ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

学校の掃除をするな。学校給食を、停止せよ。 教員は、躾に口出しをしてはいけない。

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学校で教員が、「問題」の子どもを叱っても、無駄である。指導が入らない。
何より、叱ることは悪いことだと、親は考えている。
親の機嫌を損ねることを恐れて、びくびくしながら叱るのだから、教員には、迫力がない。
子供は、教員を自分達のご機嫌を取る存在に過ぎないと思っている。教員に叱られた子供は、ぎょっとして教員の顔をまじまじと見る。叱るなんて、越権行為である。


教員が叱るとどうなるか。

親から、いわゆる教育委員会(まれに学校へ直訴)、そこから校長へ、校長から教員へと、苦情が伝わる。
一撃で、教員はぺちゃんこである。なぜぺちゃんこかと言えば、行政には、絶対に逆らえない。逆らったら、それは教員を辞めるときである。
教育委員会」とは、大仰な名称だが、つまりは教育事務所である。そこの職員は、指導主事という、たいそうな名前で、各学校への指導監督権らしきものを持つ。人事権も握っている。
こんな連中に対して、教員が逆らえるわけがない。

以前は、教員組合が逆らった。組合員は、この数年で、不景気を味方にした行政組織によって、根絶やしにされた。

今、各学校では、管理職が異常に強い。行政の天下である。指導主事の管理がますます強くなり、逆らうことができなくなった。
指導主事を操るのは、小役人である。彼らを睨んでいるのは、議員である。議員を表向きだけでも操っているのは、有権者である。すなわち、子供の親である。
親が一番、強いのである。

しかしながら、その親を操るのは、その子供である。
子供はなるほど、現代の王様である。気の小さい教員ごときが、王に逆らうことができようか。
できるわけがない。

当節の子供は、教員をなめきっている。教員への敬意が全然ない。
それは当然で、敬意を持つことのできないような教員ばかりじゃないか、と反論しても無駄である。
敬意は先に持つべきもので、相手を見て持とうとしたならば、生涯、敬意なんて持てるわけがない。

子供が教員への敬意を忘れたのは、親が教員を馬鹿にしきっているからである。
この現象は、大元を探ると、敗戦後のGHQの占領政策や、社会主義思想の浸透に、日本国民がまんまとやられた結果である。
1946年憲法で、世界をリアルに見ないようにさせ、嘘っぱちの平和ごっこの中に押し込んだ。
子供の親世代がすでに、GHQの落とし子である。孫である。


親が、教員へ批判的であるのはよいことだが、しかし、教員への適度な距離感をもたなければ、学校教育は円滑に動かない。子供が親の強い影響下にある初等教育では、特にそうである。
しかも、児童生徒学生諸君は、子供とはいえ、あまりにも未熟である。
あの親の子だもの、無理はない、と嘆いても解決しない。
教員が、うっかり、子供を強い調子で注意(指導)したりすると、親のみならず、子供までもが、マスコミの口真似をする。
「人権を無視した、侵害だ。ココロが傷ついた」とか、叫び出しかねない。
教育行政の末端である教育事務所の職員も、尻馬に乗って神経質に反応する。
「子供の気持ちを大切に。しっかりと配慮するように」ということになる。

笑止である。
誰でも自分が可愛い。もちろんそれでいい。しかし、子や親のわがままを、ここまで真(ま)に受けてどうするのだろう。

教育事務所職員、人事、議員、選挙、企業や消費者その他の力関係が、学校をびっしりと囲んでいる。
選挙民は親である。マスコミのお得意様は、親である。
学校教育や「教育問題」を、各々の立場で利用したい気持ちは、よくわかる。

しかし、学校は、そっとしておいてやれ。騒いでもろくなことにはならない。騒げば騒ぐほど、不良少年を、これ以上大量生産するだけのことである。

教員は、旧ソ連やシナの工作員の類は別として、のびのびと授業に集中させてやればいいのである。教員は呆れるほど、まじめな働き者が多い。おだてて、上手に使ってやれ。


ところで、子供の躾に、どこまで学校は口を出すのが妥当だろうか。
教員の間でも、迷っている節がある。

まず授業中の子供の態度に関しては、指導者である教員が絶対的に指導権限を持つ。
授業が成立しないほどの、態度の悪い子供がいたら、教員の判断で、対処するしかない。だから、授業成立の範囲内で行う、躾である。

ところが、小学校低学年の担任教員は、子どもの生活全般にわたって、躾をしたがる。学校教育の範囲を、無限に広げようとする人が多い。
というのも、教える内容が基礎の基礎なので、躾にまで手を広げやすいことから、本来は親がしなければならない生活習慣や躾を、お節介にも学校でしようとする。しかもそのことで、学力をつけることが下手でも、免罪符になると考えている。躾けのまねごとをすれば、それが教員の仕事と、都合よく思い込むのである。

これはまずいやり方だ。心臓手術の経験がないくせに胸部を深くまで切り開くようなものである。後々のことが、わかってない。
「子どもの生きる力」だの、「人として生きる道」だの、新興宗教の教祖のようなことを口走る教員が出てくる。かけ算九九すら、まともに教えることができないでいるのに、言うことだけは宗教家、哲学者である。こんな勘違いが一番困る。
教員は、地道な仕事をすればいいのである。足が地に着いた発言をしてほしいのである。

教員は、傲慢になりやすい。これは、普段から子どもの評価に余念がないからで、他人の評価をすると、なんだか、自分が偉くなったような気になってくる。
それがそうでないことぐらい、企業に勤めている人間はみな知っている。
AあるいはBが、私を評定できる立場にあるのは、立場の差である、上司への取り入り方の違いである。入社年齢の差である。あるいは、強力なコネの力である。
もっとはっきり言えば、たまたまである。

公立校の教員は、なまじ公務員であるだけに、ベテランですら、いい加減な理想論を、平気でおっしゃる。
現実の競争の厳しさを知らないからで、競争がないと、それに変わるものを無理にでも探し出す。困ったことである。

話は躾に戻るが、「給食指導」「掃除指導」の二つは、戦後教育の最大の過ちである。おかげで、学校教育の範囲があやふやになった。あんなことに、学校は手を出してはいけない。家庭の領分である。
公教育が、衣食住の「食」にまで、関係すると、親が甘える。挙げ句の果てに、公共物である校舎の掃除まで、子どもにさせる。
いったい、世界中の学校で、児童生徒が、学校を掃除する国がどれほどあるのだろう。
掃除をさせることが、学校教育の中身だろうか。掃除のやり方くらい、親が教えることである。
 
掃除は必要な行為である。だが、児童生徒に、当たり前のように、学校を掃除させるのは、いかがなものか。
どうしてもやりたいのなら、またはやらせたいのなら、休日に来て、ボランティアでやったらどうか。
学校施設の清掃作業は、外部に委託して、掃除させるのが筋である。
家庭科で掃除のやり方を教えるのは、まあ仕方がないとしても、それを毎日学校でやる必要はないのである。サンドイッチの作り方を料理実習でやったからといって、毎日、家庭科室で作り続けるだろうか。

以上は、大方には、にわかには理解いただけないだろう。ゆっくり考えてほしい。
そういえば、かつて、「掃除指導」を道徳教育と混同している某国立大学長がいた。いい歳をしても、ああいう勘違いをする。現場を知らないのである。あるいは、傲慢である。
世間もそれを許す。道徳の根本に宗教的情操がないと、藁でもすがるように、ああなってしまう。愚かなことである。