ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

学校は躾の道場にあらず。子供の品位は、親の躾、遺伝、環境で決まる。

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学校は、学業を教えるところであって、躾をする場所ではない。

「勉強は塾で、躾は学校で」と本気で信じている親がいる。性質(たち)の悪い冗談だろうと思っていたが、実際にたくさんいるのである。学校も学校で、「生活指導」という、わけのわからない名目で、喜んで首を突っ込む。

子供の人品は、育ちで決まる。または遺伝で決まる。
道徳教育を、学校ごときに押し付けようなんて、どうかしている。砂漠の真ん中で、雪合戦を試みるようなものである。


道徳は、宗教なしでは不可能である。道徳は宗教そのものであり、宗教の本体は、道徳である。
宗教を否定すると、共産主義指導者や将軍様が、まるごと宗教になってしまう。すなわち生き神様であり、偉大なる首領様となって、特定の人間の気まぐれや残虐行為が、すべて道徳となってしまう。

学校は、まず学問を教えるところである。
道徳は、親が、家庭が、社会が教えるのである。それが困難であることと、安易に学校に任せようとすることとは、別問題である。

もう少し言おうか。
親の意識が変わった、だから学校も変われ、などとまことしやかに喧伝されるが、いかがなものか。
親の意識が変わったのではない。親の持つ不平不満を、学校に投影しているだけである。

小学校では、5年生になると、野外活動と称して、キャンプの真似事する。二泊三日で、公共施設に泊り込む。野外活動の引率が嫌で、5年生の担任希望者がいない。団長は校長が建前だが、本人も行きたくない。会議だとか何とかで、用事をでっち上げて、教頭に行かせる。

野外活動で、子供が、自分の不注意で、怪我をしたとする。以前なら、ご迷惑をおかけしました、落ち着きのない子供でして、と親が謝る。
今は、まったく逆で、学校の安全教育はどうなっている、怪我防止の事前指導は十分だったのか、活動の安全妥当性を確認したのか、等々、親が居丈高に噛みついてくる。

お笑いである。
何がお笑いかと言えば、噛みついてきたら、振り払えばいいものを、平身低頭、お涙ちょうだいで、教員は平謝りする。
腰抜けもここまで来ると保身の鏡である。

学校だからといって、すべて安全とは限らない。お宅の家を一歩出たら、何が起こるかわからない。そんなに心配なら、首に縄付けて押入に押し込めておけ、と怒鳴りつけたいところである。

四六時中、安全な場所なんてない。子供にとっても、毎日の行動が、事故になるのかならないのかは、一種の賭みたいなものである。
不幸な結果になったとしたら、それも運命である。先のことは誰にもわからないからだ。
学校は危険がいっぱいである。そのくらいの覚悟はしておくがいい。

しかしながら、明らかに学校関係者のミス、教員、管理者、委員会等の人的ミスで、児童生徒学生の不幸な事件事故が起こっているのも事実である。この場合は、表に出るかどうかは、政治とマスコミの利害得失、関係者の人間関係によって決まる。


話が変わる。

学級によって、子供の雰囲気や学力が違う。学校全体で見るとき、地域で大きな傾向がある。

良い学校は良い地域にある。
それなりの学校は、それなりの場所にある。

近頃、とある調査を見て、思うところがあった。
地域の条件は複雑だから、単純な比較はできないし、普遍の結論は出ない。
それを承知で、「よいわるい」風に大雑把に言えば、

街中で、アパートが多く、一軒家の点在する地域の学校はよくない。
一軒家の立ち並ぶ団地で、一戸あたりの土地面積が比較的広く、都市中心部へ近い学校はよい。
校外の農村部で、一戸あたりの面積が広い、いわゆる豪農が点在する地域の学校はよい。
街中であっても、銀行や警察官自衛官等の各種官舎等のある地域の学校は極めてよい。
高層住宅の立ち並ぶ地域の学校はよくない。
子供部屋があって、家庭が金銭的にも情緒的にも、安定していれば、子供は落ち着く傾向にある。道路が整然として、一定以上の空間が残っている地域の学校はよい。
学校は校舎や設備が新しく、広々としていて、静かな場所がいい。

以上は、当然のようだが、不快でもある。しかし事実である。

遺伝と躾と環境とが、子供の本性であり、私たち大人の現実である。