ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

教員のいじめ。子供は油断ならぬもの。地獄も極楽。

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某教員曰く、小学校高学年で音読を厳しく指導していたら、なるほど、そこそこの成果が上がって、ぐんぐんと子供たちの音読が向上した。ところが、授業中、教室の子供が挙手して言う。
「先生、今なんて言いました?」
子供は教員の滑舌の曖昧さを指摘したのである。

自分達に高い目標を設定し、要求するのなら、教員もそれなりに高い水準で発音発問説明指示その他をやってみろ、ということなのである。
油断ならない高学年だ。

これも教員の楽しみである。効果的な授業にするために、子供にいっそうの集中や努力を要求する。だったら、教員も当然に高い授業力であれ、という、子供の厳しい「お達し」である。
こういう時、教員は心底、教育現場でのやりがいを感じるのである。ただし、あれもこれも、授業が授業として、成立していればの話である。授業が形を成していなければ、お話にならない。

 

普通及び普通以上の授業が、当たり前になされるのが、よい学校である。

あの学校はよい、この学校はよくない、などと公立小学校や中学校の評判を耳にする。
詰まるところ、教員の問題だと思いたいが、そうでもない。
教員が落ち着いて子供の授業へ集中できるのは、子供たちが落ち着いて授業に臨み、内容を理解しようとしているからで、結局、子供の気持ちが安定しているからである。
なぜ、安定しているかといえば、子供の家庭が安定しているからである。

家庭が、精神的経済的に盤石なら、子供も安心して学校に通うことができる。学校で教員の指導を素直に受け入れて、勉学に励むのである。等と書くと、できすぎのようだがそうでもない。
実際に多くの学校の様子を見ると、この式は簡単に成り立つ。

だから、昔は小学校から私学に入れたがる親が多くいた。私学なら、通う子供の家庭環境が、ほとんど同質だろうから、子供が安定している。その結果、落ち着いた教育がなされるだろう、という親の予測である。ところがどっこい、児童生徒はともかく、私学教員の実態が様々であることは、以前すでに書いた。見てくれ。

 

子供の家庭の安定は、学校の評価とパラレルである。
どんな大人でも、環境に染まるだろう。だったら、子供はなおさらである。
子供が落ち着いていれば、教員も落ち着く。教員は教えることを楽しみとしている人が多い。嫌々「先生をしている」ような人を、幸いにして、見たことがない。教員は、口では愚痴を吐いたとしても、本心は、子供好き、教えることが大好きなのである。

地獄だと思うようなこともあるかもしれないが、それは極楽の中の地獄である。

 

話は変わるが、先日、神戸の小学校で教員同士の「いじめ」があったそうである。若い教員を、数名の中堅の教員がいじめたという。
いじめる、いじめられる、は万古不易の心の闇の部分だから、驚くに値しない。
教員は、普段、保護者や子供や各種機関から、ある種のいじめを受けている存在である。だからといって、同僚や後輩を虐めてはイケナイ。十分にいじめは体験しているはずだから、むしろ互いに労り合うぐらいで丁度いい。
同士討ちというか、共食いのようなことをしては、なり手が少なくなっている初等中等学校教員の人気が、ますます落ちてしまって、人材が枯渇する。
後輩は可愛がれ、同僚には親切に。などと書くと、標語のようになるが、教員はかくあれ。

 

相手を見て、指導する。荒れた学級は、子供の知的興味に訴える。

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子供は、誰もが背伸びをする。子供は挑戦したがっている。現在の自分より少し上を常に望んでいる。なかなかの自信家であり自尊感情が強い。

子供に、知的な興味関心を育てることは簡単で、対象を子供に提示するだけでいい。
もっとも、こんな簡単なことでも、「魅力」ある教員でなければ、難しい。知的な向上心を活発化させるような教員が、子供に好まれるのは、子供自身が、本心では、学びたがっているからだ。

教員のすることは、子供の自然な感情を刺激しながら、授業を進めるだけである。小難しい理屈はいらない。
不必要にややこしく勝手に悩むから、困るのである。

その昔、ソ連の心理学者で、最近接領域とか言った者がいた。
言い得て妙で、もう少しで手に届くぎりぎりのところを与えて、教え伸ばすのが、万事上達の秘訣である。

簡単すぎても、難し過ぎてもいけない。少し悩ませて苦労させて、自力で解かせる。少なくとも子供自身がそのように感じるように指導しなければならない。
これを間違うから、子供に勉強嫌いが出てくるのである。


話は変わる。
小中学校、特に小学校の高学年では、担任教員によって、ずいぶんと学級の雰囲気が違う。
荒れた学級、荒れつつある学級、まあまあ落ち着いている学級、その他。

混乱の原因は色々で、簡単ではない。子供と教員との人間関係に帰着する。
教員と子供とが、敵対関係に近いものになっていると、すべてが悲惨となる。もっとも、子供は可塑性があり、マイナス面から目をそらし、自然と得になるように行動するから、学級の現状に馴染もうとする。現に、すぐに馴染む。
馴染まないのは、むしろ担任教員であって、うじうじと拘泥するから、ますます泥沼に嵌る。

例えば、言葉の遣い方である。
教員は、授業中、言い間違えをしたとき、大げさに謝る人が多い。
これを何回もやると、教員の言葉に、子供は都合よく敏感になり、教員の言葉尻を捕まえて、攻撃の機会を待つようになる。
一方、教員は、防御のために、言い間違えたら、子供の指摘の前に、先手を打って謝るようになる。これがかえって、子供の教員攻撃の端緒となる。
悪循環である。

また、一部の子供が他の子供へ、あえていたずらして、それを教員に注意させることによって、教室の喧噪を増やそうとする。学級の多くの子供が、内心期待するところでもあり、いたずらをする子供へ同感しているから、教員個人と学級全体の対決となる。
こんな学級は、午後は、決まって喧噪が拡大する。午前はあれでも一応の規律の中にあったモノが、我慢できなくなって噴出するのである。喧噪を抑えようとしてきた教員の体力も、午後には弱まってもいる。

その他、事例は山ほど提示できるが、荒れた学級の特徴を指摘しても仕方がないだろう。
担任教員次第で、何とでもなる。しかし、実際の場面で、教員の指導ができる人が少ない。または、いない。
このあたりのことは、微妙な問題である。いずれ話す。

 

 

 

 

 

 

アクティブ・ラーニングはごまかし。言葉が躍る指導要領は、無駄である。

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他の省庁に比べて、文科省のつらいところは、何かをやっているふりをしなければならないことだ、とある人が言った。


本来は暇を持て余して、あってもなくてもいいような役所である。しかし、極楽な毎日でも、文科省の職員として、給与は払われているのだから、やっぱり何かをしている素振りが必要である。

そこで考えたのが、学習指導要領なる短い文書を、十年に一回くらい出して、教育界を引っ掻き回す作戦である。文書内容は、雨の日は雨が降る、といった類の、当然すぎる内容だが、これによって、小中高や大学の教員その他に、文科省の存在をアピールするのである。大手学習塾チェーンやマスコミ各位殿とも連携して、せっせと話題作りをする。

文科省という役所があったこと、仕事らしきものをしていることを、宣伝するのである。

言っておくが、学習指導要領なる、スカスカの文書が、世の中の役に立った例がない。あれこそ、無駄の極致で、教育関連の商売人に話題と金銭とを提供するための一大キャンペーンである。
さて、近年の目玉はアクティブ・ラーニングとやらである。笑止な。

日本人なら日本人らしく日本語で書け。
日本語で書くと、中身のないことが、ごまかしばかりであることが、ばれてしまうのが怖いのだろう。
日本の「グローバル化」対応のための、「キーワード」だそうである。
何度も笑わせてくれる。

中身なんて何にもありゃしない。普通の授業をきちんとすればいいことで、それすらできないくせに、大仰な口を叩いても、無駄である。
つくづく、文科省職員の卑しさを、遺憾とするのである。

 

話を変える。
教員は、子供に学力をつけること、が本分である。
学力とは、既存の知識を理解し、新しい知見を創造する能力のことをいう。
手っ取り早く、学力の向上または退化を判断するには、試験である。つまるところ、試験の「成績が良い」ことが、学力がついた証となる。

学校は、子供に学力をつける場所である。知識を教え込み、多少の応用力が育ったなら、
万々歳である。それ以上でも以下でもない。

できもしないくせに、壮大な目的を挙げて、力んでしまうと、肝心な学習内容の教授が疎かになる。というより、迫力がなくなる。

ほとんどの学校は、成績が何よりも大切だ、と表立っては言いにくい。それをはっきりと掲げることは、憚りがあった。「成績ではない、人間性が一番だ」と綺麗ごとを並べ立てて、大嘘をついた。
学校は、生意気にも、他人の人間性まで判断するのであろうか。
大きなお世話である。いっそ、最初から、「点数至上、成績第一です」と言え。
低レベルの指導要領の内容すらカバーできないでいて、「生きる力をはぐくむ」とか、聞いて呆れる。
さっさと、授業を進めろ。

景気がよい頃は、日本は工業力で他国に一歩も二歩もリードして、余裕があった。
今は違う。世界の競争が厳しい。嫌な言葉だが、「ボーダレス」である。

日本の得意分野に、強敵がどんどん出てくる。資源もなく狭小な国土の日本は、常在戦場である。しかも常勝を期待されている。人材だけが頼みの綱である。
人材育成の土台は、言うまでもなく教育である。学校教育である。授業のレベルである。
学校だけが、競争と無縁なわけがない。
学校で子供に力をつけることができなかったら、アウトである。脱落である。学校、教員、親、行政、国家、丸ごとアウトなのである。
セーフになるには、全力で走るしかない。少なくとも、教員は、子供を厳しく指導し、励まさなければならない。それが仕事のはずである


しかしながら、子供は、放っておいても成長する。または、自力で学習する。これも事実である。
その一方、子供が自然に伸びるのは、生理的にであって、教育的にではない。故に教育が必要だ、という意見もある。
果たしてそうだろうか。
子供は自分で、自身を教育しながら生きている面もある。
「親はなくとも子は育つ」という。意図的どころか、何も教育しなくても、いつの間にか身も心もそれなりに成長する。
これも逃げ道の一つである。

時間の流れが、教育の成功も失敗も、飲み込んでいく。それに甘えて、教育関係者は大言壮語する。
生きる力だの、主体的だの、個性尊重だの、無意味なキャッチフレーズを並べ立てて、自己満足に陥る。
肝心のことは手抜きして、綺麗ごとを言う。その結果はだれが責任を取るのだろうか。


教育は、つまりは、大人による意図的な営み、である。
意図的ではあっても、予定通りにいくものかどうか。「営み」を過大に評価すると、教育の間口が際限なく広がって、収拾がつかなくなる。

学校は、学力をつければいいのである。それだけが学校の役目であるし、それ以上のことが、学校にできるだろうか。よく胸に手を当てて、考えるがいいだろう。

 

 

 

子供の転入学校。転勤先の住所選びで、とんでもないことに。

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学校によって、授業をするときの、しやすさに差がある。
学校が違うのだから、当然といえば当然すぎる話だが、差はどこから来るのだろう。
落ち着いた授業が成立する学校は、どこが違うのだろうか。

うまく答えが出せないのである。複合した理由があるから正解がでない。子供も教員も生き物だ。時々刻々と変化する。
ごくまれに、問題校がいつの間にか模範学校に変化したりもする。
しかし、大概は、指導困難校はいつまでたっても指導困難校であって、優秀校との差は歴然とある。これは高校や中学の話ではない。小学校にして、すでにそうなのである。
ここでいう優秀校とは、教員の適切な指導により、子供が落ち着いて授業を受け、如実に子供の学力が向上し、保護者も学校教員へ親しみと敬意とを感じている、というほどのことである。

子を持つ親が、転勤に伴って、住居を決めるときは、慎重に調査をするべきである。優秀校に転入するためである。
夫が忙しくて時間がとれないことがある。妻は一足先に転勤先の町に乗り込んで、評判のいい学校を探さなければならない。
これはと思う学校を見つけたら、そのそばに住居を選ぶ。適当に転居先を決めると、とんでもない目にあいかねない。あなたが、ではない。あなたの子供が、である。

調査はどうするか。簡単である。インターネット情報も参考程度にはなるが、実施見聞が第一である。学校近くのスーパーで主婦たちが教員の噂話をしているようなら論外。
学校のそばまで行って、校舎や校庭、休憩中の子供を観察する。下校時に、それとなく子供に挨拶する。どの子供も、ほどよい声で、品良い挨拶を返すようなら、まあまあである。

思い切って、事務室に行って、授業を見たいのだが、と切り出すのもいい。断られるだろうが、断り方を観察するのである。事務室の職員の対応が柔軟なら、職員室の雰囲気もそれなりだろう。中には、授業参観が可能な場合もある。
授業参観日に紛れ込むのもいいが、これは当日まで待たなければならないから、時間的余裕があるときである。

しかし、大概は町で食堂にでも入って、学校の評判を訪ねたら、自慢げに答える人が必ずいる。一つの聞き込みではなく、何人かの意見を総合すれば、結果に大きな差はないだろう。

たとえば、仮に、某市では、小学校200校中、優秀校2校優良校3校。中学は80校中、優秀3、優良3程度としようか。その校区に的を絞って、住居探しをすればいい。


以上は、某保護者から聞いた話である。

キャッチの世の中。スター誕生や綺麗ごと。教育は、ひたすら「虚しい」か。

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私立学校には、建学の精神というほどのものがある。半ば形骸化して、惰性で続いているだけのような学校も、創立者の理念だの、建学の精神だの、能書きだけは一流である。とすれば、私立学校は、学校ごとに大きな特色があって当然で、ない方がおかしいことになる。

さて、公立学校も、学校によってその中身は驚くほど違う。
地域が違い、通ってくる子どもが違うのだから、当然ではあるが、個々の教員にとっては、勤め先がどんな学校であるかは、死活問題になりかねない。

簡単な見分け方は、校長の顔を見るといい。のんびりゆったりしているような雰囲気があるなら、その学校は働きやすい職場である。
人相に険があって神経質で、しかも上昇志向が露骨に出ているようなら、それは悪い学校である。

俗に、校長が学校を引っ張ると、以前は言ったが、戯言である。校長に、実際の指導ができるわけがない。校長の役目は、教職員の労働環境を具申し、対外的な雑用をこなすことにある。
条件整備に意を払い、教員の鬱憤のはけ口となって、ひたすら教員や保護者の愚痴を聞いて、共感することができるなら、上出来である。
一人前に教科指導や生徒指導の蘊蓄を垂れてはならない。担当教員の方が数段上手だろう。

晩年の某喜博が、教育とは、と問われて、苦渋の顔で「虚しい、ただ虚しい」と語った。自己表出をうまく演じ、年齢を重ねるほどに、周りから持ち上げられ、やりたい放題だった男の、正直な言と、とらえるべきかどうか。

仮面が厚くなると、支えきれなくなる。教育は、教員と子どもたちとの個人的営みであるから、大言壮語や、各種イデオロギーと、相性が悪い。多くを望まず、多くを語らず、日々の授業で学力を確実に子どもにつけることが教員の本務である。その他にあろうはずがない。

結局、教育活動はムーブメントではない。スター誕生でもなければヒーローヒロインの活躍する場所でもない。地味な裏方作業であり、苦労のみ多くて報われることのない仕事である。そう割り切ることができないのなら、最初から教員なんて、よすがいい。むしろ、営業職や芸能界が向いている。

そういえば、文科省と提灯大学の教育学部、および教育系マスコミ業の連中は、いつも愚にもつかない流行をでっち上げてきた。ここに書くのも恥ずかしいのような代物で、よくもまあ、懲りもせずと、呆れるのである。
今は何が流行りだろう。知らなくて幸いである。

教育の根幹は自学自習で、自ら問いを発して解決するに尽きる。
宣長に、
「詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきこと也。
いかほど学びかたよくても怠りてつとめざれば、功はなし。
又人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才不才は、
生れつきたることなれば、力に及びがたし、されど大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有物也。
又晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり。
又暇のなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也。
されば才のともしきや、学ぶ事の晩きや、暇のなきやによりて、
思ひくづをれて、止ることなかれ。
とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし。
すべて思ひくづをるるは、学問に大にきらふ事ぞかし。」(『うひ山ふみ』)とある。

余計なキャッチフレーズなど、不要である。

 

 

問題の子ども。学年をぶっ壊してご満悦。退学させて施設にいれるか。

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ある人来たりて、嘆息して曰く。


今時、在籍数1000人を越えるような公立小中学校は珍しいが、都会またはその近郊では一学年5クラス6クラスの小学校が存在する。
たとえば、ここに某公立小学校Xがある。

一年生が6クラスとすると、その中にたったひとり、際だって「問題」な子供がいると、なんと全クラスがおかしくなる。学級内に収まっているときは、当該学級だけの崩壊で済むけれども、運動会、遠足、課外学習など学年全体で行動するときには、学年の児童全員に、一挙に伝播する。

ひとりのために、全教員が振り回されるのみならず、その姿を目にした他の子供の頭に、当該児童のわがまま狼藉ぶりや教員たちの右往左往が焼き付いてしまう。その結果、学年の全児童が落ち着きなく指示が通らず、安定せず、だらだらそわそわいらいら、何ごとにも、いい加減でお粗末になる。

以上を大袈裟だと思うなら、あなたが現場を知らないからで、教員なら、あるある、と頷くだろう。

さて、問題はこれからで、当該児童を排除する方法が今の日本の公立小学校には、ないのである。

もちろん教員は必死である。入学から数ヶ月、なんとか、この子供を落ち着かせよう、少しは周りの迷惑にならないように、指示が通るように、数分でも勝手な行動をとらないようにと、指導してきたはずである。
それがどうだろう。全然変わらないどころか、ますます傍若無人な行動をとる。児童相談所他、いろいろ調べても、大きな問題もなく、言葉の理解や発言も、年齢発達段階相応である。これでは、学級から追い出せない。居座る。
愛情をかけても、逆に少しばかり厳しくしても、一切効果がない。

さて、当該児童のようなケースは、いろいろと議論があるだろうが、それはそれ。つまりは全体を引っかき回す児童を、それなりの施設に入れればいいだけの話である。子供は可塑性が大きいから、なおるものなら、なおるだろう。なおらないなら、それまでである。現学級復帰は無理である。

と、このようにすればいいのだが、しない、できない。居座る。

学年全体の子供、親、教員たちも、問題の子供に、大迷惑である。他の子供たちの学習権を奪っているにもかかわらず、居座る。


おもてなし文化というか、何というか、日本の公立学校は優しい。優しすぎる。
たったひとりの問題児でも、全体の犠牲を考えることなく、暖かく見守るのである。
不思議な風土である。

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というような話であるが、さて、どうしたらいいものか。
担任教員の指導が手ぬるいまたは、力不足だ、と言うのは簡単だが、実際はそんなものではないだろう。子供も色々である。子供を根本から変えることなど、誰にもできない。

第一には、当該児童の親を巻き込んで指導することになるが、しかし、その子なりの親であることが多い。言っても無駄、逆にぶちぎれる可能性がある。たとえ双方の理解ができたとしても、肝心の子供は簡単に変わりはしない。

 

法改正しかないのではないか。義務教育期間の公立学校に、いくつかの条件に該当したならば、強制退学させる権限を持たせるしかない。

通常の能力の教員の指導で、指示が全然通らず、本人の我が儘勝手な行動が続き、他の子供に身体的危険を及ぼす可能性が大きく、変化改善が長期にわたって見られない、このような子供については、退学させるべきではないか。こういった傾向を持つ子供のための専門の施設に、強制収容させて、そこで教育するのである。

無駄にやることが増えてばかりの小学校の教員を、これ以上、苦しめても何にもならないだろう。
ここは行政の出番である。法制度を改正をするのが順当だろう。