ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

荒れた学校、保身の校長、甘える家庭。それぞれ不幸。

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学校は、施設設備と、教員と、児童生徒学生等の子供とで成り立つ。
これが学校の姿である。だから学校は、どこも似たようなものだと言えるかもしれない。
しかし、実際は千差万別で、一つとして同じではない。

X校は、子供が荒れていた。
荒れの原因は、親の生活が荒んでいるからである。
学校は、家庭や地域の影響を受ける。
特に、同和問題で、職業活動家や教員組合が派手に騒いでも諒とされた頃は、歯止めがなかったので、子供の荒れは、極限にまで達した。
教員も人の子である。堪忍袋の緒が切れて、厳しい言葉で叱ったり、多少の正当防衛的な有形力の行使もしたりする。さあ、それが大変なことになる。親も子も、「同和」を背負っているから、勇気百倍である。徹底的に逆ねじを食らわせた。

教員や学校及び教育行政役所の勤め人は、騒ぐ親と子には勝てない。とことん打ちのめされた。
そこで、学校側は次の作戦に出た。

慇懃自重である。
馬鹿がつくほどの丁寧言葉で、子供と親とに対応し、形ばかりの「人権意識」とやらを押し付けることにした。
家では、「この野郎、糞ガキが、殺すぞ」と親から言われている子供も、学校では、教員から「~さん、君」で呼ばれる。
「お掃除の時間だから、廊下の掃除をお願いしてもいい?」などと、言われる。
子供を叱るときも、教員は丁寧言葉を使わなければならない。子供の方は、教員を呼び捨てである。「音楽のババア、担任のゴミ」と、平気で騒いでいる。
それに腹を立てたら、教員の負けである。うっかり、注意したり、激怒しようものなら、子供と親との、思うつぼである。
我慢である。忍耐である。自殺は滅多にないが、精神を病む教員もいる。
こんな学校は嫌だ、転勤させてくれ、と望んでも、代わりに来る教員がいない。一度、X校に勤めると、何年も転勤が容易ではない。我慢である。または病休である。あるいは早期退職である。運よく、一定年数を経ることができたなら、ご褒美に管理職に早くつけさせる。教育委員会に指導主事として栄転できる。それが楽しみで、苦しみに耐える。
と、こう書くとなかなか、案外楽勝のようだが、現実はそうはいかない。職場の雰囲気は地獄である。互いにぎりぎりでやっているから、神経をすり減らしていることが、はた目にもわかる。

幸福は一様に幸福だが、不幸はそれぞれに不幸である。
他人の問題にかまうことができるのは、自分に、それだけ余裕があるからで、自身のことに精一杯ならば、他人ことなんか、どうでもよくなる。

X校の病巣は、校長にある。各々の教員にある。我が身を守ることで精一杯だから、余裕がない。

子供が一番大切だと、教員が叫ぶのは、多くの場合、嘘である。教員は、他人の子の親にはなれない。子供には本当の親がいるだけである。各々の家庭は、我が子に責任を持たなければならない。教員に押し付けても、入れ物が割れるだけである。
子が荒れているのは、親に原因がある。その事実を、学校は見て見ぬふりをするから、嘘がまかり通るようになる。

ご存知のように、日本の職場では、互いが守りあう。憎しみや妬みはあるが、これは人の常だから、可愛いものである。
日本人は、外国人と違って、同僚を心底叩き落そうとする人は極めて少ない。皆が伸びればそれでよし、自分が特に伸びればもっとよい、というのが、建前であり、相互親和的な雰囲気がある。
しかし、実力不足の校長と、がけっぷちの教員と、荒れた家庭との組み合わせは、不幸の連鎖にならざるを得ない。

とはいえ、X校のような学校は必要なのかもしれない。橋の下に何者かがいてこその、浮世だという。