ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

乱暴な言葉で威圧しても、子供をコントロールできるわけがない。教員の持ち味を生かした授業の工夫が必要である。

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学校教育が年々難しいものになっている。
学力をつけようにも、成果がなかなか上がらない。
ひとりの教員の力で、学級全体を制御することが、難しくなってきた。学校生活が、教員も子供も、苦しい。
教員の教授能力や子供の学習能力の低下であろうか。
学校教育制度の筋の曖昧さが隠しきれなくなったのか。
先の見えないままに、右往左往している。

行政は、教員一人ひとりの力を馬鹿にしている節がある。「学校全体で取り組め」と、ことあるごとに繰り返すが、複数集まったからといって、何ができるわけではない。しかし、責任の分散はできる。学校の多数の教員の総和で、ようやく物事が少し進むことになる。現状では仕方のないことかもしれない。

たとえば学級担任と専科教員の問題である。
学級では安定して授業を受けていても、特定教科を他の教員が担当する場合、担当教員によって子供の態度は変わる。子供は人を見ることに、抜け目がない。
専科の授業での子供の態度が特に悪く、しかし、学級担任の授業では、態度が良い、としよう。専科教員が担任に対して、要望や不満をぶつけてくる。人間同士であるから、好き嫌いや技術の巧拙があるのは、当然といえば当然であるが、誰でも自分を守ろうとする。
家庭で子供の躾ができていない、学校で学校規律を守らせることができていない。
それはそうだが、当該専科教員の力量不足のこともある。
専科教員も担任教員も、「適切な指導」の技量を、常に高めていかないと、授業そのものが苦しいものになる。
 
ついでに。
若い教員が、休憩時間に、体力にまかせて、汗みどろになって、子供と遊んでいる姿は、見ていて、なかなかよいものである。
しかし、年齢とともに時間的にも体力的にも、そうもいかなくなる。だから、教員を続けていれば、ある種の諦めが必要になる時が来る。
加齢からくる体力の衰えばかりではない。容姿容貌性別等、色々な諸条件が加わって、教員と子供との関係は、変化する。

中学校の女性教員に、まれに高校女性教員にも、妙に男勝りというか、言葉が男言葉で力んだ調子で話す人が時々いる。
今時の中学生である。手強い。相手が相手なので、甘く見られないための予防線なのであろうが、下手なやり方である。ますます教員自身の立場を危ういものにする。
女性は女性の、男性は男性の、また若い人は若いなりに、そうでない人はそれなりに自分の特徴を出してやっていけばよいし、それしかない。

教員の持ち味を生かすという点では、年齢性別に限らないことはもちろんである。自分の得意とするところで、自分流の方法を工夫して、授業を進めていけばいい。
女性は女性の優しさとか母性というような点から、アプローチすることも吉であろう。
また、若い男性教員なら、子供と常に一緒に動いてやったり、年齢が近いための共通感覚を生かしたりして、やっていけばよいのである。

 

 

 

 

 

夏休みの学習課題。無理難題を押し付けられた子供が、哀れである。

 

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学校は、「よい授業」というキャッチフレーズが好きである。世間も、学校で教員が、よい授業を進めているだろうと思っている。
しかし、実際に期待通りに行われているところは少ない。物事が理想以下なのは普通にあることで、驚くに値しない。

よい授業でなければ、それは悪い授業で、効果がないどころか、害悪しかないはずなのに、教員も子供も平気である。当たり前のように学校に通って、夕方まで時間を潰すのは、そうするしかないからで、慣れっこになっているのである。

悪い授業でも、多少は学習の成果らしきものがあるのは、なぜだろう。
人間が生来持っている知識欲に助けられているからだろう。この作用がなければ、ぼんくら先生は、飯を食っていくことができない。

 

よい授業であるためには、次の三つが必要だ。
教材と教員と児童生徒学生である。
言いかえれば、学習課題と教授技量と学習者の能力である。

課題が、そもそも教員のレベルを超えていたら、教えることができない。子供のレベルを超えていてもダメである。子供の能力に適した課題があり、それを教えることが可能な教養知識技能のある教員がいる場合に、よい授業が成立する。

にもかかわらず、いわゆる進学校では、学習課題に、無理難題を押し付ける。教員自身が解けないような問題を平気で出す。

公立高校は、学校間の競争がある。生徒が国公立大学に多く進学できたら、学校職員は、特に校長は自慢である。公立有名進学校で退職できたなら、県下の二流どころの私立高校の校長に再就職できるかもしれない。うまくすれば、退職後10年、まずは安泰である。

 

公立校教員は、各方面から、能力以上の過剰な期待を背負わされて、もはや満身創痍である。
教員はすでに頑張っている。他から何も言われなくても、熱心に生徒を鍛えている。自分から夢中になるのである。
何のことはない。教員自身が、進学校に勤めていることが嬉しくて仕方がない。

商業高校や工業高校の教員は同じ公立でも格が落ちる。公立普通高校でも、進学校の教員と底辺校の教員では、位が違う。誰も表では言わないのに、本人たちがそう思っている。
生徒の成績に一喜一憂する。難関とされている国立大学に数人でも受かろうものなら、狂喜する。

と言えば、何だか良いことのようだが、そうでもない。もともと、教員にさほどの能力もないのに、生徒の潜在力も無視して、大学にねじ込もうなんて無理な相談である。生徒の中には、間違って当該高校に入ってきたような者もいる。

夏休みの課題に、身の丈に合わない大量のプリントや問題集を押し付けられた生徒こそ、再び哀れである。

  

 

 

楽な職場でも、人間関係で潰れる人が多い。自分で自分を追い詰める人々。

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某高校教員が曰く。

放課後、研究室に女子生徒がやってきて、将来高校教員になりたいが、国語教諭か家庭科教諭のどちらかで迷っている、と言う。
さあ、どう答えたものか。

国語教員はやめておけ。やることなすこと分量が多すぎる。些末で面倒で無駄な作業が連日連夜続く。人並みの睡眠はできんぞ。国語教員同士の無意味な競争心から、互いの足の引っ張り合いや、陰口陰謀落とし込み、その他もろもろ、ろくなことはない。

それはもう、家庭科教員です。学習内容がお遊びのようなもの、そのくせ、生活に密着とかなんとか、妙に気取ることも可能。仕事量が半端なく「少ない」。各校一名配置が普通だから、広大な家庭科教室家庭科準備室研究室等、わがまま放題使い放題。手料理だって、自分の服だって、教材研究の名目で、勤務時間中に作り放題。ついでに味見と称して、食べちゃったり。

と、ここまで言ったかどうかは知らないが、女子生徒は納得したのだろうか。
現在、某大学の家庭科教員養成課程で学んでいる。めでたし。

 

さて、話を変える。
小中高大の教員は、個人プレーができる大学教員は別として、あなたの勤務先と同じように、人間関係で潰れるのである。
特に役所のそれはひどい。役所といえ、たくさんあるから、とりあえず、市役所を例にとろうか。

なるほど市役所の仕事は楽である。嘘だと思うなら、日がな一日、役所の各窓口や、役所ビル各階に分散する種々の課を、それとなく覗いてごらん。
その暇なこと、ゆったり感、散漫感、傲慢感、倦怠感等々を感じることができるだろう。

中央の省庁も、また同じ。ここに詳しく書く必要もないが、外務省や文科省の某課でも似たようなもので、机の上に足を投げ出してノートパソコンをいじる奴や、態度だけは大きいが目が落ち着かない連中が多かった、と某知人は言う。

とにかく、市役所は仕事が楽である。あなたが現に市役所勤めなら、否定できないだろう。
しかしである、楽な職場であるにもかかわらず、役所の勤め人が、精神疾患になったり、病休、早期退職が多いのは、どういうわけだろう。

 

それはね、仕事が安定して楽ちんだと、人間関係で意地悪したり、すねたり、勝手に落ち込んだりするしか、やることがないから。
と、ここまで言うと、冗談でしょうと世間は思うだろうが、市役所職員は、そうは思わないだろう。その通りです、と呟くだろう。

実に実に、人というものは怖いものである。心は闇である。
心理カウンセラーもどき、怪しげな心理プログラム、力動精神医学から派生した多くの団体、生き方幸福論人間関係論、あれこれが流行って売れて、今もぐちゃぐちゃ存在するのは、そして一部では大儲けできているのは、人の心が一番難しく、つまりは人間関係で、天国か地獄かが、決まるからである。

こんなことを、何度も書くのは、役所勤めの知人のうち、すでに二名が自殺しているからである。人間関係で追い詰められたのである。
人は、意欲すれば、自分で自分自身を、変えることができるかもしれない。けれども、相手に対する態度を変えることは、二の次三の次である。誰もが、自分のことでいっぱいである。

他人の自分への態度を変えることができないのならば、自分の方が、変わるしかない。

笑い飛ばせば、いいのである。君の苦しみで、地球は崩壊しない。

 

大学教育学部教員の無能。夏季休業中の教員研修、ついでに大学祭。

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旅人来りて、嘆いて曰く。

 

つくづく日本の大学教育は無駄である。大学教員と称する与太者に、ただ飯を食わせるだけではなかろうか。

例えば、新宿戸塚の大学である。学部によってはそこそこ競争がある。入ったはいいが、教員は、学生を放任して、知らんぷりである。中でも、教育学部教員の無能な点は、特筆に値する。どうせ高校体育少年の巣、または、安直に早稲田に入るための学部かしらん。

某テレビ局の男アナが言うことには、中学生の頃から、ともかくテレビアナになりたかった。そのための手段として早稲田に入るのが得策と思い、一番簡単な教育学部に一浪の末、入って、ようやく、フ〇テレビに就職できた云々。

なるほど早稲田は芸人の街である。嘘だと思うなら、早稲田祭に言ってごらん。一日中楽しめる。缶ビール片手に、北門から入って少し臭いにおいのする例の道を通り抜け、大隈像当たりまでぶらつくとよい。秋葉原ドンキAKB劇場やら新宿二丁目猥雑な雰囲気やら、EXILEもどきごっこその他やらで、終日暇が潰せるだろう。
学祭日程が重なることの多い学習院上智とをついでに覘くなら、暗くなるまで飽きることがないだろう。

とか、云々。

 

さて、話は変わる。
夏季休業中、各高校は、教員研修なるものをする。お遊びのようなものだが、企業も官公庁も、どうせ研修なんてお遊び以下だから、高校のそれを、特にあげつらう気持ちはない。むしろ小中高校の夏期休業中の研修会なんて、立派なものである。
役所のそれは、年中あるから、評する気になれない。あなたが役所人間またはその経験者なら、その程度は知っているだろう。間違いなく学校以下、議員以上である。

教育学部系の大学教員の不明不勉強無能経験不足を深く悲しむものである。明〇図書や小〇館他の、教育関連書籍を商売する業者を、深く憐れむものである。
意味のない、むしろ害のある浅はかなトレンドを作り出し、でっち上げ、それを商売にするとは、なんと罪なことだろうか。
ことは、子供と親と現場教員に関係する。その迷惑なこと、言うに及ばないだろう。
文科省職員の見通しのなさと自己アピールと利益追及は、困ったものであるが、どうせ人間はその程度である。
現在の人気のキャッチコピーはアクティブラーニングであるが、そろそろ賞味期限が近づいた。次は主体的対話的問題解決学習だそうである。的的である。
馬鹿馬鹿しくって話にならない。

研修の無駄ぶりはまた言う。大学教育学部教員の愚かしさ、及び、無能ぶりも、また言う。一度にあわてて言うほどのことではない。

 

 

国語ができる子は、才能で解く。答えが透けて見える。高校国語科教員の悩み。

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何度でも言うが、高校教員は、おおむね今の立場に満足して、それなりに楽しんで仕事をしている人が、小中学校の教員に比べて多い。
したがって、教員職をエンジョイしようとするのなら、高校教員が最善の選択である。
大学教員は、教員というより趣味人だから、それはそれで圧倒的な極楽だが、就職口が高校教員に比べると狭い。
そこで、教員になりたいなどと口走る教え子には、高校教員をすすめる事が多いが、中学や小学校の教員になってしまって、苦労する子がいる。それもまた、遣り甲斐のある仕事である。

さて、高校教員が楽勝だといったが、例外がある。それは国語科の教員で、仕事量が半端ではない。給与を教科によって差をつけろという私の持論は、音楽体育美術家庭科の如き「遊び教科」と、できない子は無視されることが多い英語数学などの「放任教科」とも違って、国語教員は、準備も授業も事後の評価も、煩雑で時間をとる。同一賃金ではあまりに不公平、という理由による。

しかも、国語力は、学習の結果が、もっとも効果の見えにくく、また実際になかなか学力の向上しない科目である。


国語がもともと得意な子供は、難問を、才能で解くことができる。そんな子供が、往々にして、東大等の総合力を必要とする国立大難関校に合格することが少ないのは、十分に学習時間をかけなくとも、その場の才能と瞬発力で問題が解けると思い込んでしまっているからだ。地道な暗記が嫌なのである。才能型、またの名を怠け派である。
英語数学が得意な子供は、努力型が多く、反復と記憶とに時間を費やすことを苦にしないから、結局は受験に勝つのである。

 

話を戻すと、国語は、高校教科では、もっとも教えることが難しい。
少しばかり教えたからといって、簡単に伸びるわけがないのに、生徒の国語力を短期に上げようとして、無駄あがきをする。子供が焦るのならまだしも、教員が焦るのだから話が逆である。
どうも困ったものである。

漢文古文は問題集を解いたうえで丸ごと暗記する手もあるが、現代文となるとそうはいかない。稀代の悪文を使用した最悪問題を解かなければならない。
しかしながら、国語が得意な子供にとっては、何が出ても、怖くはない。はっきり言えば、授業に一時間も出ていなくても、問題文を見たとたんに、解答が紙面の裏に透けて見える。これは当然で、問題文はどうせ母国語で書いてある。設題も日本語なら、回答も日本語でいいわけである。こんな簡単なことがあるだろうか。
漢字文法語彙等々は、国語の得意な高校生にとって、今までの読書の膨大な蓄積がある。遊び半分で楽勝である。

国語科こそは、子供の資質才能によって学力が決定されることが最も大きい科目であって、国語力を授業で簡単に上げることは、できないのである。

あの先生の授業を受けて、自分の国語力が上がった、というのは、それはそれ、君自身がすでに国語力があったからなのである。
ここまで書くと、身も蓋もないが、考えても見るがいい。
例えば某公立高校が全校生徒数1200人としようか。国語が異常に得意な子は多くて各学年2名である。となると、合計6人。ずば抜けて国語の才がある子はそのうちの一人くらいである。
毎年、国語力が秀でた子が二人卒業することになるが、その子が高校の国語教員を目指すだろうか。
昨年度、公立高等学校に国語科教員として採用された数が、全国で200人と仮定する。その200人は、国語が嫌いではないだろうが、上記の意味での才能型国語人間は皆無であろう。
判で押したような努力型人間がほとんどであろう。

努力型の国語科教員は、どうしても、国語科を、数学や英語などと同等に見てしまう。やらせれば、頑張らせれば、そして教員自身がひたすらサービスに努めれば、生徒の国語力が上がると、勘違いしてしまうのである。
どうも気の毒で見てはいられない。
もっと、気楽に大ように構えて、駄文ではなく歴史的な名文を教材に、悠々と授業を進めてほしいものだと、心底から願うのである。

 

真夏の教員と痴漢と「自由恋愛」。ついでに交通事故その他不祥事に注意する。

 

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地域にもよるが、ほとんどの自治体の教育委員会は、夏季休業前に、各学校あてに、教員不祥事についての注意文書を送付する。ご丁寧に、職員会議で、内容周知徹底させ、こころして夏を迎えるように、とのお達しである。

その多くは、教員が実際に起こした事件、特に性的な事例を紹介し、各職員の心根を寒からしめようというのである。

人は性から逃れることはできない。それにしても、職場で追い詰められ、いろいろと病む教員が多い昨今、教え子や同僚その他に、手を出すケースが多いのである。
ともあれ、性は怖いもの故、どうなるものでもないが、やはり、暴発は本人も周りも深く傷つけることになる。

よくあるのは、電車中での痴漢で、これは「被害者」が過剰反応して、加害者をでっちあげることもあるらしいが、言い訳ができない。言い訳したところで、被害者(または、被害者のフリ)の言い分が通ることが多い。
くだくだしいので詳細は避ける。教員は、すでに似たような事例を読んで知っているだろう。教員でない人は、いろいろ想像をたくましくすればいいだろう。

同僚との怪しげな交際は、これは大人であるから、何とも言えない。しかし、あまりに派手派手しくすると、次の異動で僻地に飛ばされる。そうでない場合は、有力者に繋がりのあるラッキーなケースらしい。

教え子とのあれが多いのは、高校で、次が大学だが、中学もまれにある。よくもまあ、と思うような事例があるが、これも人情である。
俺はさ、あの先公とやってるんだぜ、とイケメン中学生が悪友に自慢するから、友の親を通じてすぐにばれる。この場合、中学生男子は被害者で、新卒バリバリの美人教員が加害者となる定めである。一体何が、彼女をそうさせたのか、よくわからない。

男性教員は、勤務校で、美少女高生を普段眼にしているはずである。それで満足すればよさそうなものなのに、何を血迷ったか、通勤途中で、他校の女子高生のスカートの下を覗き込む。電車で痴漢する。駅員に取り押さえられて青ざめる。
これもまた、フロイトのいう破滅願望なのか、よくわからない。

しかしながらともかくも、暑さと性とは、微妙に関係するらしい。
荷風翁が、かつて、盆踊りはあれは色ですぜ、とか言ったような記憶があるが、間違いかもしれない。
夏季休業前に、教員宛に、性にまつわる不祥事を紹介し、各教員の自覚を促すのも、これはこれで、無駄ではないことだろう。

ついでに言うならば、教員は、交通事故に厳重注意したい。
ふつう、駅近くに学校はない。しかも、校内駐車場完備だから、自家用車で通勤するのが普通である。長距離通勤者が多く、交通事故の確率が高い。
人身事故は極めてヤバい。飲酒運転も完全アウトである。物損ですら、次の異動の対象となる。
時間がなくても、忙しくとも、暑くても、ゆめゆめ安全運転に心がけるべし。