ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

まだまだ続く「総合的学習の時間」の毒。調べ学習にポスターセッション。流行物は廃り物である

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小学校中学校高等学校の「総合的学習の時間」(小学校低学年は「生活科」と称す)は、ほとんど無意味なことが明らかになった今も、惰性で時間つぶしをさせている。

あんなものを、学校で取り扱う「学習」だと、本気で考えているとしたなら、不勉強を通り越して、笑止である。馬鹿も休み休み言え。
文科省に蠢く一部担当者の、保身と自己宣伝と利己主義との結果が、「総合的な学習の時間」であった。

最初から、軽薄な思い付きに過ぎず、早晩失敗が明らかになることくらい、予想ができそうなものである。
しかし、当時、多くの関係者は、なんだか「革新で良いこと」のように考えた。特に、軽率で不勉強が売り物のマスコミ各社は大歓迎した。
あまりに不明である。

しかし、今となっては、どうにもならない。その責任はいったい誰がとるのだろうか。文科省で、主に動いたらしい寺脇某は、今何をやっているのだろう。

当然ながら、「総合的学習の時間」が現行指導要領にある限り、時間割に入れなければならぬ。その時間は、何かをしたふりをしなくてはならぬ。
それなりの工夫をするのである。ご苦労である。


小中学校で、今も見ることのできる「ポスターセッション」に「調べ学習」。
あれは学習なんかでは、断じてない。お仕着せの「感想」ごっこである。
教員も子供も、自分のやっていることの意味も意義もわからないままに、右往左往している。
子供が可哀想過ぎるのである。
学問の土台とも言えないものを、多くの時間を費やして、ふらふらしている有様は悲惨ですらある。

「今度の授業は、ポスターセッションです」と、元気におっしゃる。
カタカナを使えば、それらしく見えるだろうと、浅はかな了見である。
大方、どこかの大学教員がもったいをつけて紹介し、現場の教員達が飛びついたのだろう。
学習の訓練とは、似て非なるもので、子供にあらかじめ調べさせてきた内容(これが「調べ学習」だそうな)を勝手に話させて、それを少人数の子どもに聞かせて、お決まりの質問だの意見らしきものを言わせるという、「ままごと」以下のていたらくである。
これは、断じて授業なんかではない。

体育館で、大勢集めて、なんとかかんとか、説明らしきことをした後、ばらばらと歩き回り、紙芝居のようなことをする。
「てにをは」も満足に書けない子供に、テレビレポーターの真似事をさせる。無茶も大概にしろ。

これ以上書くのも、虚しいから、もう止めるが、そもそもがポスターセッションは、院生達の頼りない研究の発表の場として、大学構内の廊下で始まったものである。

壇上での学会発表と違って、聞き手との距離が近く、質問も応答もどんどんできるし、自由度が高いことは長所である。しかしながら、さほど内容のある研究発表の場ではないことは、なんとなくお分かりだろう。
院生以上なら、それなりの意味はあるかもしれない。
しかし小学生にやらせるなんて、泥沼の上に高層ビルを建てるようなものである。目新しければ良いってものではない。

実は、これには理由がある。
教員が、自分の授業を他人に見せるとき、自分でパフォーマンスはしたくない(自分で踊ると実力が明らかになってしまう)。むしろ、子供の発表という形にして、自分は表に出たくない。その点、調べ学習だのポスターセッションだのは、まことに都合がよろしい。
何日だか何週間だか準備して、子供に役者よろしく、練習させて、さて、本番は子供が演技すれば、なんとなく公開授業が一丁上がりとなる。
教員の皆が皆とは言わないが、このような心理が働いて、調べ学習やポスターセッションが、流行ったのである。
中身は「なーんだ、こんなこと」であるのに、名前だけはカタカナ風スマホ言葉の、「アクティブラーニング」も、ご同様である。

 

英語は書きやすく、日本語は書きにくい言語である。ダーティハリーの報告書と研究会。

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某教員が言うことには。

研究発表とは、なんとつまらないものであろうか。
何のために、何を、どのようにしたら、どうなった。これだけのことを、かいつまんで言えばよいものを、言わない。
研究というほどの研究ではないからだろう、発表者も聴衆もそれを承知で、熱心である。または、熱心なフリをする。
研究発表には、日本語の持つ曖昧さが、都合よく加味されているようだ。


唐突だが、アメリカの警察映画で、事件が起こるたびに、「報告書」という単語が頻出する。警官が、詳細な報告書を書いている。第三者への文章を書くことが、署内の日常茶飯であるらしい。さほどの負担でもないらしい。
先日も、FBI職員の活劇ものを見た。女主人公は、毎晩、自分の部屋で、その日の出来事、問題点、推理等を書き留める。徐々に事件の全貌が現れる、といったほどの筋であるが、上役が主人公に「報告書を出せ」と催促する場面が、何度か出てくる。
どうして、あのように気楽にどんどん文章を書くことができるのか不思議だ、と知人は言う。

そういえば、昔、「Dirty Harry」とかの刑事ものでも、キャラハン刑事は、やたらと拳銃をぶっぱすかりではない、報告書も書いている。
英語は、「文章を書くことが楽な言語」なのだろうか。

日本語は、単語に多くの荷物を背負わせる。英語は、軽装である。文脈による想像はあるが、それさえ明確にすれば、林檎なら、林檎で充満する。ひとつの篭に蜜柑や葡萄や西瓜を詰めこむとが少ない。
英文の単語は狭まりやすく、日本語のそれは曖昧に広がりやすい。

漢字かな混じり文で、文章を書くことは難しい。表意文字の含意が、明快な文体の邪魔をするのである。

敗戦直後、志賀直哉は、日本語をやめて、国語をフランス語にしたらよかろう、と書いた。あれなども負け戦のショックや、耄碌の言ではない。長年、文章で苦労してきたその挙げ句の発言であったのだろう。
日本語を他の言語に変えようなんて、できるわけがない。しかし、日本語の抱える難しい問題は、今も解決していない。

漢字の持つ意味の幅が広いことは、単語を選ぶ苦労を少なくする。曖昧でも許される。
まんざら悪いことでもないだろうが、事柄を表現するのに、「ことば」への甘えが出てくる。しかも、日本は島国の単一民族国家である。日本中、どこに行っても日本語が通じる。簡単に通じるから、言葉を厳密に扱わなくなる。
同じ日本人だ、そこのところ、わかってくれよ、というわけである。
言葉によって、そして言葉によってのみ、考えや気持ちを伝え合うしかない国々と、大きな違いである。

英語は、「世界共通語」であると断言する人が増えてきた。
繰り返すが、英語は、単語に内包する意味が、浅く単純である。
漢字の持つ、多様さと奥行の深さは、今後も、決して日本語を世界共通語にしないだろう。
それは、日本人にとって、喜ばしいことなのか、悲しむべきことなのか。

 

 

2020年度「大学入学共通テスト」、英語スピーキング入試の大失敗。文科省は子供を苦しめるのがお好き。

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文部科学省の間抜けさ加減は、ほとんど冗談の域に達している。
文科省職員が省の利益を画策しているのか、文科省退職後の、再就職先の確保を目指しているのか。そのあたりは、想像してくれ。

2020年度の大学入試から、「大学入学共通テスト」とやらが始まる。
ようやくコナレてきたかに見える「大学入試センター試験」はポイである。「入試改革」だそうである。

今回の大失策の目玉は、民間の英語試験を強制的に受けさせるようにしたことである。

少し考えればわかることだが、民間英語業者は複数ある。利益追求競争の商業企業である。受験生や、在校生が、こぞって、受験するようになる。
業者は大喜びである。すでに、現在の異常な英語ブームで大儲けしているのに、今後利益は天井知らずである。文科省様様だろう。
当然、文科省職員の再就職の前途は大ハッピーである。
その逆に、高校生諸君は、不幸のどん底に叩き込まれている。いや、受験する子供だけではない、その保護者も、学校教員たちも、いつものことながら、文科省の「御英断」には、ほとほと苦しめられるのである。

 

外国語は、必要に迫られないと、少しばかり学んだくらいでは、身につけることはできない。日本在住の日本人には、英語など、全然必要ない。むしろ邪魔である。
日本人の子供に、日本の学校で、英語を無理矢理に学ばせて、それで何をしようと言うのだろう。無駄の極致である。

必要性のある者、何か特定の目的があって学ぶ意味と意欲を持つ者、そういう子供は、選択させるなりして、自由に学ばせればいいだろう。しかし大部分の子供にとって、英語は、不毛不自然無益、時間の無駄どころか、精神衛生上、悪い代物である。
考えても見るがいい、「植民地マスター様」のためでもあるまいが、日本に暮らす日本人が、どうして外国の言葉を強制的に押し付けられなければならないのか。
片言のスピーキング入試で、いったいだれが得をし、だれが裏で高笑いをしているのか。

可哀そうなのは、高校生であり、中学生であり、小学生である。英語英語、と意味もなく追い立てられて、その挙句が、聞き取ることすらできないのである。
人は生まれてすぐに母親の声を聞く、言葉を聞く、日本語を自然に学ぶのである。だから、私たちの母国語は日本語なのである。
語学を商売にするのでない限り、外国語会話など、一朝一夕にできるものではない。英語を聞いて理解する必要もない生活の中で、どうして、外国語ができるようになるだろうか。

 

語学は聞き取りがすべてである。
相手が何を言っているかわかること、次に、何が書いてあるかをわかることが、言語理解の常道であるのに、こともあろうに、スピーキングだそうである。バカも休み休み言え。
聞きとることすら、できるわけがないのに、いったい何を話すというのだろう。
マスター様、次のご命令をくださいませ、とでも言うのだろうか。

 

 

 

子供が見えている。現場の経験のない哀しさ。大学教員の生き方。

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「子供が見えているか」という言葉が、学校現場で一時期流行ったことがある。
教員は、実力はなくても言葉だけを先行させたがる。だから先輩面で、何か言わねばならないときに、こんな常套句が便利だったのだろう。
映画やテレビ画面ではあるまいに、何が見えるというのだろう。何を見るべきなのか、言ってる本人にも、もちろんわかってはいなかった。

好意的に解釈すれば、眼前の児童生徒の実態を把握しているのか、という問いであろうが、何かを見ることができればいいものではない。子供の何かを、わかることができるというのは不遜でもある。

「わかること」は自分の体験上、自分が同意できること、腑に落ちること、馴染むことである。
大学教員には、永遠に小中高等学校の現場はわかることができない。したがって、わからないことを、教育学部では、わかったつもりで教えている。

教育は経験がものをいう。未経験者は黙るほかない。
高校教員と小学校のそれとはまた違う。中学校の現場も独特である。
教育について、特に学校教育については、当該学校種の教員経験がない者は、何を言っても駄目である。噂話であり、無駄話であり、大嘘である。それでも、何とかごまかしが通用するらしいのは、自分自身が、昔は児童生徒であり、小中高等学校生活を曲りなりも送ってきたから、そこから類推するのであろう。哀れであり、姑息である。

教育学部の大学教員は、現場のことを知りたくてたまらない。哀しいかな、自分で小中学生を教える実力も勇気もない。そんなことをしたら、「馬鹿」が白日の下にさらされて、明日から構内を歩くことができなくなる。飯の食い上げである。
そこで、大学付属学校を時々覗いて、何かを得たいが、所詮傍観者である。言っていること書いていることに迫力がない。空論である。

無用であり有害でもある大学教育学部を廃止すればいいのであるが、そこはそれ、人情や打算で、この世は動く。あれもこれも、関係者にとっては、今のところ職業で、食うため生きるためである。大目に見てやれ。

さて、では大学教員は現実の教育について、どうやったら、知ったかぶりができるだろうか。また、実際に、知った風な生意気な口を叩くことができているのだろう。

それはね、ネタは教え子から取ってくる。
教育学部の学生は、卒業時には、企業の就職は難しくても、一応、教育学部卒の教育学士である。なんとか、教員になった者もいることはいる。その連中から、仕入れるのである。
他には、各学校はご丁寧にも、研究会と称するパーティを年に数回するが、恐れ多くも「指導講師」という名目で大学教員をお呼びするのである。一言の「ご指導」をいただくのである。馬鹿馬鹿しさも、ここに極まる。
大学教員にしてみれば、嬉しくてたまらない。大きな顔で、小中高の学校現場に忍び込める。仕事ネタを仕入れることができる。消えかかったプライドの火を、今少し燃やすことができる。

各学校の研究会が、結局は、現場教員に負担をかけるだけのイベントになっていることは以前話したが、教育事務所職員(教育庁教育委員会とやらの指導部や指導課の職員)や地元大学教員に、自己満足の活躍の場を与えるためのセレモニーであることも、知っておくがいいだろう。

現場教員に向かって、その経験も無い者が、子供が見えているか、などと宣うのは、百年早いのである。

 

大学の新校舎建設で、誰が利を得るのか。NHKは、どんぶり勘定の独占企業なのか。

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旅人来りて、言うには。

自分の頭で問いを発し、答えを予測し、検証することは、日本人の不得意とするところである。ならば、教育の眼目は、そこに置かれるべきで、初等の小学校の折から、腹を据えてかからなければならない。

他人の言うことを丸のみにして、深く考えることもせず、大さわぎして囃し立て、挙句に、マスコミの誘導に簡単にひっかかる。誘導とすら感じていない。NHKの言うことが、自分の頭の中身なのである。それを知ってか、NHKは、反日で反皇室で国民侮蔑のくせに、大きな顔で、いまだに、堂々とのさばっている。
NHKの職員の人種構成は、いまだに明らかではない。収入歳出の仔細が不明である。どうせ、どんぶり勘定の独占企業である。内部が腐りきった極楽とんぼである。なのに、日本人は、初恋のNHKが大好きなのである。
NHKはほんの一例で、テレビ新聞マスコミの考えが、即、日本国民の、あなた自身の考えである。

疑わない。疑わないのである。情報の発信が、同じ日本人同士だろうとの安心感があるとしたら、お門違いである。
日本放送協会」のいったいどこが、日本人だろう。あれは外国の傀儡である。または暴利をむさぼる裏切者である。
新聞紙のどこが日本国民だろう。あれは利のみを狙う言論商売である。金の匂いの風向き次第で、どこにでも吹き飛ぶ。

教育は、独立自尊を持って芯となす。その気概はどこから来るか。日本の伝統文化の継承以外にはない。これを考えても、小学校から英語を教科にするなどは、すでに亡国の方針で、自ら喜んで滅ぶつもりなのだろう。


話は代わって、新校舎建設中の大学である。
日本の大学は、すでに終わっている。
大学に行かずに、就職する人や、専門系の学校を選ぶ人が増えた。それもそのはずで、日本の大学は、世界最低と断定できないまでも、果てしなく、それに近い。原因は、大学の粗製乱造にある。教員の人材不足にある。
優れた教員など、めったにいない。なのに、大学が増えれば、教員も員数揃えのために、でっち上げなければならない。
諸大学のほとんどの教員は、でっちあげた教員で、コネで就職し、立場のみで給金を得ている。

いわゆるタレント教員は、ハウツーものの「語りおろし」本を乱発したり、講演会と称する漫談をしたりで、アルバイトに余念がない。テレビのクイズ番組もどきに出て、出演料を稼ぐ。勤務先の大学は知ってか知らでか、大学の宣伝になればすべてよし、の構えである。
タレント教員とはいえ、大学教授の肩書がある。あれしきの大学でも、一応、大学である。教授とやらの妙な特権意識で、恣意的な発言を繰り返す。害悪を撒き散らす。教員の最低限の仕事をろくにしなくても、「馬鹿な大衆相手」であるから、本人はご満悦である。

日本の大学は、終わっている。かといって、我が子を、わざわざ遠い外国の大学まで行かせることができるだろうか。
それが、行かせるのである。子供も行くのである。
親の苦労を思うと、涙を禁じえない。

既に述べたと思うが、何度でもいう。教育はハイリスク・ローリターンの典型で、特に日本の大学は、全然、投資に見合っていない。

大学が潰れるのを待っていてもだめである。どうせ、税金で今以上に填補するだろう。あれは商売である。議員も役所も企業もグルの、ビッグビジネスとやらである。

「大学を潰せ、今の十分の一でも多すぎる。NHKを潰せ、民間放送で競争させろ」無駄と知りつつ、声高に叫ぶのである。

 

子供に舐められる教員。悲惨な中学の授業参観。

 

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某公立中学校の授業を参観した。
おしなべて教員の言葉遣いが丁寧すぎる。逆に子供の言葉が非常に汚い。
授業中にもかかわらず、私語(無駄話)が多い。授業内容に無関係な質問をしたり、頻繁に茶々を入れたりする。それに対し、ご丁寧に教員がいちいち対応するものだから、子供はいい気になって、ますます調子に乗り、授業妨害をする。
これでは、まじめに学習しようとする子供に、大きな迷惑である。多くの子の学習権を、一部の無法者の子が奪っている。その共犯者は、授業の猥雑な状態を許している教員たちである。
これが、この地域の公立中学校の日常の風景であろう。他の中学校でも、大同小異であった。

子供が落ち着いて学習するように、学習できるように、授業を指揮管理するのが教員の役目である。
ところが、子供に阿り、背後の親に怯え、教育事務所に諂い、管理職へ恋々としている教員の、なんと多いことだろう。

ごく少数ではあるが、教えるべきことを、厳しく適切に教える教員も確かに存在している。
 
教員が、効果的な授業を構成できないとしたら、そもそもが教員としての実力がないのである。
「転職しろ」と言うのは簡単だが、言わない。
そんなことを言ったら、教員のみならず、世の中の大部分の職業人が辞めざるをえなくなる。
無理を承知、能力不足を承知で、人は、仕事をするのである。教員だけを責めるのは不公平だろう。

しかし、教育現場の状況は遺憾である。歪である。不効率である。
まともな方向へ変えることは、各教室に限って言えば、教員の気持ち次第で、ある程度は、なんとかなる。

当該教員は、とりあえずは、目の前の子供を相手に、手応えのある授業をすればいいのである。
これが結局は、教員の仕事のすべてである。

軽々に一般化はできないが、女性教員、特に若い女性教員の授業が特に乱れていた。指導法が揺れている。学習指導への確かな方針が、自分の中で、まだ定まっていないようである。
若い教員は、「いっぱいいっぱい」の授業をしているのが、端から見て辛い。余裕が、まるでない。
あっぷあっぷで、今にも溺れそうである。その有様を、子供が見抜けないわけがない。子供は、教員の余力のなさを知った上で、茶々を入れる。教員はそれに懇切丁寧に応える。子供に舐められているのである。これでは授業にならない。

では教育哲学(らしきもの)を持ち、力のある教員はいったいどこにいるのか、という質問を返されそうだが、それは確かに、どこかには、いる。

 

教員は、子供に対して、物わかりが良すぎる。教員だけではない。
親も我が子に対して、そして、子供も他の子に対して、物わかりが良すぎるのだ。
見て見ぬふりをすることにも通じるし、超個人主義にも通じるし、結局は、無責任主義にも通じる。
1946年憲法の「諸国民の公正と信義に信頼し」て、日本の運命を、外国人にゆだねる姿勢にも通じる。
万事が、他人任せの甘えである。そのくせ、甘えが通らないときは、駄々をこねる。

親は、教育事務所へ、学校へ、マスコミへ、不平を漏らす場所はいくらでもある。
親の駄々っ子ぶりには、誰もかなわないのだ。互いに外見だけは大人であるが、年齢を重ねただけの子供にすぎない。