ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

大学で何を学ぶ。就職浪人と面接と無駄金と


ひと頃に比べると学生はよく勉強するようになった、そうだ。
不景気で、就職難だからだろうか。

就職のための準備は、学部2年の中期頃から始めなければならない。さもなくば、就職浪人の可能性が高くなる。

大学を出ても、特に有利とも思えないが、個人に特殊な能力がないなら、大学卒の方が仕事にありつける、と思いたいのが人情である。
そう都合よくいくものかどうか。

大学で何を学んだのだろうか。どうせ例の連中からである。ろくなことは何も教わってないだろう。
大学教員は内心で、「大学は研究するところだ。手取り足取り教えるところではない」なんて、数十年前に流行った逃げ口上がまだ通じる気でいる。
しかし、大学も所詮、学校である。幼稚園と同じように各種「学校」の一つでしかない。通ってくる子供が歳をとっているだけである。

教えるべき教員が、教え方が下手、または、教えるべき内容を自分でもよく把握していない、そもそも教育活動そのものから逃げている場合が多い。
ろくな論文も書くことができないくせに、「研究者」が聞いて呆れる。
学生に、高い授業料に見合ったサービスをしなければ、化けの皮が剥がれる。剥がそうにも、皮ですらない。破れ紙である。

高校全入時代に続いて、大学全入時代が来る。というより、すでに来て、通り越したのかもしれない。忌むべし、恐ろしや。
全国の各大学は、毎年の高校卒業生を無試験入学させても、まだ定員に満たないのではないか。

高校生は、進学先に贅沢を言わなければ、行き場に困らない。「楽珍な」高校生活を楽しむことができる。
高校生のすべてが、熱心に勉強をするわけがない。向き不向きがある。どうせ金で買う「大学卒」である。それなりで、勝手にするもよし。

困るのは、義務教育である。小中学校で「それなり」がどうしてもわからない。わかってくれない。わかりたくない。
学級全員が優秀である、優秀であるはずだ、そうすべきだ、と考える。さもなくば、勝手に力む。錯覚して、信じ込もうとする。
本人がではない、いくらなんでも自分のことは分かるだろう。その親が、教員が、勘違いする。勘違いしたがる。

小中学校に蔓延する、「みんな同じ」の妄想は、いい加減に止したがいい。みんな違うのである。容姿容貌、知的・身体的能力、その他どれをとっても千差万別で、同じではない。同じなのは、いずれ、1票の選挙権を持つだろうことぐらいである。もっとも、行政にとっては、そこが一番肝心なところである。

楽チン生活を送って、それなりの学校、それなりの就職で万歳と考えているのが、多くの子供たちであるし、実際に、できれば上等、下手すりゃ以下である。予想以上なことは、滅多にない。
人は己の分際を知ることが大切なのである。
古人は、汝自身を知れ、と言った。


話を変える。

某企業人事担当をしている男が、こんな話をした。

-ーー

自分に自信がない学生を(自己肯定感の弱い人間=障壁に弱く、挫折しやすいタイプ、と企業は認識する)、企業は嫌う。

学生は、自信に見合った実力がないのが当然で、だからこそ、大言壮語するくらいでないと、目立たない。引っ込み思案な性格は、相手企業との折衝で不利になるので、お断り。

実力以上に自信にあふれ、相手を説得できる自己肯定感と主張力があるかどうかを見る。本人が、自分の能力に自信を持っていても、本人の内面だけでなく、それが表に出ていることが必要だ。
主張に見合った実力を求めていない。そんなもの、あるわけがないことは、とっくに知っている。だから、一にも、二にも、限度をわきまえた上での、押しの強い学生が勝つ。

自己の得手があれば、自分は他と違うんだぞ、というオーラが必要で、その点を必ず問うので、自信たっぷりに答える用意が必要だ。そこが弱いとまったくだめ。

内容を予想して質問しているので、返答が、質問者の期待に応えていないと即、不可。


以下、くだくだしいので、要点だけ示す。 

熱意がある振りをすることが熱意があることになる。

真正面から見つめて真正面から答えること。

こいつは使いやすそうだ、という風に思わせたほうがいい。

おもねりは嫌なものだが、受験者はおもねるので、それに慣れると、それほど嫌味に感じなくなる。

面接での口論は不要だ。不満を言う野郎だ、ということになる。反論して撃破するなどもっての外。そんな変わった人間を、日本企業は求めていない。

容姿については、社風による。
過剰に気にしている風情があれば、性格に問題ありと認定される。

担当者は、落とすことに罪悪感なし。落とすのが仕事である。
結局はどこかに収まるでしょうから、あなたの場合、他社のほうが向いてますよ、と。

学生によって、人事担当の琴線に触れる場合あり(詳しくはいえない、エロ含む)。この場合、採る率が高い。相手の心をつかむことができる人材、ということになる。

面接の場で担当者からほめられたら、まず駄目だと思え。本当に気に入られたら、その場では言わない。採用通知で示す。

ーーー

というような話である。
勝手なこと言いやがって、と思うだろうが、面接担当も馬鹿ではない。長年、関わっていたら、見る目も少しはあるのだろう。
学生も、本音で、または芝居でもして、売り込むしかないのである。

 

優れた小論文指導を受けることは、できない。ならば、自学自習である。その方法とは。

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前回、小論文指導について書いた。続きである。

簡明簡潔有効な小論文の指導方法は、次のごとし。
子供が書いた文章400字を、15秒で理解して、直すべきところを瞬時に見抜いて、妥当解を赤ペン及び口頭で指導する。すぐに書き直させる。
1回の指導は長くても30秒以内に終わらせる。
1授業時間の中で、何度も書き直しを繰り返させる。

教員は全身全霊、能力フル回転で向かわなければ、このような授業はできない。
文章を適切に添削推敲するのは、中でも瞬間的に最高の内容を指導することが可能な教員は、非常に限られてくる。教員百人に一人、千人に一人である。
だから、教員には、当たり外れがあって当然で、これは仕方がないことである。

どうせほとんどが外れなら、子供は自学自習するしかないのだろうか。 
たぶんそうだろう。
あなたが、教員だか、子供だか、もの好きな人だかは、想像できないが、まあ、学生または生徒だとしようか。つまりは学習中の子供である。
あなたが、優れた教員に当たる可能性は、ほとんどない。
だから、学校授業だけでは不安で、予備校だの塾だの通信教育だのの類で、小論文対策をしようとするのだろう。そんなことで、効果がある、またはあったのならば、お目でとう。

 

自学自習は簡単である。次のごとし。

文章はリズムである。読んで心地よいのは、読み手の理解が文章の速度と一致しているか、またはほんの少し先を行く場合である。
小論文の合否判断をする採点者は、数枚を読むのではない。何百枚何千枚である。だから、読み手を立ち止まらせたり、内容理解を遅れさせたりするようでは、駄目である。
自分から好きで読んでいるのではない。仕事で読んでいる。
こいつの文章は、設題に対して妥当かどうかだけに興味がある。
ならば、採点者のレベルに合わせて、求めているものを、半開きの口に投げてやればいい。

「口に投げる材料や料理方法がわからない」と、君は言うのか。
そんなわけはない。設題というものがあるじゃないか。設題は、ほとんど回答と同義である。
これ以上は言えない。君の読書レベル作文レベルによって、自学自習の方法は微妙に変わる。
すでに回答は述べた。

 

働きに応じた給料をやれ。小学校教員と大学教員では、手取りが逆。教員としての円熟と能力。

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「人間は、働きに応じた給料を得るべきではないか」
正面から問われると、誰もが伏し目がちになるだろう。
給料分の仕事をしているのは、いったいどこにいるのだろう。

公務員は不思議な商売で、景気によって評価が左右される。特に教員はそうである。
景気のいい時は、教師は貧乏で、結核だらけと言われた。
景気が落ち込んでくると、教育公務員はエリートで、採用試験も難しく、簡単には受からないと噂される。

実際のところ、平均をとれば、教員は、税金をたっぷり天引きされた後の、わずかな俸給で細々と暮らしている者どもである。
夫婦そろって教員であるか、どちらかが公務員または看護士等の安定した職についていなければ、家を建てることはできない。一人の儲けで妻子を養うのは、節約が必要だろう。

いや、私の場合は余裕がある、と言うのなら、それはそれで、立派ではある。おめでとう。

さて、公務員の中で、その少ない給与で、手取り額以上の仕事をしているのは、おそらく小学校学級担任と警察官ぐらいのものではないだろうか。

小学校学級担任の給与は、現在の2倍以上にしてもよいのではないか。学級の何十人もの子供の将来に、恐ろしい影響力を持つのである。3倍でも少ないくらいだ。
しかし、教員によりけりである。かえって、損害賠償を請求したいくらいの者もいることだろう。

大学教員のそれは、現在の半分でも多すぎる。「仕事」の割に、高給に過ぎるのだ。
大学教員に、小学校の学級担任をさせてごらんなさい。三日と、もたないだろう。


世間とは、不公平の別名である。
不公平はいけない、と言っても無駄である。どうせ現実である。
不公平なくせに、公平を装うな、と言いたいのである。

小学校教員から市役所勤めに転じた男が、述懐するには、「よくあんな仕事ができていたなあ、学級担任はたいへんだった。役所は楽だ。もう学校現場に戻る気はない、二度とやりたくない」
世間の勤め人の多く(役所勤め、大学教員、政治屋、諸企業等)は、小学校学級担任から見れば、「遊び」で、給料をもらっている。

それもまた、運であり、選択である。
学級担任に不足しているのは、大学教員のレトリックである。
小学校教員が、無能な大学教員どもを駆逐して、彼らの分不相応な給料を、そっくり頂くことが、世のためになるだろう。とはいうものの、レトリックには時間と練習とあらゆる意味での余裕とが要るのである。学級担任には、永遠に手に入らないものばかりである。

 

ところで、教員職は、仕事として、円熟するものなのだろうか。
円熟できることもあれば、使い捨てになることもある。

円熟しやすいのは、大学院や大学の「高等教育機関」に勤める教員である。
円熟しにくいのは、小学校などの「初等教育機関」に勤める教員である。
なぜ円熟しにくいのか。もうお分かりだろう。
専門性が希薄で、何でも屋だからである。
扱う対象が幅広い、準備時間がない、労働時間が長い。
過酷な勤務条件に加えて、子供、親、地域、行政その他の監視と攻撃とを受けやすく、防御方法を持っていない。
時間外労働は常のことで、落ち着いて一つのことに取り組ませない。仕事内容が曖昧かつ変化が急である。対処の仕方を迷わせて、あえてわからせない。
非常に不利な環境に置かれている。
以上は、現場の小学校教員の愚痴と片づけることもできる。

 

大学や大学院の教員は、小学校教員の対極にある。専門性が強いとされている。専門的職能は、差別化しやすく、特権となる。
どういうわけか、担当時数が著しく少ない。授業らしきものをするための準備も不要または少量であり、勤務環境に恵まれている。教育対象の人数が少なく、「授業」についての外部からの批判や検証が皆無である。

 

中学や高校の教員は、どうなのだろうか。
その教員の能力によって異なる。生徒指導のできない中学教員、教科の学力のない高校教員は苦しいだろう。

小学校教員は、専門的能力がいくばくかあったとしても、勤務環境によって、遅かれ早かれ、ただの何でも屋、常に慌てふためく教員、となるのが通例である。
それに比べると、中学や高校の教員は、大学や大学院の教員並の「円熟」のための環境が、一応ある。だから、円熟できるかどうかは、本人の能力や生き方の選択による。

 

さて、それにしても、小学校教員は、どうやって円熟すればいいだろうか。
現場では、無理なようである。
だから、多くの小学校教員は、その目標が管理職くらいしかない。
教員としての円熟が無理であるなら、学校管理職という「転身」によって、自分を満足させたいのである。子供へ直接教えるよりも、職員室で日がな一日、事務員のまねごとをしたい。中小企業の中堅管理職気分を味わいたい。一日でも早く、教頭校長になりたくて仕方がない。
これも人情であろう。しかし、哀れで不幸なことでもある。

誰にとって不幸かといえば、すべての小学校教員にとって不幸なのである。その職業に内在する目的が、管理職になることにしか、ないのである。

教室現場で、教員として円熟できる方法を探っている人もいるだろう。それはそれで、立派な見識だが、実際には厳しい。
というのも、世間はどのような組織であれ、管理する立場を、上と見る傾向がある。
社会は、優秀で円熟味を増す教員を(少なくとも小学校現場では)、必要としていない。

初等教育の教員の環境を、教員としての円熟を目的として、それが可能な条件に、整えることが必要だが、現実には難しい。世間は教員の円熟を必要としていない。

しかし、学びと職業とが、解離しない点では、小学校であろうと大学院であろうと、教員職は有利な仕事である。この点については、また書く。

 

私立高校の進路指導は「とりあえず、東大へ行かせておけ」で終わり。授業や進路指導の熱心さでは、公立高校が得である。

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高校の進路指導は、生徒の一生を左右する。

言い過ぎである。高校3年生ともなれば、自分の進路は、子供自身が、ある程度見えているはずだ、見えなければならない。進路担当の教員に、あれこれ言われても迷惑だ、と言いたいだろう。
その通りである。


しかしながら、進路「指導」を間違うと、子供に、大いに迷惑をかける、または、余計な回り道を余儀なくさせてしまうことがある。子供自身に任せたままにしたり、いい加減なアドバイスをしたりすると、結局は、子供が無駄な時間を費やすことになるだろう。


進路指導が、中途半端で、手抜きなのは、私立の進学校である。偏差値の高い学校は、進路指導なんか、あってなきがごとしである。
進学を控えた高校3年生はもちろん、在校生全員、真面目に学習する。しかも「良く出来る」子ばかりである。
だから進路担当は、可能性が高ければ、東大京大を押す。あるいは、東北大、阪大、名古屋や神戸あたりである。そんなもんだろう、と職員室で笑っていればいい。

 

詳細は避けるが、ある子供は、東大法学部を卒業したまではいいが、何を思ったか、東北大の医学部へ入りなおした。本人が、医者が向いていると言うのである。もう一人の子は、京大から岡山大医学部、どういうわけか、医学部へ方向転換する子が多い。

できる子たちだから、首尾よく医学部へ転進入学できた。それにしても、最初の大学は、卒業でも中途退学でも、無駄であった。

他人が言うのではない。子供自身がそう言うのである。

さて、何が言いたいか。
これらはすべて高校進路指導担当のミスである。
何度でも言うが、私立の進学校、特に、偏差値の高い私立高校は、授業が甘い、または適当であるばかりか、進路指導が、あってなきがごとしである。
担当教員は、子供の適性と進学先や学部の検討比較など、うわの空である。どうせできるのだから、とりあえず、東大法へ行かせましょう、となる。
何が何だかわからない。

一方、公立高校の進路指導は、これはもう、徹底している。このことはすでに以前にも書いた。
良く出来る子にも、ほどほどの子にも、本人の意思、学力、適性、経済状況、その他、熟慮して指導する。
学級担任も進路指導担当も、子供とともに悩み苦しんで、我が事以上に、全身全霊でバックアップする。

と、こうまでいうと、美談すぎるが、ともかくも、公立高校と私立高校との進路指導は、月と鼈、大吟醸と泥水くらいの違いがある。

だから、高校については、絶対的に、公立高校が、親と子供にとって、お得であり、正解である。これは、経験上、確信をもって言える。

 

以上の例は、すべて女子である。男子は、進学先や学部に失敗しても、今更、方向転換して年月をかけられない事情があるのだろう。本音では、こんなはずじゃなかったと、舌打ちしている子供も多くいるのではないか。

何度でもいう。都立県立国立を問わず、公立の一流校が、大正解である。
私立「有名進学」高等学校(ほとんどは中高一貫であることが売りである)は、やがて滅びるであろう。それも仕方がないことかもしれない。

 

 

担任の当たり外れは、子供の進路を左右する、と。 授業参観は、子供の発表会ではない。教員の腕を見せろ。

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子供は学校で学んで、学力が向上する。これは当然のようだが当然ではない。教員によって、子供の伸びが、ずいぶん違う。

知人の二人の子供(4年生と6年生)を例とする。

4年生の担任は、確固とした指導観を持っているようだ。子供たちに遠慮会釈なく学力向上のための方策を示し、ときとして強引とも思えるやり方ではあるが、実際に子供の学力が伸びている。
先日はパソコンの授業で、文章入力をあっという間に全児童に教え込んだ。漢字、朗読、作文、計算力と、いずれも目覚ましい進歩である。授業で、子供扱いをしない。学問をする人格ととらえている。

一方、6年生の担任は、連絡ノートに何かと励ましやら説教やらの短文をくだくだしく書くのは熱心である。肝心の授業が一向に進んでいない。
あと数日で夏休みが始まるという時期であっても、学習計画の半ばも進んでいない。学級の子供は、さほど知的に刺激を受けているとも思われない。この教員は、「仲良く、思いやり」などと空論を言うのが好きである。黒板の上には「みんないっしょに」とかの張り紙がある。
いつも「帰りの会」が長引き、説教と反省との繰り返しである。組合の熱心な活動家である。教室は、いつも騒然として、まとまりがない。


ところで、私は教職員組合を批判はしない。学習指導要領を元にして(それ以上に)、子供の学力を向上させる授業を進めるのならば、文句はない。
日教組だろうと全教だろうと、勝手にするがいい。

だが現実はどうか。人権だの平和だのに力瘤が入っている教員は、ご立派な言葉を吐くが、題目ばかりで、子供に、事実として学力をつけていない。それを指摘すると、「学級で学習の一番遅れがちな子供に合わせている」と、答えが返ってくる。
しかしこれは変ではないか。一番後れがちな子供に合わせていたら、学級全体が停滞する。しかも、その「遅れがちな子供」が、さほど熱心に勉強に取り組んでいるようには見えない。だらしないだけのようである。これでは話にならない。
要するに怠け者の味方なのである。怠け者に基準を置くと、実は教員が一番楽なのである。怪しげな「子供の実態」云々を、同和教育とリンクさせて、大声で叫んでいさえすれば、教員の怠惰や、実力不足を、塗布できる。

子供の学力を、現実に向上させようとすると、教員は生半可な気持ちではいられない。知性らしきもの、教養のようなもの、持っているはずの学力、気力、授業技術など、すべてが要求される。それが、教員は、嫌なのである。

だから、「遅れがちな子を中心に」とか、「平和教育が大切」とか、「子供の人権を」と、ご熱心そうな素振りを見せる。
これらは、同和教育の一環として、一種のタブーの「お言葉」だから、それを口走っている限りは、誰も文句のつけようがない。

こうして、ぬくぬくと不勉強なままで毎日を過ごし、当然のように、学級の子供も、勉強をしない。
これもまた、人生であろうか。担任の当たり外れは、実にその子の一生を決定する要因の大きな一つである。恐るべし。

さて、たまには参観日に行くとよい。担任の授業を見れば、今言ったほどのことが、たちどころにわかるだろう。

授業が、子供の発表ばかりでは、その教員の力は、たいしたものではない。
子供に発表させると、発表した子の親は、とりあえずは喜ぶ。それをねらった姑息な手段である。
授業参観日は、勉強が好きでもない「ぼんくら息子やぼんくら娘」に、教員がどのようにして教科内容を教えていくのか、それを見るためにある。

だから、教員が七転八倒し、孤軍奮闘し、なんとか理解させようと、あの手この手で苦労しているところを、親は見に来たのである。
テレビバラエティ番組よろしく、「やらせ」のような下手な発表会を見に来たのではない。

教員の教え方が下手でも、仕方がない。すぐに辞めろとは言わないし、言えない。そんなことを言っていたら、教員に限らず、世間の職業人の大部分は、即刻、職を辞さなければならなくなる。
みんな、あっぷあっぷで仕事(らしきもの)をしているのである。
教員は、自意識過剰である。または、被害者意識が強すぎる。

あるべき参観授業は、次のようなものである。

できれば、新しい単元で、子供がよく理解できそうもない内容を、取り扱っている授業がいい。子供の発表なんて全然必要ない。黙って学ばせろ。
子供が黒板に出て実際に課題を解く場面も必要だ。ノートをきちんと書かせることも必要条件である。教員が持てる能力で、参観者を圧倒するくらいでちょうど良い。
力ある教員は、このような授業を、あえて人目にさらそうとする。
だからこそ、大きな顔で「教員」と言えるのである。

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上記は、以前書いたものだが、当今は事情が違う。

教員にそこまで求めるのは酷である。第一、各々の子供には事情がある。環境の違いがあり、個人の能力差がある。

そしてそれは、アメリカの後を追って「格差社会」に確実になるであろう日本の、すべての人々に、厳しい現実となってのしかかる。

もはや教員の問題ではない。時代だろう。

 

 

 

 

担当教科によって、給与に差をつける。高校の国語教員100、音楽美術は50でよいのか。

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教員は、小学校では、原則として、一人の教員がほとんどの教科を教える。これを学級担任制という。中学高校大学は教員各々の専門と称して、特定の教科を教えることが通常である。教科担任制という。

学級担任制の悪弊については、いずれ話す。

 

教科担任制は、教科によって、難易度が異なる。
大学入試と同じことで、医学部理工学部等は入学難易度が高い。文学部教育学部等は低い。そこから推測してくれ。

どの教科も、授業には変わりはないと思うのは、素人である。
教員は、その教科を、タダ教えるのではなく、子供に理解させるようにしなければならない。
教科によって、教科の難易度のみならず、仕事量の差が圧倒的に大きくなるのは、高校である。

大学入試科目の筆頭である国語英語数学は、授業に、工夫や準備が必須である。特に国語科の教員は仕事量が多い。ちなみに、主要3教科では、数学、英語、国語の順に負担が増えていく。詳しくは、また話す。
プリントの用意、指導の見通し、下準備を含めると、莫大な時間がかかる。他に、小テストの作成、採点、返却、ひとり一人の生徒の提出物にコメントをつけると、もうこれは殺人的な忙しさとなる。

高校の音楽や美術や体育その他技術系は、呆れるほど、楽チンだ。

美術なんて、美術教室の横に研究室と称して美術教員の隠れ家がある。そこにイーゼルを立てて、日がな一日まずい絵を描いて喜んでいる。
授業は、生徒に紙を配って黒板の前にテーマを貼って、今から画け、と怒鳴る。すぐに、隠れ家に引っこんで、コーヒーを飲みながら絵の続きをする。時間がくれば、教室に顔だけ出して、描いたのを教卓の上に出して帰れ、と怒鳴る。それが授業である。

音楽は、形が残らないから、楽をしようとすれば際限がない。特に、有名私立や偏差値の高い公立高校では、生徒と教員が互いにグルで、受験勉強疲れの、お休みであり癒やしの場面となる。いい気なものである。

体育は言うまでもないだろう。

さて、以上は愚痴でもなければ、憤懣義憤でもない。仕事量や仕事内容に応じた給与を出してやれ、ということなのだ。

音楽や美術の教員は、採用が少ない。今どき、芸大を出たって仕事がない。そんなことは皆さんご存じだろう。その中で、運よく高校教員になれた。精一杯楽をさせてくれ、という気持ちはわからないでもないが、どうせ趣味から始まった芸術系志望者だったのである。ならば、他教科の教員と同じように、一人前の給与を取ろうとするなんて、少し虫が良すぎやしないか。

国語教員100 英語90 数学85 理科系83 社会系75 体育系60 美術音楽系50 以下ご同様。というような風に、給与割合を決めては、どうだろう。

これは教科の価値を問うてはいない。担当教員の負担に応じた給与をやれ、と言うだけのことである。