ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

学年通信は、教員の保身のため。親は、生かさぬよう殺さぬよう、学校を監視せよ。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

学年通信というものがある。教員からの親向けのプリントである。月に一度、決まりきったことごとを書いて、挙句の果てが、「一生懸命やらせていただきますので、ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます」といった文面で結ぶ。
教員のくせして、ここまで遜ると、かえって見苦しい。自信がないのなら、さっさと辞めるがいい。

今も昔もこれからも、学校は、子供だけのみならず、後ろに控えている保護者までも、甘やかし続ける。
どこの学校の教員も、親と同じ世代が増えてきて、自信も哲学もない、骨なし教員が増えてきたためである。
骨なしが学校の大部分を占めた。骨ある教員の居場所はすでにない、絶滅したのである。

絶滅するのは勝手だが、日本がそれでは浮かばれない。
日本人の誇りもなく、外国に阿る人間ばかりが育ってゆく。

多くの教員は、日和見で、「国際交流」や「総合学習ごっこ」や「みんな一緒で、仲良しごっこ」の大好き人間である。
抜け目のないチャイナやロシアや白人種の攻撃を受けると、ひとたまりもない。

無論、他国は、それが狙いである。

彼らは、日清日露の日本の勝利や、先の大戦での日本の奮闘を決して忘れない。心の底で、なぜか日本人を恐れている。しかも憎んでいる。
だからこそ、先手必勝、日本を影に日向に攻撃するのである。
話が飛んだようだが、そうでもない。

身近な、「学年通信」とかいう、まやかしのプリントを見ているうちに、日本の教育を巧妙に破壊し、教育の主体である教員の心理を愚かで卑しいものにする作戦が、ここまで浸透したのかと、思いを深めたのである。

もちろん、教員の保身の面もある。
というのも、学校へいろいろと暇に任せて、注文または言いがかりをする親が多い。
要望、意見、提案、非難など様々な仮面をかぶって、やってくる。

学校にしてみれば、ありがた迷惑で軽く聞き流す、または拝聴すべきことであるが、実はこれは案外、効果的である。
というのも、学校という存在は、多少煙たい人々が世間にいた方がいい。
親は、適度にうるさく学校へ注文をつける。そうすれば、学校も適度に緊張して、だらけたりしないだろう。

今時、だらけた学校なんて多くはないと世間は思うのだろうが、どっこい、だらけていない学校の方が少ないのである。
だらけ学校は、高校に特に多い。それでも大学ほどではないのは、ご存知の通り。
教職員が組合を中心に結束して、自分たちの思うような方向へ学校全体を引き摺るような学校である。

非難しているのではない。むしろ、応援したいくらいだ。組合がなかったり、力があまりに弱いと、行政の意のままになる可能性がある。行政は、一歩間違えば、極めて不安定で定見のない連中の集まりだから、とんでもないことになる危険性が、なしとしない。

しかし、生徒の学力向上どころか、入学した生徒たちを、ご丁寧にも3年間かけて駄目にしてしまう学校がある。安心して「お任せ」してはならないような学校があることも事実である。
親は監視の目を緩めてはならないだろう。

で、何が言いたいか。
文句を言いすぎると、学校がへこむ。特に学級や教科担任がへこむ。教員がへこむと、良い教育はできない。学級もめちゃくちゃになることがある。
今の学校は、親の些細な文句にも弱い。
きわめて弱いのである。

だから、親は言い過ぎて、学校を殺してはならない。生かさぬよう殺さぬよう適度に文句を言ってやれ。このバランスが大切なのだ。