どこかに破綻が出る。

俯瞰して観察すると、破綻は歴然である。しかし、これは何度も言うようだが、タブーである。

小学校低学年の1年生2年生は女性がいい。特に問題行動をとる子供の多い、新入学1年生の学級を、ベテランの女性教員が担任すると、あら不思議、いい子ちゃんばかりになる。
家庭で味わえない母性愛が充足されるからか、その他の理由があるのかは、ケースによる。

一方、小学校高学年5年生6年生は男性がいい。若くてもベテランでも、それは教員の実力による。ともかく、男性教員の担任学級が、子供たちは安定する。逆に若い女性教員が高学年を担任すると、不安定なことが多い。
以上は体験的な事実を言っている。

学年の子供の半分は女性である。だから女性教員が必要というのは、現代のジェンダー感覚からしたら妙なことである。
男性ばかりの学年団で、一向にかまわない。現に、低学年の学年団は多く女性ばかりではないか。だったら、高学年は男性教員ばかりでいいのである。

ーーーーー

と、以上のような話である。
さて、女性だろうが男性だろうが、教員の実力と、直接の関係がない。教員の精神的安定感と教養と授業技量が問題なのだ。
そのどれが欠けても、不安定になる。

不安定になりやすいのは、いったいどのような要因か。性、年齢、のみならず、多くの偶然と要因とが左右する。やはり、人それぞれと言うしかない。

運である。

 

 

 

教員の「面当て自殺」、マスコミ人のペルソナのごとき。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

ある人が言うには。

 

同期生が、大臣として入閣した。そんなことが何度か続いた。
「あんなやつが」と吐き捨てるように、君は言うけれども、まあ、そんなに怒るな。
かつての高校の級友は、今の本人ではない。
環境が人間を作る。弱い精神にとって、これは事実であるし、ほとんどの人は、弱い。

誰にでも、歩いてきた道がある。だとしたら、嫌な奴だった男にも、入閣に至るまでの、それなりの毎日があったのだろう。少しは認めてやれ。環境に染まった、または、うまく泳いだのである。

 

教員もまた、環境に影響されやすい。
中でも、専門教科に逃げ込むことができない小学校教員は、まるで根無し草のように、その場その場で、頼りなく浮き沈みする。熟成が難しく、常に不安を抱えているように見える。

毎日、未熟な子供と親と同僚とに囲まれて、超特急の授業と雑務に追い立てられて、冷や汗の毎日を過ごす。
これで人間が、いじけて悪くならなければ、精神の強い人である。
しかし、相応に強い人物は、そもそも教員なんかしていない。
教員がだんだん元気がなくなっているのも、無理もないことと思われる。

すべての職業人には、特有のペルソナがある。
その表面は、どんどん崩れてきている。

本音の時代なのだろう。
宗教に代表される心の安定装置は、人に充足感を与えるとともに、教理の枠内で行動を命令する。壺に籠っていれば安心安全が手に入ると信じ込ませる。
目先のことだけ見て生活すればすべてよし、の態度である。

自殺した勤め人(教員を含む)をつらつら考えるに、端から見れば、さほどでない出来事が、本人にとっては、大きなダメージだったことが推測できる。
組織体で、本人がよかれと考えてしたことが、結果的に失敗に終わって、(客観的に失敗でなくとも、本人が失敗であると自覚するとき)、その責任を被らされたことが、自殺の契機となっている場合が多い。
自分の判断で行動したときは、失敗しても、自殺することは、少ない。

現実に自殺に至るのは、他人への「面当て自殺」がほとんどである。
面当てとは、まさに憎く思う人の前で、わざと意地悪いことをして困らせることである。あてつけである

「面当て自殺」の多くは、本人の職責や立場上、本人の意志に反するけれども、やむを得ないで、ある行動をして、その結果が不本意なときに、起こりやすいのである。

「自分で自分の行動に責任をとれ」なんて、幼児にも分かる道理である。食べ過ぎたら腹が痛む。自分の判断による失敗は、自殺をするほど悩まない。
人間は、もともと図々しい存在である。

ところが、他人の判断によって、自分の行動を左右された場合は、一時は我慢していても、ついには内なる自分が、爆発する。
その爆発を、自殺という形で出すことが、一番、周りの人々や世間にインパクトがある。それを本人は知っているからこそ、自殺するのである。
校長が、学校内で自殺するなどはその典型で、児童生徒や教職員のことなんか、全然かまっていない。自殺する場所は他にあるはずであろうに。つまり、彼らが憎かったということである。

だが、学校教員が学校内で自殺することは、やはり許されてはならないことである。
なぜ、教育委員会事務所ではだめなのか。文科省内の便所では? 都庁や県庁市役所の玄関では? 自宅では? 裏山では? 繁華街の路上では?
だが、答えは出ている。

学校も、一企業、一施設である。切羽詰まると、何でもありである。
そのことを、誰でもが、すでに知っているのかもしれない。
時間が、様々な事柄を、結局は水のように流してしまうことを、成長途上の子供は自然に理解している。それが生き物の知恵なのだろう。