ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

キャッチコピーがお得意である。言葉だけが先走る学校教育目標などなど。

学校教育目標の陳腐なこと、学習指導要領の中身空疎なこと、文科省のお得意が空虚な題目主義であること、みな同じ穴である

敗戦後、教育は常に改革という言葉とセットだった。
自分たちは「改悪」なんか決してしない、という身の程知らずの傲慢である。
政治屋や役所人間の言葉が空虚に上滑りするのは、昔からの習癖である。
それにしても、戦争中、軍は大敗をしているのに、ひた隠しにして、転進だの、常勝だのとごまかした。ごまかし続けて、言ってる当人までもが信じる始末である。
戦後の米国製憲法をそれらしく見せるために、東大教員らが辻褄合わせに奔走してきたのも、同じ伝である。やがては信じるだろうと思ったら、本当に、だれもが信じてしまったのである。

文科省は、教育目標をたいそうな言葉で飾りたがる。それを真に受ける現場も現場だが、学校は、文科省に表向き、逆らえない。表向きに従順を装っていたら、中身まで、本当に奴隷になる。神のお告げと感じるようになる。
もっとも、どうせ言葉だけの看板野郎であること、お互い様だから、どこか本心では、互いに馬鹿にしている節もある。


各学校は、「学校目標」なるものを作らねばならない。
「いつも明るく元気な子」「自ら主体的自主的に学び合う」「支え合い認め合う」以下、自ら学ぶ力、生きる力、協調性、自己学習能力、心の教育、明るく素直で朗らかで、個性豊かにがんばる子、云々。
口だけでは何とでも言える、という見本である。

時々の政府、各種団体、マスコミ、誰もかれもが、対象を、すぐにキャッチコピーでまとめたがる。何本の矢とか、聖域なきなんとか、積極的平和主義、働きかた改革云々。内実がないことをごまかすための括り用語である。
近頃は、ウイルス駆除ソフトであるまいに、経団連がSociety5.0とか、言い出した。馬鹿馬鹿しくって見てはいられない。
お題目だけは、学校教育目標みたいにご立派で、かつ内容が意味不明である。
「インフラモニタリングシステムを用いたアセットマネジメントの導入」だそうである。デジタルツィン、テストベッド、ライフサイエンス、トラスト基盤、フィンテック、技術シーズ、投資スキーム等々、カタカナ便利語をうじゃうじゃ使用している。
日本語で書け、日本語で。

足が大地についていない。ふわふわした掛け声倒れの煽動文書に過ぎず、その実態の無意味なこと、書いた本人も承知しているはずである。それとも、本気ならば、哀れというも愚かである。学部生がでっち上げた類の立て看板言葉を、真に受ける方がどうかしている。

何か言っておけば、人は安心する。それは、わからぬでもない。
かつて、某大手損保会社に勤務していた知人が言うには、新入社員は、研修で船に乗ったり、ガソリンスタンドを訪問したり、中小企業を訪問したりする。その度に、研修担当から指導を受ける。本社で報告会議が毎月ある。
「ご報告申し上げます。某月某日、XY社、達成目標3億5千万円。GH社、達成目標5億円、内訳は」とか大言壮語である。学校出たての男を、相手企業が信用するわけがない。どうせ訓練で架空である。誰も、本気にしてやしない。
それでも、なんとなく言っておけば、当人も安心し、先輩も安心し、何より会社が安心する。できなくたって、全然かまわない。むしろできないことを前提に、話が進んでいる。しばらくの間はそれでいいのである。

政府も企業も学校も、これは大人である。大人はできることを前提に話を進めなければならないはずである。
目標が実現できないこと、できなくても構わないと安心していること、立候補者の公約と一緒で、互いにそれを了解の上での八百長である。

子供は毎日学校に行っている(はずである)。
子供は、具体的に、実際の中身のある訓練を受けるべきである。それが教育である。教育こそは、ごまかしや空疎ではない、地味で堅実な仕事であるはずである。