ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

教員の自殺、女子高校生売春、自尊感情の欠落。生きてこその、この世である。

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自殺した人を複数知っているが、その原因を考えると、肝心な時に、必要な人または言葉があったならば、決して自殺実行に至らなかったのでないかと思う。
もちろん、自殺は個人個人の問題で、他から軽々に言うことができない。推測するしかないのである。
自殺は一度で「成功」した場合もあれば、何度か試みてようやく達した例もある。
どうも、不思議なことであるが、死ぬ死ぬと言う人は、案外死ぬことは少ないらしいが、そうではない。死にたい、と言う人は、死ぬ場合が多いような気がする。
これも、また軽々には言えないのだが。
ふと思い出したが、政治家の中川親子の自死らしき事件は、今だによくわからない。

さて、一時、自殺原因には、自尊感情の欠如があるのではないかという意見があって、学校現場で、もめたことがある。
というのも、当時、女子高校生による売春、いわゆる援助交際が流行した。女子大学生も巻き込んで、今でも一部では、盛んらしい。
金に困るでもなし、家庭が崩壊しているわけでもない子までもが、小遣い稼ぎや気分の放蕩や混乱で、行う場合がある。
某高校の体育科教員が、女子生徒は、俺より稼いでやがる、などと酔って話していたのを聞いた。

女子高生売春は、子供本人の自尊感情の欠落であり、やがて、自殺につながる可能性がある、と騒ぐ心理学者や精神科医がいたため、各高校は対策らしきものを立てなければならなかった。
自尊感情の植え付けが必要不可欠との通達である。

仮にそうだとしても、自尊心自尊感情を、学校教育で一朝一夕に育てることができるかどうか。
自尊心は、第三者から与えられるものか。それとも、自分から生まれるものか。自分で自分に箔をつけるべき感情ではないのか。
マンの短編に、人はこう見られたいと振る舞うことで、実際にそう見られるようになる、というのがある(Thomas Mann "Wie Jappe und Do Escobar sich prugelten")。
立場が人を、それなりに見せることと似ている。政治家を見よ。
自尊感情は自分で自分を鼓舞するしかないもので、他人から言われて育てるものではない、という意見もある。

自殺は、教員に限らず勧められたものではない。自殺者本人にとって、損なことが多すぎるのである。
しかし、いわゆる有名人にとって、最後の花の咲かせどきでもあるのだろう。自殺した作家だの芸人だの政治家だのは、人の記憶に残りやすいし、生前の業績が実質以上に判断されがちである。
これは、俗にいう生き恥をさらすことよりも、生きていて何がしかのことをなしたのでないかという予想があるのだろう。逸失利益の計算のようなもので、過剰に水増しする。

教員は、まさか、自己の再認識のために自殺することはないだろうが、自爆的に行う、対人関係への面当て自殺は、よくあることである。
しかしこれもまた、徒労であることは以前記した。

とにもかくにも、自殺はあってはならない。しかしあるだろうけれども、決して、してはいけないのである。生きてこそのこの世かな。

 

英語を国語とする。名文家、土居健郎中井久夫そして一葉。ですます調の怪。

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かつて文章は「である、だ」の、いわゆる常体で書くものだった。

「です、ます」の、いわゆる敬体は、日常の会話で使うもので、または手紙に書くもので、文章らしい文章は、常体で書いたり読んだりするのが、「常態」だった。
それがどうだろう、近頃は、学術論文や一部の小説を例外として、多くの文章が、敬体で書かれている。
うんざりである。野下郎しい。冗長である。弛緩している。リズムがない。

と言いたいところだが、私たち全員が、鴎外や荷風漱石ではない。
テレビ漬けゲーム漬けの「目に文なし」のようなものである

そんな私たちが日本語の文章に似たものを書くには、常体は難し過ぎる。敬体は簡単なのである。
読むには、敬体が理解しやすい。文体が間延びしているから、頭に入るまで時間をかせげる。ゆっくりと浸透するので、なんとなく理解したような気になるし、現に話し言葉なのだから、普段から聞くのに慣れている。話し慣れているから、書くのも楽である。
安楽続きで、いいことだらけである。

常体で他人に読ませる文章を書くのは、実のところ、難しい。
新聞記者上がりの司馬某のねちこい講談調や、翻訳崩れの村上某の澱んだ空気臭とかの、一芸がなければ、なかなか書けるものではない。

すべての翻訳は、ごく一部を例外として、悪文である。その例は、人文社会学系の岩波文庫本や、近年の大学入試現代文を覗きさえすれば、堪能できる。
意味不明の常体文を読むくらいなら、つぶやきごっこ、顔本なんとかの自己アピールごっこの類であっても、ですます調の方がよほどいい。


ところで。
平成生まれの子供は、せこすぎる。けちくさい、みみっちい。
生まれたときから、政策として、貧乏を強いられたから、気の毒ではある。昭和世代のように、どん底の苦労を知らないから、その挙句の過剰な浪費もしらない。強いられた拝金主義者でもある。
youtubeという動画サイトを見ると、どう考えても、くだらない他人のパクリ動画で、やたらとチャンネル登録とかを狙っている輩が多い。どうせ、企業の宣伝に踊らされている些末な小遣い稼ぎであろうが、その根性が哀れにも愚かである。
こうして私はネットで稼ぎました、と、その「方法もどき」を紹介することしか内容がないネット記事も多い。笑止である。本当にそれで儲かっているのなら、同じ方法を他人に教えるわけがない。

どうも困ったものである。まっとうな方法で稼げばいいものを、ブログや動画で稼ごうなんて、卑しい料簡である。さもしい根性である。


話は戻る。
私は、精神科医では、土居健郎中井久夫を愛読するが、なぜかといえば、文章がいい。
およそ学者とは文章のことである。学問は、文章と同義である。
これで理解できない人は、それでいい。わかる人には電光のようにわかるだろう。

今、学校では、英語をこれまで以上に強制しようとしている。未来地図には、日本は米国領になるか中国の省として記されているはずである。現政府は、米国を選んだ。国民の多くはこれを支持するだろう。
しかし、どうなるにせよ、日本人が民族として存続しようとするのなら、国語の伝統は絶やしてはいけないはずで、具体的には、日本語の読み書きしかないのである。
小学校で英語を増やし、国語をますます軽んじることは、民族の同一を捨てようとすることである。それもまた、現政府の狙いかと言えば、おそらくそうだろう。

とはいえ、国語教育の退廃は、すでに半世紀前から始まっていた。
小学校で音読が減り、作文を指導できる教員がいなくなり、読書好きの子供を見かけなくなり、駄本の洪水が始まり、テレビと称する害虫が増え、携帯やネットやスマホごっこが溢れ、とうとう、英語を日本語に変えようとする有様である。

土居中井両氏のような文章を書く人がめっきり減った。しかし、彼らは、外国語の達人である。日本の現代文章は外国語の洗礼を受けなければ、書くことができないのである。恐ろしいことである。

樋口一葉は、外国語を読んだのか、そもそも、学んだことがあるのだろうか。
一葉の文章は、どこから来たのだろう。日本の伝統文学からに違いない。

私は、何が言いたいのか。
すべての外国語を無視したとしても、日本の古文を徹底することによって、達意の現代文としての日本語の発展と継承とが可能ではないか、と言いたいのである。

 

大学の授業参観。すべての授業を、一般公開せよ。無能大学教員の駆逐。

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かつて読んだものの中に、忠臣蔵の刃傷沙汰の若殿を評して、うかうかと齢を経て云々とあった。
年齢は、うかうかと取るものである。それ以外に取りようがない。
また、沖の干潟を見て潮の満を知るのではない、我が足下を見れば、水は、すでにそこに迫っているではないか。年齢は、潮の満ちるがごとし。
まったく「うかうか」と年齢を重ねたものだと思うのである。笑うべく憐れむ可し。

 

さて、熱心に学んで、成績もよく、それなりの学校を出て、人の知る大企業とやらに就職し、そこそこ仕事をし、高給を得て、趣味レジャーともに充実している風の、だれそれの噂を聞く。
いったい、事実なのか、願望なのか、知人より伝え聞いたのである。

 

うかうかと齢をとり、全速力で時間は流れるが、若い頃は、それに気がつかない。未来は永遠だと思い、実際に定年または諦念までは、気の遠くなるような年月である。
しかし、その定刻になってしまうと、時間は速度を増す。
俗に、一日を5歳は時速5キロで歩む、20歳は20キロ、50歳は50キロで走る。速度が年齢に比例するという。やがて、一年の四季が、まるごと一日のうちに、終わるようになる。
人によるので、あろうけれども。

 

人によるといえば、子供のノートである。
ノート指導は徹底しなければならない。だからといって、小中学生の全員が同じようなノートを作れるかと言えば、そんなことはない。
むしろ、高校や大学の方が、似たり寄ったりのノートになる。
かつて某大学には、ノートをとらせることが何より楽しみな教員が多かった。教室の全員が同じ内容になるように仕向ける。小学1年生の入学当初は、そんな訓練も必要だが、二十歳の連中がこれでは困るのである。
板書をそのままノートに筆記させる。それ以外は許さない。コピーなり本の紹介で済ませればいいものを、ただただ筆記させるのである。大学教員の本領発揮、つまり手抜きである。
しかし、板書という行為すら、今の大学では稀になった。ひたすら、おしゃべりの時間つぶしに明け暮れる。恐るべきことである。

大学の授業は、外部の批判にさらされない。とってつけたようなファカルティディベロップメントとやらも、ブームが去った今、単語すら聞くこともない。例によって、あれも、超短期の流行語だった。大学教員が、自らの授業を、批判され検討し改善し反省する、なんてことはあり得ないのである。

学生に、授業評価をさせたところで、そもそも、批判する基準すらないのである。項目チェックも都合よくできている。子供にも、授業批評の目が育っていない。そもそも、最初から、ない。


ところで、大学図書館は、近年、落ち着いて学習する子供が増えてきた。
理由は簡単で、地域に開放したからである。登録すれば、誰でもが利用できるような大学図書館が増えた。
するとどうなるか、地域の目が図書館内部に届く。それどころか、キャンパスを常時、地域住民に監視されているようなものだから、大学運営が緊張する。


構内の食堂売店等を、地域に開放している大学は多い。登録制であっても、図書館利用可能な大学はまだ少ない。都内では数えるほどである。

普段の授業が、参観可能な大学は皆無である。申し訳程度に、年に数回の公開講座を開くこともあるが、事前申込制で、しかも、抽選では、利用者が限られる。数百の科目の中で、二つか三つ、それも年に数回で、大学教員の授業が向上するわけがない。
生涯、自分の授業を、学生以外の他人に見せることもなく、したがって、注意を受けることもなく、だらだらと自分流に我儘勝手な、無駄口を叩いて、口に糊するのが、大学教員である。

公開授業参観がなければ、教員の技量は決して上がりはしない。
大学こそが、公開授業参観を定期的に開くべきである。

というより、大学の授業は、全科目の全時間を、無料で公開することが望ましい。
それしか、大部分の無能大学教員を淘汰する方法が、ないのではないか。

 

 

 

 

 

長すぎる学校生活。授業の押し売りは、のっぺりと従順な国民の量産に最適だろうか。

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体育や美術などの実技系の授業によくみられることだが、実際に子供が活動することが授業の眼目であるはずなのに、なかなか子供の動きがみられない。子供を動かさない、子供の動きを封じてしまっている授業がよくある。
指導者が、授業の体裁を取り繕うために、だらだらと説明過剰になるからである。

研究授業で、体育館に子供を集めて、開始早々、延々と話をする。何を言うかと思えば、心構えだの集まり方が悪いだの、こちらの方を向いて話を聞けだの、小言のオンパレードである。
横に、跳び箱を用意をしているのに、「さあ、今日は何の勉強かな、そうです、跳び箱です」なんて、やっている。子供はうんざりして下を向いている。
開始のベルから、15分後、今度は準備体操ときた。あんなものは、授業開始前に、係の子供にやらせておけ。特に必要なら、部位を指定して筋肉をほぐし、体幹を整えてやればいい。
さて、次には、模範演技、実技を入るといった例の流れになる。
いったいこれのどこが研究に値するものだか、さっぱりわからない。

小中学校の体育科研究授業と称するものは、ほとんど時間の無駄である。研究授業は、練習方法や心構えの披露の場ではない。
体育の授業として、どんな指導が子供の実態の改善及び向上に役立つかの、実験的な試みの発表の場でなければならない。
通り一遍どころか、無駄な説教と時間潰しとで、体育嫌いの子供を増やすことになってしまうのは、教員らが、「教科体育」の把握ができていないからである。
それならそれでもよい。
せめて時間いっぱい燃焼させるような工夫が必要で、子供が楽しく活動し、気持ちも身体も満足感を持って、その時間を過ごすことができたなら、まあ成功した授業であると言える。
どうも、そのあたりが見えていない。
指導者にも、そのまた先輩教員、指導主事、大学学部教員らにも、見えていないのである。子供の満足よりも、自分の見栄と思い込みとで、「なにものか」であるかのように見せたい。「えにすいんぐ」ではなく「さむすいんぐ」だと言いたいのだろう。
小賢しい心配は無用だ。体育は体育である。以上でも以下でもない。
素直に「体育の授業」をすればいいことである。

以前、某有名私立高校の美術の授業で、指導教員は、研究室で自分の絵を描き、生徒らは隣の実習室で課題の絵を描いていたことを、話した。あれは最悪の「授業」であるが、しかし、無理に方向付けをして、子供の活動を縛らなかっただけ、まだましかもしれない。

子供の活動を、どの程度、方向付けをするかは、教科によって、扱う学習内容によって、変わる。
いい歳をした大学院生でも、これをやれ、と頭ごなしに指導者から言われることもある。
結局は、指導者の当該教科の構造把握に尽きる。

要は、ちゃんと時間と金を費やしただけの授業をやれということで、学校に通ってくる子供の人生を無駄にしてはならない。
幼稚園から大学院等までの学校教育は、所与のように思う人もあるが、そもそも当然ではない。かなり歪なことである。
義務教育として国家が定めた学習期間を過ぎたら、さっさと個人の判断にゆだねるべきである。
国家は自己保存を求めるから、それに適した社会構造があり、その方向に沿って、国民を誘導する。
不自然に長い教育期間があるのは、労働人口の制限や学校施設に働く人の既得権を守るためでもある。
しかし、人口統計を見れば、将来が推測できる。最悪の事態を避けるための方策が明らかであるのに、それをしないのは、やはり今のわが身が、我が身だけが、可愛いからである。
「おもてなし」などと騒いで、今を楽しむことができさえすればいいのだろう。

いつまで純情かつ従順な国民を、操作し続けることができるだろうか。
意味不明の授業と長期間の学校教育とが、それを後押ししていることは間違いないと思われる。

 

 

教員の離婚はよせ。離婚や再婚は癖になる。離婚経験者は信用できない。

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教員の離婚はよすがいい。離婚が癖になる。離婚経験者を信用してはいけない。

なんていうと、離婚経験者から、憎まれそうだ。赤の他人が何を言うか、であろう。人皆いろいろ事情がある。だからこそ、離婚したのだろうし、再婚したり、しなかったりするのだろう。

離婚は増えつつある。結婚は減りつつある。いったい、人間も、クラゲのように、無性生殖するようになるのだろうか。現に、世の流れは、ジェンダー論の流行とともに、Xジェンダーが主役となるような気がするのである。

人口を減らしたいのは、地球全体を統治する立場からは、明らかだろう。国家レベルでは、他国が敵だから、自国民が増えて、他国民が減れば万々歳である。
しかし、どう考えても、人口が増えることによる利点は何もない。あるように見せかけるのは、そう芝居する方が利益があるからで、保健衛生その他科学技術の進歩とともに、人口が減った方がいいに決まっている。
興味のある向きは、1500年から現在までの人口統計を見るといい。
人口が増えて良かったことなんて、何もない。


さて、教員の離婚である。
離婚が流行っていると、知人から聞いた。あれは流行りものなのか、だったら廃れるときも来るだろう。

教員は、他の職種に比べて、離婚が比較的少ないのではないかと、思っていたが、どうもそうでもない。

男性教員が、教育実習に来た女子学生または、非常勤や臨時の未婚女性教員に手を出すケースが割と多い。
その挙句、糟糠の女房を放り出して、若いのと再婚する。若いその子は、翌年、正規の教員になったりする。大概、妊娠しているから、すぐに産休に突入する。

既婚の教員は浮気をするだろうか。
女性教員は仕事が忙しくて、浮気ができないし、しない。教室の男子達が、女性教員の彼氏代行のみたいなものだから、浮気の必要性を感じない。人にもよるが、 若い女性教員は、男子生徒のマドンナである。
女性教員が、若い男性教員に手を出すこともあり得ない。男性教員は、男性というだけで、AKBもどきの女子生徒からモテモテだから、年増の女性教員を最初から相手にしないのである。
既婚の男女教員が、幸せな理由がお分かりだろう。それでも浮気をする教員がいることにはいるが、人それぞれと言うしかない。


話は変わるが、教員に限らず、離婚はしない方がいい。よほどの理由がない限り、決して離婚をしてはならないのである。

結婚は縁であるから、一度夫婦になったのなら、天国の彼方か、地獄の底までかは知らないが、ともかく道連れである。覚悟して歩くしかないのである。
離婚をすると、癖になる。離婚を一度したなら、二度三度も可能である。何十回でも離婚は可能である。
それが一回や二回の場合がほとんどなのは、
金が続かないのである。元気がなくなるからである。年寄りになるからである。限りある命が尽きるからである。
考えてもみるがいい。もしも、200歳くらいまで二十代の外見体力美貌が続くなら、離婚再婚を繰り返すことになる。それは悪である、醜である、狂であり、怯である。

だから、限りある命であろうとなかろうと、人は、結婚は一度きりでいいのである。離婚は許さるべきことではない。離婚をするような輩は信用できない。

とはいえ、人は性懲りもなく離婚するだろうし、再婚して、幸せだと思いたいのだろう。人は自分のしたことを、なんとか自身で肯定し認めたいものである。
しかし離婚はいけない。特に、教員の離婚はあってはならないことである。このことが理解できない向きは、襟を正して、教え子に聞くといいだろう。

しかしながら、なおも、世界中で、離婚はますます増えるだろう。
これは縁というものを軽く考える風潮が蔓延したからである。
もちろん、男女差、夫婦、家庭というものが、どんどん変化して、融合し、わけのわからないゲル状のような世界になれば、結婚離婚の繰り返しが、常態となるかもしれないし、夫婦や家庭や地域国家という概念自体が消失するかもしれない。
近年、大流行のジェンダー論は、ある種の融合を促進する力となるだろう。吉と出るか凶と出るか、いずれわかる時が来るだろう。

ついでに言えば、日本でも、離婚経験者が首相職に就いたりしたことがあるが、感心しない。離婚経験のある人物は信用できない、してはいけない。

そんなことはない、結婚は相手との相性だ、離婚して幸いだった、または今の再婚相手が最高だ、と主張する人もいることだろう。
ならば、言おう。君にとって、まだまだ、最適な選択があるはずだ。そのために、月ごとにまたは週ごとに、夫または妻を取り換えるようにしたら如何。

 

 

「IT"それ"が見えたら、終わり」はchumshipの話。子供は自分の死に恐怖して、諦めて、そして大人になる。

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2017年版、映画『IT/イット』は、それなりにヒットしたらしく、年明けの2018年1月も、全国諸所で公開されている。
相変わらずのキング節で、楽しむことができた。

この映画には、兄弟殺し、尊属殺、母親の息子への固着、近親姦、中学生の過度のイジメ、サリヴァンのchumship、イニシエーションの動物殺し、等々なかなか興味深いテーマが散見される。
R-15指定らしいが、これこそ、全国の中学生が見るべき映画である。
弾切れの銃の発射、空中に浮かぶ死体、風船他のサインで、この話が寓話であることは明らかで、こんなものを見て勘違いする小中学生など、今時いない。

「IT"それ"が見えたら、終わり」というのは、いかにも不味い邦題だ。「それ」とは、人間が避けることのできない「死」のことである。不可避の死を感じ、恐怖を抱くのは、幼少の子供によくあることで、自分がいつか死ぬという事実に愕然として、夜毎に泣き叫ぶ子供は多い。
死を感じ、その事実に対して、やがて得心または忘却して、生きなければならないことを、子供は知るのである。それがITのテーマで、キング作品のほとんどは、この主題の変奏である。


SF映画の『スター・ウォーズ 最後のジュダイ』の類は、日本では、常に大ヒットする。大人も結局は子供である、ということだろう。特に感想はない。

ついでに言えば、NHK紅白歌合戦という代物は、好悪吐く歌合戦だという知人がいたが、私は見たことがないので、知らない。
youtube で見るにも及ばないだろう。今時「歌合戦」は、友人らが集ってカラオケ部屋でするものである。有象無象の芸人もどきの下手な口パクを、テレビで放映するなんて、視聴者に対する侮蔑以外のなにものでもない。

 

ところで、
人文系社会学系列の授業またはゼミと称する雑談のようなものでも、本人たちは、学問だと信じて、ご満悦である。
一体全体、社会学なんてものは、まっとうな学問であるのかどうか。
社会学は構造が、明らかではない。それが利点であり、価値だそうである。
体系化された知識を学問という。ならば、社会学は、学問もどきに過ぎない。しかし、それこそが、社会学の存在価値だというのである。
好き勝手なことを、学問の薄衣をかぶって言いたい放題できる。

クリントイーストウッドの映画で、若手警察官が、大学で社会学を専攻した、と言うと、主人公の刑事が「お前、出世コースだな」と、揶揄するシーンがある。
当時は、社会学が米国や独仏で流行った。例によって、すぐに日本でも大流行して、アパシーだのアノミーだの、大衆、不安、疎外という言葉が、レポートを埋め尽くした。
今でも、社会学は、人々の不安や願望に付け込んで、新しい話題が転がっていないだろうかと、キョロキョロしている。

続いてやってきたのが、心理学である。心理学は、一神教の重苦しさから逃れるためにある。
多神教で、地域的人種的連帯感のある日本人には、そもそも、心理学の価値は薄い。
にもかかわらず、商売上の利益から、これもまた流行った。今でも流行っている。ますます流行るだろう。

こんなことを言うのは他でもない。
教育現場に、社会学や心理学の、ああでもないこうでもない、という話題が提供されるが、実際のところ、時間の無駄で、なんら教育の営みに、よい影響を与えていないのである。

スクールカウンセラーがやってきて、なぜそれほどの効果がないか。理由は、すぐにピンとくる人がいるだろう。怪訝に思う人には、説明しても無駄かもしれない。