ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

教員が授業で悩むこと。過剰な準備と提出物点検の無駄。お疲れ様である。

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過日、東北某県の市立中学教員と話をしていて、当方も内情を知らないわけでもないから、朝からジャージ着て笛吹いていればいいのだから気楽なものだろう、と言うと、まったくその通りですと答えた。中学教員になって以来、ずっと担任をしているとのことである。
なるほど、体育教員は、担任をすることが多い。理由は皆さんご存じだろうから書かない。

教員の悩みは、生徒指導や同僚や子供および親との人間関係にもあるが、多く苦しんでいるのは、その授業のためである。
授業が安直な音楽体育美術技術家庭等、次に楽勝の社会理科数学の類は、さておく。
英語はどうだろう。これは、教員自身が腐ることが多い。これもまた、理由はご存じだろう。
どう見ても、国語科教員職が、難物である。

もっとも、ここを見ている方は、国語科教員だけではないだろう。だったら、笑って見てくれ。

さて、国語科はチョーク1本に教科書さえあればいい。それで授業し、子供の実力をつけるのが、教員である。
なんといっても、日本語の授業である。誰でも読める材料である。授業に、何の準備がいるだろう。すべては、その場の機転と知識教養経験とがあれば、足りるはずである。

とはいえ、こういう教員は少ない。というか、皆無である。
なぜなら、それでは本人の気が休まらない。副教材指導書プリントの類が怒涛の如く押し寄せる。抵抗、攻撃または無視しようとしないで、すべて受け入れる。膝まづく、やらせていただく。

知人のように、既存の教科書に飽き足らない者は、教科書を規定通りさっさと進めて、自作の名文集で授業する。これは稀である。
多くは、教科書を理解させるために、プリントを山ほど刷って、副教材や問題集の類を反吐が出るほど、子供に科して、その挙句、提出物を見るとかで、長時間ペン入れをする、放課後指導をする。

そしてどうなったか。全然、子供に実力がついていない。笑止であるというより、まったくのお笑い沙汰、時間の無駄である。

 

国語科の授業は、国語科教員が、毎時間毎時間、創出するのである。内容を覚えるのは子供である。教員は、むしろ忘れなければならない。
子供が作る授業とやらを、今でも、時折聞く。これが可能なのは、国語科だけであるべきなのに、教員が手取り足取り教えなければならない教科は、子供任せになっていて、逆に、国語科は異常に干渉過多である。

教員の皆さん、それでいいのなら、構わない。しかし、子供はどうだろう。無駄なことを強いられて、結局、実力が向上するどころか、低下し沈没する。子供にとっても不幸、日本の将来のためにも損失ではないか。

現実的な方策は、環境と教員自身の能力とによるから、わかりやすい解決はない。これは教えられるものでもないし、教えても、できない場合がある。自分自身で、考えて実践するしかない。

ただし、条件は書ける。
1 当該教員は、児童生徒学生期に、国語科の試験でトップだった経験があること。
2 豊富な読書体験があること。
3 文章が書けること。

以上は、並みの採用試験を受けて入ってきた国語科教員なら、大概、当てはまるだろう(でもないか)。
だったら、もっと良い授業があふれているはずだが、どっこい、9割以上の授業は、悲惨である。嘘だと思うなら、見て来ればいい。

これはいったいなぜだろう、どういうことか、どういうわけか。
答えは簡単だが、ここに書くことではない。あなた自身が一番知っていることだろう。それを実際に行うと、周囲との厳しい対決が待っているだろうから、あなたは結局、実行しないだけである。お疲れ様。

 

〇アラン著作集は旧版も含めてすべて持っている。何度読んだかも忘れた。徒然草みたいなもので、そういう付き合い方がいい。

アラン著作集

アラン著作集

 

 

 

教員は、何事につけても、苦しみ悩む仕事である。気楽な授業、同僚との戦い。

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教員は、何事につけても、苦しみ悩む仕事である。その一方、マイペースでお気楽で安楽な仕事でもある。
その差はどこから来るのだろう。

幼稚園小学校中学校高等学校大学大学院等の勤務先による、職種による、担当教科による、教員の能力による。つまりは、種々の要素が絡まって、楽する人、苦労する人、発狂する人、病む人、定年前に辞める人などの、差がでてくる。中でも、もっとも大きな要因は職場の人間関係であるが、それはさておく。


親は、我が子のことだけしか、見ていない。
仕方がないというより、当然である。
満足できない我が子に対して、親である自分にも責任があると考えてよさそうなものだが、全然、考えない。自分及び我が子以外の、何者かが、悪人だと決めつける。
子供も、自分も正義であって、悪は他人の方だと考える。

学校では、担任教員が悪者である。あるいは「ろくでなしのクラスメート」達が害虫である。
この「思いこみ」を、聞きかじりの「教育論」「学習論」の味付けをして、学校へ乗り込む。教育事務所へ匿名の電話をする。電子メールを送りつける。

事務所職員(教育委員会指導主事、管理主事)は、わはは、と笑って対応するかと思ったら、そうではない。
はじめ真っ青になって、その後、いまいましそうに舌打ちして、教員や校長に、「注意」「指導」をする。事実関係を文書にして出せ、地域の理解を得よ、と生意気を言う。

そうは言っても、注文の多くは、親の戯言である。まじめに取り合うのが馬鹿らしい。

大人ならそう思うところだが、学校現場は、そうではない。極めて厳粛に受け止める。畏まって反省させていただく。


煙の立たぬところには火はない、親の文句や投書にも、いくばくかの道理はあるのだろう。
教員は、人間相手の仕事である。しかも、生半かな仕事ではない。
今時の親の子を、たくさんまとめて、面倒を見ているのである。
どこかには隙も出るだろう(その隙が教育上大切でもあるのだが、ここでは述べない)。ミスもあるだろう。
些細なミスであっても、絶好のターゲットとなりうる。
隅をつついて、大喜びである。

当該教員を攻撃するときは、周囲はすべて敵となる。行政教委校長同僚親子供までもがよってたかって、当該教員を痛めつける。はははと、笑って済ませることができる豪傑ならいいが、そんな人なら、最初から教員なんてなりはしない。大概ここで、教員は死ぬか辞めるかする。

教育事務所職員らも同情の余地がある。保身こそ命である。親からの突き上げは、学校現場にいなくても、怖いのである。彼らには、自身の能力に関係なく、学校及び教員を「監督」「指導」するという「名目」がある。周囲の覚えめでたく、教頭または校長で出たい。あるいは、役所内でちょびっとでも、役職の階段を上がりたい。
せこいと言えば、それまでである。あれも人情である。


どこかに救いはないのだろうか。

ないといえばないし、あるといえばある。
簡単な方策の一つは、仕事範囲の確認である。
必要なことを明確にして、それ以外のことをしない。雰囲気や得点稼ぎで、守備範囲を広げることをしない。やるべきことを明確にして、それのみを、着実にする。

とはいえ、これができない。できるような豪傑または鈍感な人は、そもそも教員になってない。教員は、繊細で神経質な仕事でもある。たまに豪胆ぶっている教員もいるが、見せかけである。本音でそうなら漫画になる。

学校教育の守備範囲の逸脱が、教員の苦しみ悩みの、大きな原因である。

 

ただいささか。

親は我が子のことしか見ない。それはそれで正しい。

と同じく、人は誰でも自分のことしか見ない。見たくない。職場で、我が身を助けるためなら、すすんで他人を犠牲にする。あなたの職場でも、同じだろう。

弱肉強食が世の常で、教員もそうか。たぶんそうだろう。

 

〇 随想録の邦訳は、これが一番いい。大部の一巻か、分冊を選ぶかはそれぞれだが、私は下記を重宝している。

モンテーニュ随想録

モンテーニュ随想録

 

 

 

傲慢な子供に、教えさせていただく教員。ペコペコするのも程がある。本を忘れて思い出す。

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どの社会でも、人間関係は難しい。
子供相手の仕事である学校教員も、同僚や教育事務所、行政他等の人間模様の中にある。

学校は、行事等で、多人数が一度に同じことをする。
実際には、「たいしたこと」はないのだが、それを「たいしたこと」と考える人間がいれば、大したことになってしまう。
これを「無駄」と言う。

だが、根が真面目な(あるいは真面目さをアピールすることの好きな)人間が多い職場だけに、無駄を無駄と考えることができない。
とことん、やらせていただく、というポーズをとる。
親も子も、教員のポーズに慣れてしまって、教員を召使と同列だと考える。
たまに、「普通」の対応をとるような教員が現れると、ぎょっとする。
逆上して、「この野郎、教員のくせして、頭が高い。児童生徒様、その保護者様、ということが、わからんか」と叫んだりする。
笑止な。

怪訝なのは、ここまで教員は嘲(あざけ)られても、唯々諾々と、馬鹿真面目を押し通すことである。
これは、「立派」ではない、「融通が利かない」のである。


子供に、はいつくばる教員が多い。
学問を教えているのである。教えさせていただいているのではない。受けるべき給金は当然である。数少ない優秀な教員にとっては、少額である。多くの教員にとっては、妥当または高額である。

仕事の実態は、サービス業だとしても、教員が謙虚すぎると、逆効果になる。何より、児童生徒学生が戸惑うだろう。


某日、某小学校での研究授業を見た。教員が、児童生徒に対して、馬鹿丁寧な言葉で話しすぎる。あれでは、子供が傲慢になる。
「ごめんね」「ありがとう」、あるいは、してくれた、言ってくれた、うなづいてくれた。
していただいている、と教員が思うなら、子供はつけあがる。勉強してやっているんだ、と勘違いしてしまう。

学習塾はもちろん、ピアノに水泳に習字にバレエの習い事、自家用車で父親や母親に送り迎えさせているのだから、学校授業も、子供にしてみれば、「してやっている」となるのだろう。
しかし、授業中、教員は、子供にお願いをする立場なのかどうか。
見苦しいほど、遜るのは、教員自身が、自らの授業や知識教養に、自信がないからだろう。だとしたら、努力して学び続けて、乗り越えるしかない。

教員は、気が細かく、頭が固く、面白みのない人間のように見える。この連中に囲まれていると、息が詰まる、またはうんざりする、と某氏が述懐していた。

しかし、教員は、開き直らなければならない。
親や子供を変えるのも、教員である。もちろん彼らの能力や生き方を、変えてやる必要なんかない、大きなお世話だろう。
第一、それを変える力が、教員にあるわけがない。
ここで言う「変える」とは、子供の学校内での行動についてのみ、変えることが可能だと言っている。子供を通して、その親も、わずかに変えることができるかもしれない。

学校外のことは親の領分である。
立派な「保護者」であるからにして、自分の「お子様」には、たぶん、きちんと躾をしているはずだろう。

校内では、教員は、自信をもって授業を進めてほしい。それ以外は、雑事であり、無駄と心得て、笑い飛ばすくらいの余裕がほしい。


さて、話は変わる。
当文章「ぱるるの教育批評」を、時折見るような奇特な人は、もうお気づきだろうが、本文の下の方で、本の紹介をすることがある。
参考というわけではない。本は、勝手に選んで、好きに読めばいいと思う。
それでも、問われることもあったりするから、私の読んだもので、良書またはそれに近いと思う本を選んだ。過去記事の下にも、おりおり追加しようと思う。
私は、アマゾンをよく利用する。本や趣味のものを買うが、とくに不満はない。

私は、本は読むかたから、ほとんど忘れている。この機会に少しでも思い出すことができるだろうか。ボケ防止にもなるだろうか。

 

〇 哲学概論がお好きなら、読むといい。明快である。

 

 

悩む教員と嗤う教育産業。授業は教科書とノートとがあれば足りる。

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悩む人は悩むもので、ことさらに仕事を難しくする。これは、半ば習性または性格、あるいは悪癖であろう。
国語科の授業は、教科書とチョーク1本で済むものを、やたらとピント外れの予習や準備をする。プリントを多種大量に刷りまくる。自作プリントというらしい。どこが自作なんだろう。手本は、教科書用指導書、同じく各種参考書、問題集とやらである。
白目をむいて、ご本人自ら解いて、解答を参照し、説明を読み、またしても、切り貼り印刷、または本文丸ごとそのままワープロで打ち込んで作り上げる。
バカバカしくって、見てはいられない。

あのな、授業は、子供の実力を上げてやればいい。それが学校教育の目的である。他学級の期末試験の平均点の結果を比較して、一喜一憂したり、どのクラスの誰それが最高点だったと、同僚に対して、傲慢になったり卑屈になったり、妬んだり憎んだりすることではない。
どうせ、できる子供は、教員が足を引っぱっても、または特に目をかけたとしても、できる。反対に、しない子できない子は、それなりに頑張る、または怠ける。教員ごときが、なんでも、自分で左右できると思うのは大間違いである。

授業は余裕と才能と機知とで、行うものである。それができてこそ、プロの教員で、できなければ、ただの素人である。
ところが、ここに困難な問題がある。

全国の教員の9割以上は、上記の意味で、素人である。素人は一挙に玄人になることはできない。だから他の方法で、安直に玄人になろうとする。玄人のふりをしても、素人である。下手をして、怪我をする。それが教員本人だけならいいが、迷惑するのは子供である。小中高校生や大学生大学院生である。
大学大学院は、そもそも教員が、素人だから、まだいい。小中校のそれは、本人自身が教員だと勘違いするから始末が悪い。

大学教授は、自分自身を教員だと思ってはいない。それは正しい。あれは教員未満である。ご本人は、研究者だと言い張る。それも正しいかもしれない。某小学校低学年児童も、ニンテンドーの立派な研究者である。だったら、同様な意味で、大学や大学院の教員も、研究者の端くれである。
小中高校の教員は、自分自身を教員であり、先生だと、本気で思う。これは、本人にとっても悩ましく苦しいことである。
少しばかりの余裕も、かなぐり捨てて、火になる。燃料も僅か、素材も脆弱なのに、燃え上がると、あっという間にしぼんで消える。有害物質をまき散らす。

かつて、小中高等学校の教員は、教科書とノートと辞書の類で、余裕の授業ができた。子供に教科の実力をつけることができた。児童生徒も、日々、授業で学力が向上している実感を持つことができた。
これはなぜだろう、どうしてそれが今日稀なのだろう。

もうお分かりだろう。
教育産業のあの手この手に、まんまとだまされたのである。
騙す方は、それが商売だから仕方がない。責任は、騙される方にある。教員自身にある。

なぜ騙されるのか、それはピアである。東京デートスポットである。彼女が喜びそうなレシピである。今日は何を着ていけばいいか、雑誌を見るのである。人から聞くのである。
他人に託すのである。
これだけ言って、理解できないのなら、分かりたくないのだろう。それならそれでもいい。

とはいえ、また話す。

 

〇 読んで、頭を冷やすがいい。

幻談・観画談 他三篇 (岩波文庫)

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学年トップの教員。授業で子供の何をどう伸ばすのか。読解の方法論。

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授業で、子供の、何を、どのように、どう伸ばすのか。

困ったものである。教員が自分の仕事でこんなことに悩むとは、実に遺憾である。

授業は、子供の学力を上げればいい。つまりは、授業前よりも授業後のほうが、当該教科の理解、認識、意欲、知識が増えていれば、いいのである。

多くの教員は、それを知っているのか知らないのか、無駄に焦って、躓いて、悩んで、もがき苦しんでいる。あるいは、単に時間つぶしと心得て、テキトーに茶を濁す。

胸に手を当てて、よーく思い出すがいい。いったい自分は、小中高大の子供時代に、目を開かれるような、これこそ本物と確信できるような、学問の価値がにじみ出るような、ぐんぐんと知力がみなぎるような、そんな授業をかつて体験したことがあったろうか。自身の学力が向上したことをはっきりと実感できる授業を、何時間受けてきただろうか。

そんな経験がないのに、よい授業をしようなんて、土台無理である。


と、言いたいけれども、これを言っては、おしまいである。

 

ついでに言えば、数学と国語科の教員は、自身が児童生徒だったころ、学年または学級で、1番になった経験のない人物は、不適格ではなかろうか。子供時代に学校で成績トップだった実績と自信とがなければ、大勢の子供の前に立てないだろう。

英才が、そもそも、学校教員になるわけがない、といいたいが、実はそうでもない。現に某知人がなっている。

学校一番の秀才は、学校教員以外の進路を選ぶのが普通で、教員志望はどちらかといえば最優秀な子供ではない。どころか、優秀な生徒であったことすら、ごくまれである。
石部金吉金兜の、真面目人間で、並みか並み以下のコツコツタイプが、現実に就職している教員の、ほとんどである。

そんな学校教員が、国語科の教員としてやっていくことは、案外に難しいのである。
以前も言ったはずだが、担当教科によって、教員に必要とされる能力は異なる。数学英語は楽勝である。理科社会科の類もお気楽である。美術音楽体育系となると、語るもむなしい。宮本むなしである。遊びだか趣味だか何だか、わからない。
ただし、教科坦として採用されやすいかどうかとは、無関係である。私学はコネが効く。公立は、採用数の問題で激烈な競争である。正規採用になってしまえば天国、という話なので、誤解のないように。数学科はそこそこ採用がある。音楽美術は、採用数が極端に少ない。東京芸大卒でも、ご同様。


国語科の教員は、日本語が対象である。日本人であれば、赤ん坊でも使える、知っている。だれでもが、読み書き聴き喋ることができる。
それを教科として教えるのだから、いったい何をどうやってどのように教えていいのかわからない、という輩がいても不思議はない。

しかし、国語力に優秀な子供は、現実にいる。各学校に数人はいるだろう。
その数人の子供は、国語の何たるかを身を持って知っているし、だから教えることもできる。そういった子供は、教員をはるかに抜いている。
馬鹿なと言いたい人は、当該子供に遭遇していないだけである。

進学校には、中高合わせて千人中、2名いた。5百人に一人である。
こういう子供が国語の教員になるべきである。

だから、学校で、本物の国語教員から授業を受けようなんて夢である。甘いのである。

 

大方の気に障るようなことばかり書いたが、何が言いたいのか。
教科別指導が通常であるところの、中学校高等学校においては、国語科教員は割が合っていない。そもそも能力不足なのに、教科としての国語を教えなければならない。最初から無理筋である。しかし、それをあえてする、またはせざるを得ないというところに、教員としての冒険と面白さがあるのだろう。
教えられる子供こそいい迷惑だが、それが世間である。諦めるがいい。

 

お喋りが過ぎた。次回は、教員向けに読解授業の方法を話す。

 

 

 

文庫で読むことができるとは。。。。

 

 

 

 

 

教員が疲れない授業。教室で子供を踊らせること。アクティブ・ラーニングなどのキャッチコピー。

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おぼろげな記憶によれば、 大学で教員たちが行っているつもりになっている「講義」「ゼミナール」と称するモノを、教員自らが、「授業」と呼ぶようになったのは、おそらく慶應義塾が最初ではなかったろうか。
福澤諭吉は、真の意味で先生であった。その風姿が残っていたのだろう。

授業は、教員と子供との関係で成り立つが、言うまでもなく、教員の責任が大きい。それが嫌で、大学教員は、愚にもつかないおしゃべりや時間つぶしを、講義、ゼミと呼称して、ごまかしてきた。卑劣ではあるが、人情である。

田中美知太郎は、宿泊名簿の職業欄に、教員と書いて、宿の主人から大学教授とお書きなさい、と窘められた云々を書いていた。痛烈な皮肉である。
田中美知太郎は、プラトン研究の第一人者で、本物の学者であり、先生である。授業は、とても厳しかった。

さて、話は変わる。
本物の先生が多く生息しているはずの、小中高等学校の授業である。
授業で踊るのは、子供であって、教員ではない。ピアノを実際に弾くのは、指導される側であって、指導する側ではない。

それが教員にわからない。どうしても自分が踊ってしまう。自らに酔ってフラフラになるまで踊る、踊り続ける。
子供は笑って見ている。揶揄する呆れる軽蔑する。
これでは、熱心な先生の立つ瀬がないだろう。自分の教授力や知識学問に自信がないと、ああなる。

教員は、授業中、子供を躍らせるのである。子供自身が、自分で踊らないで、何の進歩があるだろう。身につくことがあるだろうか。
教員は、子供の踊りを、冷厳に見つめて、長短を指摘してやればいいのである。

しかし、これは、総合的学習、調べ学習、アクティブ・ラーニング等の軽薄な流行り言葉とは、全然関係がない。内実がなく、害のみ大きい戯言は、無視するがいい。
授業の方法や見方や「現代教育」について、新しい流れと称するものほど、信用できないものはない。あれは、商売である。保身である。売名である。

授業は万古不易である。

よい授業では、教員は落ち着いている、子供は自ら学んでいる。自ら学ぶなどと書くと、また勘違いする輩がいるだろうが、自分で学ばなくて何を学べるだろう。しかし、そう仕向けたのは、教員の力である。それを忘れるな。

ソクラテスは、どうしてあなたの周りの青年たちは痺れた如くに熱心に学ぶのか、と問われて、自分自身が痺れていなくて、どうして他人を痺れさせることができようか、と答えた。
けだし至言である。

 

 〇 できれば、田中美知太郎 全集を読むのがいい。ある種の名文である。

ロゴスとイデア (文春学藝ライブラリー)

ロゴスとイデア (文春学藝ライブラリー)

 

 

 〇 面白いけれども、手に入らないだろう。図書館でどうぞ。

時代と私

時代と私