ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

教職は魅力的な「お仕事」。世界遺産の前で、子供を叱る。

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所用で安芸の宮島に行った時のこと。

朱塗りの鳥居が海にぽっかり浮かんだ景色を漫然と眺めていると、後ろのほうが騒がしい。

それもそのはずである。一般観光客のみならず、高校生中学生小学生の修学旅行だの遠足だので、子供たちと引率の大人でごった返している。

その中で、ひときわ目に付いたのが、小学生30人くらいの集団で、男の教員が顔を真っ赤にして怒っている。なんでも、児童らの態度が「たるんでいて」「修学旅行という勉強に来ているのに」「学習意欲がたりんぞ」とか何とか、言っている。
馬鹿馬鹿しくて聞いていることができない。
反省をしているような振りをして、我慢強く耐えている子供が哀れである。

ことほどさように、日本では、小学生のときから、理不尽であっても、ひたすら我慢を重ねて、他人のご高説を敬って聞きいって、仰せの通りにいたします、という態度を強いられる。

日本政府と同じかもしれない。


さて、怒鳴ることは、教員の仕事ではない。適切な指導あっての教職である。
教育現場は、綱渡りのようなところがあるので、このことは、常に考えておかなければならない。

たとえば、相手が同僚であれ、保護者であれ、児童生徒学生であれ、軋轢が起こることが予想されても、言うべきは言う。
意見を言えば、反発が予想されるので、はっきり言わなかったり、無難に済ませることを第一にしていると、ついには明らかな間違いまで、言わずにおいて、無難に切り抜けよう、という習性になる。

言ってしまって、それに対する反論があれば、聞けばいいのである。
反論が間違っていれば、無視するか、またはその間違いを指摘する。聞くべき点があれば聞いてやり、改善または変更すべき点があればそのようにすればよい。
問題は、後の面倒を嫌がって、最初から避けようとする態度である。これでは現場の変化に対応できない。

教員に限らず、無難に過ごすことが、社会人の常識でもあるが、いずれ、様々な体験が、とりわけ失敗体験が生かされていく時代になっていくだろうし、そうあってほしい。
失敗したのは、失敗するだけのことを、実際に行ったのである。その経験は、すでに財産である。
企業なり官庁なり、あるいは他の集団でも同じであろうが、目立ないで、無難に過ごすことが、良い評価となることが多かった。今でもそうである。
しかし何事も人並みか人並み以下にこなして、それで役職が上がったからといって、どれほどの満足感が得られることだろう。
待遇、収入面、名誉欲等は多少満足させられる。これらが、人生において重要なことであるかどうかは人によって違う。
これしきのこと、と思える人とそうでない人とが、いる。
だから、あえて、ことを構えないというのも、ひとつの見識である。
その逆に、断固として、初志を貫徹する人もいるだろう。これは価値観の問題で、難しい。


残念なことであるが、ひとりの教員の力で、学級全体を制御することが、難しくなっている事例が多い。学校の教員の総合的な力で、ようやく物事が進むことになる。
教員一人ひとりの力を馬鹿にしている行政は、「学校全体で取り組む」ということを、ことあるごとに繰り返すが、現状では仕方のないことである。
たとえば学級担任と専科教員の問題である。学級では安定して授業を受けていても、特定教科を他の教員が担当する場合、担当教員によって子供の態度は変わる。

これは人間同士であるから、当然といえば当然であるが、問題は、専科の授業での態度が特に悪く、その結果、専科教員が担任に対して、要望や不満をぶつけてくる場合である。

家庭での子供の躾ができていないことに原因があることが多い。もう一方では、当該専科教員の力量不足のこともある。
子供は相手によって態度を変えるものであるし、人を見るという点において、抜け目がない。
だから、専科教員は、もちろん担任教員も、「適切な指導」の技術を、常に反省しながら高めていかないと、難しいことになる。
 
ついでに、もうひとつ言っておく。
若い教員が、体力に任せて、汗みどろになって休憩中に、子供と遊んだりする。第三者から見ても、なかなかよいものである。
しかし、年齢とともに時間的にも体力的にも、そうもいかなくなる。だから、教員を続けていれば、ある種の諦めが必要になる時が来る。
年齢以外にも、容姿容貌性別等、色々な諸条件が加わって、教員と子供との関係は異なる。

中学校の女性教員の場合、妙に男勝りというか、言葉が男言葉で力んだ調子で話す人が時々いる。
今時の中学生という、相手が相手なので、甘く見られないようにという予防線なのであろうが、下手なやり方である。ますます教員自身の立場を危ういものにする。
女性は女性の、男性は男性の、また若い人は若いなりに、そうでない人はそれなりに自分の特徴を出してやっていけばよいし、それしかない。
教員の持ち味を生かすという点では、年齢性別に限らないことはもちろんである。自分流の方法で、授業を進めればよい。
女性は女性の優しさとか母性というような点からアプローチすることも吉であろう。
また、若い男性教員なら、児童生徒と常に一緒に動いたり、年齢が近い感覚を生かして、やっていけばよいのである。

それにしても、日本の初等教育に携わる教員の水準の高さは、誰がなんと言おうと世界一である。その熱心なこと、繊細な配慮、真面目なこと、他の追随を許さない。
これは喜ばしいことだろうか。
残念ながら、必ずしもそうではない。

小学校学級担任教員が優秀であっても、かくも教育効果が低いのは、何故なのか。いったい誰の仕業なのか。
この疑問に頭を悩ますのである。

以前話題になった映画に、フランスだかどこだったか、老教員と11人の子供たちとの交流を描いたものがあった。
風光明媚なフランスの片田舎で、モネ風の景色よろしく散歩やその他読んだり歌ったり、なんとも、のどかなものである。
あれは教育と言えるのだろうか。おそらく、あれでも立派な学校教育だと言いたいのだろう。

だとしたら、一年中、一日中、毎時間中、どたばたしている日本の先生方のやっていることも教育なのであろうか。もちろん、あれは学校教育であろう。だが、忙しさは自慢できることなのかどうか。
案外、無駄なことで、忙しくしているのではないか。

公教育は、その前に比べて、少しは「まともになった」と言える面もある。
しかし、肝心要の行政、文部科学省が失敗のし続けである。
学習指導要領の中身もお粗末である。これでは、現場が苦しむだろう。

日本の教育の根幹から、社会主義の影響が薄まって、ようやく日本の人民を大切にする教育へと変わる兆しが見えてきた。と期待をさせて、背負い投げ、とはこのことである。

誰の陰謀かは知らないが、「ゆとり教育」「総合的学習」等々の戯言を押し立てて、一挙に教育水準を転落させて、日本の教育立国、技術立国として立場を転覆しようとする作戦が、いまだに続いている。
寺脇某ごときが、その一味だとは言わない。
区々たる一個人が画策してできることではない。裏に、外国籍の何者かがくっついている。

覆水盆に返らず。このダメージから回復するには何年かかることだろう。それを思うだけでもぞっとする。
こうなったら、逆手をとって、先生方、あなたの学級だけでもちゃんと教えてもらいたい。
レベルの低い教科書の通り一遍で、それでいいなんて考えてはダメである。
あんなものは、一年分の教科書でも、無駄なくうまく教えれば、ほんのひと月で習得できることなど、いくら何でもおわかりだろう。

教科書なんか、さっさとすませて、プリントをどっさり刷って、子供の学力を上げることだ。
学習塾に任せて、知らんぷりでは困る。塾の月謝を、誰もが払えるわけではない。

反日日和見の社会科教科書(T書籍だけではない)、外国語万歳の国語教科書(M村だけではない)を後生大事に、もたもたと使うばかりでは、困る。
「そんな余裕はない、毎年、学期末でも、教科書が予定通り終わらない」と、先生、あなたはおっしゃるか。
残念ながら教員としての能力が不足しているのではないか。

とまでは、いくらなんでも言わないが、察してくれ。