ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

子供ごときに振り回されるな。荒れる中学校と元気のない教員。

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学校に元気がない。
特に中学校は落ち込んでいる。教員が自信を持って子どもに接していない。
原因の一つは、学校の教育方針が揺れていることにある。
本を正せば、教育に、芯がないからである。
戦後、教育の芯がなくなり、その場その場で、ふわふわと流されてきた。ごまかし続けることができなくなった。

加えて、「ゆとり教育」が、子供と学校とを駄目にした。文部科学省が「自信をもっ」て示した「学習指導要領」は、最低水準まで子供の学力を下げてしまったのである。

勉強を一所懸命にしなくてもよい、したいときにしたいことをすればいい、というのが「ゆとり教育」である。教員は学習内容を教えるのではない、子供から相談があれば、聞いてやるふりをすればいい、というのが「ゆとり教育」である。
こんなことで、子供に学力がつくわけがない。

教員はいいだろう。教員にとって児童生徒は、所詮、他人の子である。だが、親にとっては大事な我が子だ。我が子の勉強に関心を持たない親はいないだろう。

荒れる中学校の教員のほとんどは、現状に満足し、変革を諦めている。
生徒からゴミ屑とあざけられて、誰が熱心に勉強を教えるだろうか。
「少しでも、学びたいやつは塾に行って勉強しろ。それでいい」と、考える教員がいたとしても不思議はない。
「学校は喧噪とお遊びと狼藉の場所である。次の転勤までなんとか無事に過ごせればいい」と、考えている教員もいることだろう。

公立中学校が、学習する場から時間つぶしの場へと変化した原因はまだある。
一部の問題生徒を、入学後、夏まで放置してきたことや、小学校の高学年の時に、きちんとした指導がなされていなかったこと等だ。本来は入学早々、叩き直すべきである。

小学校では「平等」や「競争嫌い」や「個性尊重」などの建前を優先した。守るべき学習ルールを教えていなかった。小学校高学年の担任に責任がある。
学級担任の腕は、著しく落ちている。
あぶらがのってきて、ようやく充実した教育ができるらしい中年以後、管理職志向になって、学級指導に熱意がなくなることが多い。外見だけを取り繕う。
教育委員会の評価を気にして、学習に挑戦と冒険とがなくなってくる。

中学校では、そもそも授業の上手い教員が少ないことに加えて、地域の生徒数の短期の増減と予算の関係で、正規の教員の採用を手控えた。結果、一時的な臨時講師が、授業をまかなってしまうようになった(常勤教員よりも力を持っている人も多いけれども)。教員の不安定は、生徒への指導の弱さとなる。

中学校の各教室では、生徒が乱暴狼藉の限りを尽くして、授業妨害をする。
原因は、教員のお粗末な指導、または生徒の我が儘である。
どんなに荒れた教室だろうと、きちんと指導してこそプロである。
しかし、そうはいっても、授業が成立しない中学校が多くあること、みなさんご存知だろう。
疑問の向きは、近隣の中学校に電話して、参観日の日程を尋ねて、見に行くがいい。

小中学校は、「地域に開かれた学校」とやらで、授業参観日を、一般に開放する。ただしあまり来てほしくないので、宣伝しない。むしろ秘密にする。

参観日当日は、いくらなんでも、生徒も大人しいと思いたいが、やはりうるさい。
と書けば納得するだろうが、実は、参観日だけは、生徒は、普段と打って変って静かである。
このあたりの立て分けは、子供は実にうまい。
新任の中学教員は、参観日の「穏やか」な教室で授業をしながら、明日のことを思うとぞっとする、と言う。

今、不景気である。これで不景気なのかと訝る人もいるだろうが、不景気である。
景気が悪いと、学校は安定する。
親は生活を不安に思っている。我が子の将来もいいことはないだろう。就職できるのかしらん。せめて金のかからない学校に行けるだろうか。
子供は時勢の変化を肌で感じて、甘えた真似ができないことを、知っている。

社会全体がバブルで浮かれると、子供も浮かれるのである。
学生諸君が、赤旗もって色とりどりのヘルメットかぶって、社会主義革命ごっこで遊んでいた頃は、世間の景気はよかった。
さすがに今は、本郷だろうが戸山だろうが秋葉原だろうが、コスプレの男女はいるが、革命ごっこの学生は見ることができない。

事ほど左様に、児童生徒学生は、大人を盗み見て行動する。
ゆめゆめ、子供ごときに振り回されてはならない。