ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

英語を国語とする。名文家、土居健郎中井久夫そして一葉。ですます調の怪。

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かつて文章は「である、だ」の、いわゆる常体で書くものだった。

「です、ます」の、いわゆる敬体は、日常の会話で使うもので、または手紙に書くもので、文章らしい文章は、常体で書いたり読んだりするのが、「常態」だった。
それがどうだろう、近頃は、学術論文や一部の小説を例外として、多くの文章が、敬体で書かれている。
うんざりである。野下郎しい。冗長である。弛緩している。リズムがない。

と言いたいところだが、私たち全員が、鴎外や荷風漱石ではない。
テレビ漬けゲーム漬けの「目に文なし」のようなものである

そんな私たちが日本語の文章に似たものを書くには、常体は難し過ぎる。敬体は簡単なのである。
読むには、敬体が理解しやすい。文体が間延びしているから、頭に入るまで時間をかせげる。ゆっくりと浸透するので、なんとなく理解したような気になるし、現に話し言葉なのだから、普段から聞くのに慣れている。話し慣れているから、書くのも楽である。
安楽続きで、いいことだらけである。

常体で他人に読ませる文章を書くのは、実のところ、難しい。
新聞記者上がりの司馬某のねちこい講談調や、翻訳崩れの村上某の澱んだ空気臭とかの、一芸がなければ、なかなか書けるものではない。

すべての翻訳は、ごく一部を例外として、悪文である。その例は、人文社会学系の岩波文庫本や、近年の大学入試現代文を覗きさえすれば、堪能できる。
意味不明の常体文を読むくらいなら、つぶやきごっこ、顔本なんとかの自己アピールごっこの類であっても、ですます調の方がよほどいい。


ところで。
平成生まれの子供は、せこすぎる。けちくさい、みみっちい。
生まれたときから、政策として、貧乏を強いられたから、気の毒ではある。昭和世代のように、どん底の苦労を知らないから、その挙句の過剰な浪費もしらない。強いられた拝金主義者でもある。
youtubeという動画サイトを見ると、どう考えても、くだらない他人のパクリ動画で、やたらとチャンネル登録とかを狙っている輩が多い。どうせ、企業の宣伝に踊らされている些末な小遣い稼ぎであろうが、その根性が哀れにも愚かである。
こうして私はネットで稼ぎました、と、その「方法もどき」を紹介することしか内容がないネット記事も多い。笑止である。本当にそれで儲かっているのなら、同じ方法を他人に教えるわけがない。

どうも困ったものである。まっとうな方法で稼げばいいものを、ブログや動画で稼ごうなんて、卑しい料簡である。さもしい根性である。


話は戻る。
私は、精神科医では、土居健郎中井久夫を愛読するが、なぜかといえば、文章がいい。
およそ学者とは文章のことである。学問は、文章と同義である。
これで理解できない人は、それでいい。わかる人には電光のようにわかるだろう。

今、学校では、英語をこれまで以上に強制しようとしている。未来地図には、日本は米国領になるか中国の省として記されているはずである。現政府は、米国を選んだ。国民の多くはこれを支持するだろう。
しかし、どうなるにせよ、日本人が民族として存続しようとするのなら、国語の伝統は絶やしてはいけないはずで、具体的には、日本語の読み書きしかないのである。
小学校で英語を増やし、国語をますます軽んじることは、民族の同一を捨てようとすることである。それもまた、現政府の狙いかと言えば、おそらくそうだろう。

とはいえ、国語教育の退廃は、すでに半世紀前から始まっていた。
小学校で音読が減り、作文を指導できる教員がいなくなり、読書好きの子供を見かけなくなり、駄本の洪水が始まり、テレビと称する害虫が増え、携帯やネットやスマホごっこが溢れ、とうとう、英語を日本語に変えようとする有様である。

土居中井両氏のような文章を書く人がめっきり減った。しかし、彼らは、外国語の達人である。日本の現代文章は外国語の洗礼を受けなければ、書くことができないのである。恐ろしいことである。

樋口一葉は、外国語を読んだのか、そもそも、学んだことがあるのだろうか。
一葉の文章は、どこから来たのだろう。日本の伝統文学からに違いない。

私は、何が言いたいのか。
すべての外国語を無視したとしても、日本の古文を徹底することによって、達意の現代文としての日本語の発展と継承とが可能ではないか、と言いたいのである。