ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

学校への匿名の意見は、無視すること。親の不平不満のはけ口に過ぎないことが多い。

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教員の指導について、学校に匿名の意見がよせられることがある。
貴重な意見として、教育活動の向上のために、直すべきは直していけばいい。
しかし、この匿名というのが、曲者である。
教育上の意見またはクレームと、学校は重く受け止める傾向がある。
しかし、その内容が極めて怪しくても、事実かどうか確かめることができない。

意見の真偽の立証責任が学校側にある、と学校の職員は考える。
するとどうなるか。
疑心暗鬼の中で、しかも当該関係者の気持ちに考慮しながら、検討しなければならない。子供に直接聞くことはできない。なぜなら、匿名意見であるから、その真偽は不明である。不明なことを、直接子供に問うことは、教育活動では慎重になる。「子供の心を傷つけた」などと大騒動になる。
学校や教員は、途方に暮れてしまう。

匿名の意見に影響されると、授業活動がびくびくと自信のない、遠慮したものになってしまう。


景気が良くても悪くても、誰でも何かしら不満を持っている。
公立学校はその不満のはけ口となりやすい。あることないことをごちゃ混ぜにして針小棒大に騒ぐ親が、学年に一人でもいたら、たちまち、学校はバランスを失して、喧噪に巻き込まれる。

現代は個人によって価値観がバラバラである。全員に喜ばれ安心され満足を与えるような教育活動は、とうてい無理な相談だ。だからどんな教員にも、細かく捜せば、どこかに指摘できる失言や授業技術の不満点がある。
人間相手の仕事だから、当然である。

教員は、責任ある意見ならば、虚心に耳を傾けるはずである。
ところが、意見の出所がはっきりしないのは、これは密告であり、中傷であり、たんなるデマであるかもしれない。

意見を出す親は、現状を改善させようと考えるのならば、実名を名乗ることが必須である。そうしないのは、これは単に、自らの不平不満や子育ての困難さを学校教員に向けて暴発しているにすぎないと考えられても仕方がない。個人的嫌悪感(当該教員が個性的であればあるほど)を抱いている場合もあるだろう。お互い人間である、仕方がない。
しかしながら、どのような場合であっても、発言者が特定できる場合はいい。対処の方法もすぐに決まるし、解決が速いのだ。
発信源が特定できないとき、非常に困る。いったい何をどのように対処してよいかが、決めることができない。曖昧で漠然としたものになる。

教育活動には、一般論はない。すべてが子供ひとり一人の個別問題である。誰にでも通用し、誰もかもが幸いっぱいというわけにはいかない。
すべてに通用することは、大した効果を上げないものである。

にもかかわらず、誰のことか、どの子供のことか分からないのなら、手の打ちようがない。それどころか、すべての子供の最大公約数として対応することとなり、全体的に活力のない、ミスばかり恐れる逃げの授業となってしまう。

その意味でも、学校に第一報が入ったときの対応は大切である。できるだけ、具体的な意見の内容と、その発信元の特定が必要だ。学校側も、責任の所在を明らかにしない意見は、無視をするぐらいの覚悟が必要だろう。



ある学校に、保護者と名乗る人物から、教員に対しての注文または非難の電話があったとしよう。

校長は、教員に対しての教育活動上の意見を外部から受け取ったとき、その内容を、すぐに教員全体に伝えるかどうかは、事実関係と当該教員とが確定できないうちは、十分考慮しなければならない。
意見の発信源が特定できない場合、その意見の信憑性はないと考えられる。それは単なる不満の一つとして表されたと判断すべきで、その度に教員に伝えていては、混乱が生じる。

ところが、ほとんどの校長は、自分で責任を背負うことに耐え切れない。待ちきれない。当該学年や教科部にすぐに伝えてくる。
外向けには、校長は対応が早い、というポーズをつけるわけである。これが間違いの元で、匿名の意見を言った者は、愉快とばかりに図に乗ってくる。
匿名だから、 何でも言える、学校は何でもする、というような間違った「常識」が、親の間に広まってしまう。これは、教員の「蚤の心臓」に微妙に影響し、溌剌とした授業を阻害する。

職業人は、通常その仕事に対して、一定の型がある。教員も例外ではない。この「型」は、日々安定した教育術を実行しなければならない必要性からくるものであって、マンネリとはやや違う。
型は安定していると同時に、自己研鑽によって効果的に変化向上させなければならない。であるから、型の変化に対して、親が賛同的な意見を伝えるならば、教員はいっそう勇気づけられて教育活動も効果的で安定したものになる。
ところが、匿名の否定的な意見である場合、それを教員に一般的に(つまりどの教員に、どの父兄から、という情報がはっきりしないままで)伝えることは、その益よりもむしろ損失の方が多い。
効果的教育を行う教員までもが、匿名意見のとばっちりで、自らの教育観や方法を自己反省のあまりに投げ出してしまう傾向になる。
まじめで熱心な教員ほど、子供や親の反応を大切にするので、継続してきた学習方法を、変更したり、中止する可能性がある。

少々では自己の信念を曲げない、といえば、立派な人物のように喧伝されるが、とんでもないことで、現場を知らない人間の言うことである。
現場は常に一歩先が闇の綱渡りである。信念らしきものは簡単に豹変する。自己反省と自己研鑽の固まりが教員である。

さて、情報を自分だけで保存するというのは快楽でもあるが苦痛でもある。その苦痛に耐えることが、校長や教育委員会職員筋には、必要なのであるが、実際には、自分に得になる情報は秘匿するが、それ以外の情報はいとも簡単に公開する。
校長を指導監督する立場にある「教育委員会」は、校長のリーダーシップを、即席で向上させようとして、稚拙な研修じみたものを多く実施している。
だが、性急で軽はずみな策動は、慎んだ方がいい。人材不足であるということが、まったくわかっていない。

人は育てるものでもある。だが、育つべき種は、あまりに少ないという現実を知らなければならない。
立場がその人を育てるという。それはそうだろう。だが、立場のみの人物がほとんどある。
誰もが、自分の周りを見渡すと、すぐに気づくこと、ご同様である。