ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

学習プリント作りは、時間の無駄なのか。授業を妨害する中学生に、鉄拳をくらわす教員たち。

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教職は大変な仕事だと、中学校教員は言う。
今の中学生は、指導が通らない、授業中も私語をする、口答えをする、立ち歩きをする。

親が悪い、社会が悪い、子供が悪い。
しかし、当然のことを言って、どうなるのだろう。所詮、そんな子供相手の仕事が、教職である。
目の前の子供をなんとかしろ。しっかりと勉強させろ。

悪い悪いと言っても、所詮、一部の子である。学級の全員が悪いなんてことは、あり得ない。数人か、多くて十人を超えることはない。わがまま放題の連中のために、他の多くが迷惑しているのである。
悪ガキに、ある種の鉄拳をくらわすことも、教員の役目である。

 

義務教育である公立の小中学校は、問題ばかり起こす児童生徒を、退学にできない。だから、子供が、ついでに親までもが、つけあがる。
遠慮はいらない。悪童どもを懲らしめることだ。背後の親(つまりは有権者、ということは議員達)を、恐れることはない。まさか馘首にはなるまいに(しかし減給や不本意異動はあり得る)。

子供が駄目になったのは、戦後教育の結果だ、との意見がある。
日教組お得意の、人権だ、同和教育だ、ソ連シナ朝鮮大好きだ、等々の洗脳にどっぷり浸かって育った連中が、今や親である。教員である。マスコミ人である。文科省職員であり、政治屋議員達である。
教育信念なんてない。

我が国固有の伝統文化を大切にする。ここから筋のある教育が始まるだろう。慨嘆する暇はない。目の前の子供に取り組むしかない。
しっかり学力をつけることだ。それが飯の種である。

 

ところで、学習プリントである。
多くの教員は、成績中位の子供でも、5分で回答してしまうプリントを、2時間も3時間もかけて作り続ける。これが、公立高校そして一部の私立高校の実態だが、驚くなかれ中学校でも、同じことをしている。
週当たりの授業数が少ない高校現場ならいざ知らず、時数も雑用も多い中学校教員が、プリント作成に追われてしまっては、教員は体を壊してしまう。教科書に即して、無駄を省いた授業をするのが正解である。

なーに、ここでも、教員は自信がないのである。鼻たれ小僧に毛が少し増えたくらいの、13、4歳の子供相手に、余裕を持って授業ができないのは、なぜだろう。

あなたもご存知の通り、自らの教授力に自信がないのである。
では、自信をもって、教員生活をしている者がどこにいるのか、と、問われそうである。なるほど、教育は底なしである。授業準備に時間をかけすぎるということはない。くたくたになるまで予習や準備をすれば、少しは安心して授業に臨むことができるのだろう。しかし、モノには程度というものがある。

知人の教員は現役のころ、教科書以外のプリントを多く作ったそうだが、教科書や副教材がお粗末な場合に限った。普段は当然に、教科書のみで授業をした。教科書一冊あれば、あとは何とかなる。なんとかなるだけの知識と教授力とを持っているのが、職業人としての教員である。

教員がプリントを作る理由の一つは、子供の授業内容の理解の便宜のためだというが、全然、逆効果である。子供たちから、自分で考える機会を奪い、学力の向上に寄与しない。
教科書だけで、授業せよ。それで必要十分である。

 

 

〇 全集とはいっても、場所をとらない。十代の必読本。

中島敦全集 全3巻セット (ちくま文庫)

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担任教員への手紙。油断大敵、保護者は力不足の教員を淘汰する。

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以下は、某小学校の保護者が、担任教員へ出した手紙である。いつのものだか、分からないが、手書きである。
教授技量が足りない教員は、淘汰されることになるかもしれない。

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前略

いつもお世話になっています。
さて、二三気づきがございますので、ご参考までに。

五年生二学期ともなれば、小学校高学年の学習内容も難度を増し、各教科のまとめとしても大切な時期でございます。
児童も長い休暇のたるみや疲れから勉強のペースをつかみかねている場合もございましょう。二学期の二日目であるのに、授業時数のほとんどが席や係りの決定に使用されるというのは、やや時間の使い方に工夫が必要なのではありませんか。

4月当初の時間割では、国語、国語、算数かと思います。学期はじめですから、変更するというのは、よくあることですが、それはそれなりに、学習面でも配慮が必要かと思います。
児童が、一日一日、今日はこれだけ学んだ、分かった、進歩した、ということを、実際上、感じられ自覚できるような毎日でありたいものです。
また、学習形態や基本的な学習内容に関わることは、教員が決定すべきで、児童との話し合い相談などで、決めるべきことではございません。そのようなことをしたからといって、授業がやりやすくなったり、授業中落ち着きのない児童が落ち着くようになるなどと言う安易なことは期待できません。授業の組織者としての教員が、学級全体の状況を把握し、決定して進めて行けばよいことです。


細かいことですが、次のようなことも大切かと思います。

一、課題は多めに、そして容易なもの、難易なもの、取り混ぜて満遍なく出してください。また、家庭学習用の課題は、児童の進度により、授業時間等にも可能な限りさせるようにしていただきたい。

そのことで、児童は時間の使い方や、学習を自己の努力でより前に進めるということが体感できるようになります。また、早くできた児童に、他の児童の指導をさせることがあるようですが、これはやむを得ない緊急的な方法であることを教員は知っておいてください。

教えるのは教員の仕事であって、早くできた児童には、次の課題を与えるのが本筋でしょう。むやみに全体の進度をそろえるために、児童の足をひっぱるようなことがあってはなりません。

二、学級を混乱させるような児童の行動があったときは、断固とした態度で指導してください。児童やその保護者におもねる必要はありません。

三、時間の使い方を、教師自身が身をもって示してほしい。教員が、だらだらとした指導や話をしないように、要点をつかんだ話し方を普段からするようにしてください。

また、プリント等も効率のよい内容で、少な目に出し、まとめ方の手本となるようなものを出してほしい。人の発言の聴き方やノートの書き方などの基本的な学習習慣を、常日頃から児童に体得させるようにしてほしい。

四、理解と速度とは、ある程度一致します。作業や理解が速いことは(もちろんそれさえあればいいというものではございませんが)、学習の、きわめて大切な事柄です。

その速さを鍛えるために、いろいろな工夫をする必要があります。

例えば、課題ができた順から、教員のところにノートを持ってこさせる。黒板にノートの内容を要約して板書させる。速くできた児童数人をその場で立たせる(これは全員にしてはなりませんが、十人程度だと、その児童は誇らしく感じるはずです)。

「速くできる」ことの大切さを教員自身も自覚し、それを表に出さねばなりません。この子はノンビリだから(要するに作業や理解が遅いから)というように決めつけて、それが、さもその児童を理解し大切にしているというような、素振りをしたり、自らへの卑怯な納得をしたりすることは、教えるプロとしての教員には、あってはならないことです。

のんびりとは、要するに遅いことです。それは集中力が鍛えられていなかったり、学習の要点をつかむ訓練が足りなかったりするから、遅いのです。

このような現状に満足せず、次の段階へ、少しずつでも、伸ばしていくことが、それが、児童の進歩や成長というものではございませんか。

以上のようなことをすっきりと理解するためには、例えば、日々の学習をピアノの練習であると考えてみてください。どのようにしてピアノを学びますか。

学校は、児童におもねる場所ではございません。確かに、学級には様々なお子さんがいらっしゃり、指導に手がかかる場合もおありでしょうが、その子供たちの個別の状況に応じて、学習の進歩を計ることが必要であろうと思います。

法規に定められているとおりに、学習指導要領の基準に沿って、子供の学力を付けるべくご努力をさなっていることと感謝しております。それが、今後の社会において、生きる力の総合的な土台となっていくことでしょう。
今後とも、厳しく、そして児童も保護者も、学習の進歩を確認できるようにご指導のほど、よろしくお願いいたします。     
草々
 
 □□年□月□日
               ○○親
△△先生

 

 

〇  耳に心地よい文章。一葉はすべて読むこと。

明治文學全集 30 樋口一葉集

明治文學全集 30 樋口一葉集

 

 

授業を妨害する子供には、同級生の親の叱責が効く。自信のない教員の指導と、日本人の気概。

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校舎の外観だけを見ると、どの学校でも平穏無事に授業が行われていると、錯覚する。
フランスの某小説に、幸福な人は一様に幸福だが、不幸な人々は、皆それぞれに不幸である、とかあったと記憶するが、その通り。
ほとんどのすべての学校は、それぞれに不幸なのである。

学級内で、授業を妨害する子供がいる。
授業を妨害する子供は、ほんの一部である。しかし、その悪質な数パーセントの者が、学級の雰囲気を決めてしまう。

どんな教室でも、効率的な教育活動が行われていないのならば、その責任は教員にある。
しかし、教員の責任を指摘すれば、問題が解決するわけではない。

当該児童生徒は、他の多くの子供の学習権を踏みにじり、学校生活の安寧安全を侵害している。
しかし、犯罪的な行動をとっても、その子供や親に対して、教員や行政は、無力である。公教育は、住民サービスの一環であるとされているから、住民の反感を買うような発言や行動は慎まねばならない。関係者は極めて神経過敏になっている。

特定児童生徒への個人的指導は、一歩間違うと、面倒を抱えることになる。できるだけそっとしておく、という状況になりがちだ。

こんな事情を、問題の子供も、その親も先刻ご承知であるから、ますます増長して、やりたい放題である。教員が注意をしようものなら唾を吐きかけ、馬鹿にする。胸ぐらつかんで引きずり回す。これが中学生、小学生、あるいは学力底辺高校の現実だ。    
簡単明快ではあるけれども、ほとんど実行不可能な解決策は、問題行動をとる子供に対して、同級生の親が、注意や叱責をすることである。
実際のところ、何か言えるのは、同じ学級の同級生の親しかいない。教員抜きで直接に、当該生徒と親に対して、圧力を加えると、状況は変化する。
地域の教育力とは、何も、語学ボランティアや趣味を生かしたお手伝いばかりではない。我が子のために、他人の子の悪を見て見ぬふりをしないことが必要だろう。憎まれ役を買って出る気持ちがあるかどうか。

とはいえ、教員は職責がある。給料分の仕事をしなければならないはずだ。
学習態度が滅茶苦茶な児童生徒に対して、教員は、どうすればいいのだろう。

唐突だが、知性的な授業をすることである。
知性的な授業ならば、子供もそれなりに伸びる。
中学や高校では、学級担任の影響が学級の生徒全体に及びにくい。A教員の授業ではまともでも、B教員の時はそうではない、ということがよくある。生徒が相手を選んで態度を変えるのである。
だが、どんな教員であろうとも、知性を高める指導ができるのなら、授業は落ち着くのである。

なぜそうなるのか、と問われても困る。どんな子供にも生まれつきの知的欲求がある、と答えるしかない。

繰り返す。
多くの中学校の授業は荒れている。小学校や高校でも、同様の傾向にある。
原因の一部または大部分は、教員にある。授業が知性的ではないのだ。

知性的な授業がなぜできないのだろう。
一応は難関とされている採用試験をパスして、ようやく現場に就職できた、いわば「力ある」教員人たちではなかったろうか。

当該教員の問題は、次の点にある。
1 担当教科の全般的見通しがない。
2 学問への迫力がない。
3 日本文化への自信と誇りがない、というより興味がない。そのため、先祖への畏敬の念がなく、命の継続感が薄い。子供に対して、日本人の大人として、自信を持って処することができない。つまりは教育哲学がない

3は大切だ。社会主義に憧憬を持つ左翼団体の活動教員などは、もっての他である。同和教育も、ほとんどの利権が消失した今は、勢いがない。
私立の、かろうじて規律らしきものが残っている学校は、月謝や退学の脅しもあるが、キリスト教等の宗教的バックボーンがじわりと効いているのである。

私たちは日本人である。日本人教員が、日本の伝統文化の持続と拡大への意欲と気概とを待たなければ、教育活動に迫力が出るわけがない。

 

 

 

 

 

 

 

 

若い世代の過激志向。オリンピックで無差別殺人。移民、留学生に大甘のおもてなし。

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欧米に起こることはやがて日本でも起こる。日本にも、若い世代に過激志向が広まっている。
というのは、真っ赤な嘘で、日本の若者は、過激にならない。
良いことなのか。然り、極めて望ましく良いことである。

現状への不平不満の鬱積とその爆発とが、過激思想の栄養である。
過激化は、テロリズム殺傷殺人破壊で、理不尽な暴力である。
日本にも、地下鉄の車内で毒物をばらまいたりする事件が、かつてあった。
来年、2020年の東京オリンピックで、テロの再発があるかもしれない。過激分子が、海外から入り込むかもしれない。
実態が明らかでないから、推測である。すでに留学生または企業や団体の職員として潜伏する某国その他の工作員たちや、その協力者達は、どう動き出すのか。


それにしても、日本人の子供が、過激化しないのは、どういうわけだろう。
移民が少ないからである。「移民」対「日本国民」の軋轢がない。あっても些細である。日本人が過激になる必要がない。表面では、十分に、平和ごっこ、仲良しごっこで、おもてなしフェスティバルである。
移民を増やせば、必ず、階層分裂と敵対関係とが生じて、殺し合いになる。
そうなれば、日本の子供も、対抗して、過激化するかもしれない。

無差別テロリズムが蔓延する日本は、日本ではない。
しかし、移民を必須のことだと日本政府が考え、マスコミが拍手し、議員どもは移民賛成の大合唱で嬉しげである。いずれ、不明に気づく時が来るだろう。

諸外国の実例を、無視した行動である。日本の若者が、過激に走る日が来るかもしれない。

 

話は変わるが、大学は、シナや朝鮮系の留学生に、極めて優しい。自分の研究室に、外国籍の子供が入ってくると、嬉しくてたまらない。いい気なものである。
留学生を猫可愛がりする。単位を乱発する。提出論文を大甘に見る。修士博士の粗製乱造をする。嘘だと思うなら、「東京大学学位論文データベース」を見るといい。


さて、日本人は、外国人を、自分たちと同じだと考える。日本国と同じように、外国を考える。お人好しも、ここまで来ると病気である。
起こってほしくないことは起こらないことになっているのが、日本の政策担当者以下諸職の人々の信念である。飢饉疫癘や他国からの侵入略奪殺人は、あり得ないことになっている。あり得るとしたら、地震雷火事親父だけだと考えている。

国の行く末を、楽観的に自分たちに都合よく予想するのが、先の大戦での日本の習性だったが、戦に負けても、全然変わってない。
素晴らしい。


素晴らしいといえば、日本の大学教員は素晴らしい。何がそんなに素晴らしいかと言えば、その待遇である。ろくな授業もできず、論文も書けず、名目だけの研究分野で、時間潰しのごく潰しの学生潰しの塊が、大学教員の実態である。

以前、某大学で、教員が学生に暴力をふるったとかで、休職処分になっていたが、あれなども、当該教員の言動を注意してやる人物がいないからである。
学問の独立だそうである。雇ったら、よほどの問題事件を起こさない限り、馘首どころか、口出しすら、できないからである。
今回は、問題を起こしてくれた。やれやれ、安心して、処分できたのである。おめでとう。

 

 

 

 〇 とにかく面白い。後ほど紹介するウォルツの本を読む前に、これを読んでおくといい。

戦史〈上〉 (岩波文庫)

戦史〈上〉 (岩波文庫)

 
戦史 下 (岩波文庫 青 406-3)

戦史 下 (岩波文庫 青 406-3)

 
戦史〈中〉 (岩波文庫)

戦史〈中〉 (岩波文庫)

 

 

 

 

 

 

 

教員も会社も、贔屓と憎しみの情実がものをいう。ファカルティ・ディベロップメントが笑わせる。

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あいつは憎めない奴だ、という。先輩上司から、何かしら目をかけらるタイプである。
「引き」が生まれ、贔屓が生まれる。
贔屓は人の常である。贔屓されるような何ものかを自身で持っていなければ、他人にそれを見つけなければならない。自他ともに贔屓の種を探す努力をしないような人は、組織で生きることが難しい云々。

というような話を、よく聞く。
それはそうかもしれないが、ご苦労なことである。
人は理屈では動かない。感情で動く。
理論や数字で動けば、世の中は簡単である。
現実はそうではない。そうでないからこそ、どろどろまたは淡白な付き合いを、人は大切にするのである。

人間の信用というが、その実態は、何度も、話をしたり、ともに飲んだり食ったりと、同じ時間を過ごした回数が作用する。要は「馴染み」である。馴染みの中から、損得が生まれ利害が生まれ、味方が生まれ、愛着もわくのである。
もちろん、教員も同じことである。
かつて、教員は、子供相手に、最初は純真ぶって、そのうちにとうとう本気になって「先生して」、定年になって、一丁上がりだった。

今はそうではない。
なれない「マネジメント」やら「ファカルティ・ディベロップメント」やらで、文科省以下、さほど適性もあるとはいえない類の教員が、企業競争の真似ごとに余念がない。どうせ、「ごっこ」である。
効果なんてない。
教員は教員らしく、空き時間に、お茶でも飲んで、一息つけばいいものを、無駄に手を広げて、挙げ句の果てには、権謀術数の外交官並の手管を使おうとする。

慣れないことは止せ。無理をするな。素人が怪我をするぞ。
教育事務所職員や教員たちだけの怪我ならかまわないが、子供まで巻き込むことになるし、現に巻き込んでしまっている。
保護者と子供こそ、迷惑至極である。

組織は集合体である。組織は、保身を旨とするから、成り立つ。組織の成員である私たち自身もそうである。
人を指さして、「あれは保身だ」といって嘲るが、では自分がその立場に立ったとき、同じことをするだろう。

自分が助かるためには、隣人の首さえ絞めかねない。人情である。人情は、組織を動かし、人事も決める。これを情実という。

情実を嘆いても無駄だが、不思議なもので、人を守るのも、人情である。
縁という、相性という。
憎い相手を、攻撃したり、守ったり、味方の振りをして土壇場で裏ぎったり、油断させて崖っぷちから突き落としたりする。こいつだけは助けよう、組織内で伸ばしてやろう、と肩入れしたりするのも、すべて、人情からである。

教職は気楽な仕事でもあり、魔物でもある。すべて、あなた自身とあなたを取り巻く人による。つまり、ある種の運と努力とによる。

自殺した教員を偲ぶ会で、彼は運が悪かったのだ、誰かがつぶやいた。彼は公立学校の教員であって、私立学校の教員ではなかった、と他の誰かが続けたので、場は白けたのである。

ともかくも、春である。世は新学期である。

 

 

 〇 徒然は色々出ているけれども、安くて内容がしっかりしている岩波文庫がいい。

軽薄な現代語訳は絶対にダメである。これしきを原文で読まなくて、いったい何を学ぶ気だろう。知人の教員は、小学4年生に数段、暗唱させている。名文は、すぐに覚えるものである。

新訂 徒然草 (岩波文庫)

新訂 徒然草 (岩波文庫)

 

 

公立の教員と私立の教員や大学の教員、だれが腐りやすいか。進学指導の怪と有名私立大学。

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一般に、私立学校の教員は、教育の技が「腐る」ことが多い。理由は簡単で、競争がないからである。
私立学校の児童生徒学生は、競争の結果、ようやく入学できたから、まだ勉学への意欲が少しは残っている。月謝分の知識は得ようとするし、高校生ならば、然るべき大学へ行こうという目的がある。
問題は、私立学校の教員たちである。転勤のない立場に甘えて、十年一日、似たような授業でお茶を濁す
迫力のない、知的興奮のない、腐った授業ばかりになる。なーに、授業が下手でも構わない。肝心の生徒たちは、自分から進んで勉強する連中である。

一方、公立中高の教員はそうはいかない。否応なしの転勤がある。生徒も玉石入り混じって、油断ができない連中だ。
高校教員は、授業や生徒指導で目立つような自己宣伝をしたり、先輩や教育事務所などに有力なコネがあったりすれば、国公立大学附属高校や、地域有数の進学校に転勤できる。有名校に転勤したところで、給料が増えるわけではないが、プライドは大いに満足させられる。仕事内容も、優秀な生徒の通う高校になればなるほど、楽チンになる。
有名進学校に転勤してしまうと、教員も苦労するなんて言うのは、そもそも、実力の足りない教員で、教員自身の教授力や基礎教養があればあるほど、対象の生徒の学力が高ければ高いほど、教えるのは、容易なのである。

さて、私立学校の教員であるが、生徒が優秀ならば、教員は安直であることは、公立と同じである。
しかし、私立の教員は極めて腐りやすい。実力のある教員が悠々とそれなりの授業をするならともかく、普通または普通以下の教員までが、楽に授業をしようとする。そういう気持ちがなくても、やがて、環境に流されて、漫然と授業をする。もともとが力不足の教員である。しかも、生徒は自分で学習する力のある連中である。腐らない方が不思議である。
私立学校は、考えものである。高校については、公立や国立大付属校の方が、失敗は少ないだろう。

では、大学はどうだろう。

大学は、進学選択の幅が広い。だからこそ難しい。
地方の公立進学高校の教員は、生徒を進学浪人させたくない。浪人生は、後々面倒である。仲間内でのプライドと、地域での学校の評判とを気にして、卒業生の進学先または落ちどころを、はっきりさせておきたい。学校の方針も、国公立大学に生徒全員を放り込みたい。
生徒の希望を優先するのではなく、教員の采配で、受験先を振り分ける。おかげで、地方の国公立大は、まんべんなく入学希望者が集まる。生徒も、目出度く、入学する。
しかし、子供自身の気持ちや将来への展望を、無視する形になる。

とはいえ、理系に行きたいのに、お前じゃ無理だ、遠く離れた公立大学の○学部なら入れそうだから、そこへ行け、なんて指導が、常時なされているわけではない。高校3年生と言えば、半ば大人である。

「うるさい、俺の好きな大学へ行くんだ」と、進学相談室で席を立つ者がいるかと思えば、いないのである。ほとんどの生徒は、「わかりました~よろしくお願いします」である。
みなさん、お利巧というか、小粒になってらっしゃいます。

話を戻すと、私立大学と国公立大学の、どちらを選択するべきだろうか。
これがそう簡単ではない。私立もいろいろ、国公立もいろいろ。数多く、全国に散らばっているので、親元を離れることを前提とすると、無数の選択肢がある。
最低4年間、成長期の貴重な時間を潰すのだから、進学先には慎重にならざるを得ないはずである。
しかし、マスコミにしょっちゅう出てくるような大学ならどこでもいいじゃないか、という考え方もある。むしろ、それがほとんどである。


例として、私学のW大でいえば、普通入試は学部によって難易度は高いところもある。古い私学という「名声」の惰性で、いわゆる有名大とされているから、受験者が多い。大学教職員の手抜きの実態を、一般人は気にも掛けていない。
こういうのを、やらずぶったくりと言う。新宿の古い不動産屋の主人は、ここの学生は留年するか中途退学するかのほうが自慢だ、と話していた。今は知らない。
学力があるとは、とても思えない芸人や運動選手が多く入っている。勉強意欲のほどは、言わずもがなである。
彼は大学は無理でしょう、高校1年の内容すらついていけないのに、という生徒も、一芸とやらで、入学して、卒業ができている。

どうも私立大学は不思議な制度である。
あれは金と引き替えに学士を振りだすところである。または、受験者に知名度さえあれば、学校の宣伝のために、無条件で入学させるところである。
と話すと、不機嫌になる人も多かろうが、その実、本人たちも実態は知っているのである。

しかし日本は、当然ながら社会である。社会は固定化した層の積み重ねである。これを崩すと具合が悪い。皆が不幸になる可能性がある。
ある程度の不幸な層は必要だが、その層がやたら増えると困る。革命が起こる。そうなると幸福な層と不幸な層が入れ替わる。やがて、また革命がおこり、幸不幸が入れ替わる。これが、人類の歴史である。
ともかく、もう何十年か何百年か、革命は起こってほしくない。

だから、たかが大学とはいえ、現在の状態は、多くの人にとって望ましいのである。
たまたま新宿戸塚のW大を例にしたが、他意はない。どこも同じことである。

 

 

 

 〇 本を紹介する。図書館で読むといい。こういうゼミなら力がつくだろう。

サリヴァンの精神科セミナー【新装版】

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