ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

とんでもない運動会。「甘い関係」の教員と親と子供たち。

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中学校(A校)の運動会(体育祭)に行った。

いやはやとんでもない運動会だった。テントは本部席と称する中央の一つだけ、運動場には大きな円らしきものが、ぐにゃぐにゃの白線で引いてある。
生徒達は甲高い放送部の女子生徒の声で、なんとなく集まったり走ったりしている。種目は障害物競走、かけっこ、騎馬戦のようなものである。そのだらしのなさと、規律のないこと、漫然たる雰囲気、まったくあきれて、ものが言えない。

練習した風にも思えず、ただ体育祭という行事をこなすために、日曜日の午後、運動場でぶらぶらしているだけである。これを保護者はなんと思って見ているのだろう。案の定、全校生徒の3割も保護者が来ていない。来ている親たちは、運動場を囲んで、所在なげに立って見ている。憤慨するでもない。慣れっこなのであろう。

隣町の中学校(B校)の運動会と何という差であろうか。
そこでは、多くのテントが立ち並び、各地区ごとに区分けされ、セパレートコースが美しく引かれており、種目も盛りだくさんで、練習の成果のよく出ている表現運動や組み体操があった。保護者も、全校生徒以上の人数が集まり、地域の参加もあって、やんやの応援である。

この違いはどこから来るのだろうか。

教員のやる気である。

A校の教員はやる気がない。保護者も、学校に厳しい注文をつけない。ただ漫然と通わせている。
A校の立地条件は、小高い丘の上にあって、学習活動が、まったく地域の目から隠れたところで行なわれている。
一方、B校は、保護者の家々は、丘の上で、中学校はいわば谷底にあり、校庭やグランドも、教室の授業も、地域の家から見下ろせて、監視された状況にある。監視されやすいことが、特に良いわけではないが、学校の教員には、いい加減なことはできないという圧力にはなるだろう。

A校は、毎年、このようなふやけた運動会と聞く。
A校の教員のほとんどは教員組合の熱心な活動家だそうである。
教員の組合活動が盛んな学校では、不思議と、教育がダメになる傾向がある。伝統文化の勉強も、日本人の誇りの育成も、学習規律の徹底も、大嫌いだからだろう。
生徒もやる気を起こさないはずである。

イェーリングに「権利のための闘争」という著作がある。その最初に「法の目的は平和であり、それに達する手段は闘争である」という文句がある。これを、もじるなら「教育の目的は、学力の向上であり、それに達する手段は、(教員に対する)闘争である」というのは言い過ぎだろうか。


さて、あれもこれも、結局は授業に帰着する。

某公立中学校(D校)の授業を参観した。
おしなべて教員の言葉遣いが丁寧すぎる。逆に子供の言葉が非常に汚い。
授業中にもかかわらず、私語(無駄話)が多い。授業内容に無関係な質問や、ふざけた茶々を頻繁に入れる。それに対し、ご丁寧に教員がいちいち対応するものだから、子供はいい気になって、ますます調子に乗り、授業妨害をする。
これでは、大部分のまじめに学習しようとする子供に、大きな迷惑である。多くの子の学習権を、一部の無法者の子が奪っている。その共犯者は、無法な授業の状態を許している教員たちである。
以上が、公立中学校の日常の風景である。
というのも、他の中学校でも大同小異であったからだ。

子供が落ち着いて学習するように、学習できるように、授業を指揮管理するのが教員の役目である。
ところが、子供に阿り、背後の親に怯え、教育事務所に諂い、管理職へ恋々としている教員の、なんと多いことだろう。

ごく少数ではあるが、教えるべきことを、厳しく適切に教える教員も確かに存在している。
 
教員が、効果的な授業を構成できないとしたら、そもそもが教員としての実力がないのである。「いい加減に、辞めろ」と言うのは簡単だが、そうはしない。
何度も言ってきたように、そんなことを言ったら、教員のみならず、世の中の大部分の職業人が辞めざるをえなくなる。
無理を承知、能力不足を承知で、人は、仕事をするのである。教員だけを責めるのは不公平だろう。

しかし、教育現場の状況は遺憾である。歪である。不効率である。
まともな方向へ変えることは、各教室に限って言えば、個人の力で、なんとかなる。

教員は、とりあえずは、目の前の子供を相手に、手応えのある授業をすればいいのである。
これこそが結局は、教員の仕事のすべてである。

憎まれるのを承知で言うと、女性教員、特に若い女性教員の授業が特に乱れていた。これらの教員は、教育への確固とした方針が、自分の中で、まだ定まっていないようである。
では教育哲学(らしきもの)を持ち、力のある教員はいったいどこにいるのか、という質問を返されそうだが、それは確かに、どこかにはいる。

若い教員は、「いっぱいいっぱい」の授業をしているのが、端から見てもはっきりとわかる。余裕が、まるでない。
あっぷあっぷで、今にも溺れそうである。その有様が、生徒に気づかれないことがあろうか。生徒は、教員の余力のなさを知った上で、茶々を入れる。教員はそれに懇切丁寧に応える。生徒になめられているのである。これでは授業にならない。

教員は、子供に対して、物わかりが良すぎる。教員だけではない。
親も我が子に対して、そして、子供も他の子に対して、物わかりが良すぎるのだ。
見て見ぬふりをすることにも通じるし、超個人主義にも通じるし、結局は、無責任主義にも通じる。
憲法の「諸国民の公正と信義に信頼し」て、日本の運命を、外国人にゆだねる姿勢にも通じる。
万事が、他人任せの甘えである。そのくせ、甘えが通らないときは、駄々をこねる。

親は、教育事務所へ、学校へ、マスコミへ、不平を漏らす場所はいくらでもある。
親の駄々っ子ぶりには、誰もかなわないのだ。互いに外見だけは大人であるが、年齢の重ねた子供にすぎない。
すべて、泣く子と親とには、決して勝てぬものである。

こう考えると、中学校のだらしのない体育祭も、乱れた授業風景も、親と教員と子供との、甘い共同作業の結果と言えるだろう。