ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

おせっかい教育は競争が嫌いである。子供は勝ち負けが大好きである。

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今までの日本の教育は「おせっかい教育」である。
または、甘ったれである。外聞屋である。事勿れ主義である。
もちろん、「悪い事」はない方がいい。誰でも、無難に過ごしたい。

しかし、無事な毎日は、これまでもなかったし、今もないし、これからもないのである。
無事だと錯覚できたのは、アメリカの名ばかりの核の傘と、他国の混乱と、島国とのためである。
運がよかったに過ぎない。
世界は爛熟に突入した。地域紛争は、ガス抜きの一種である。
ガス抜きは、常に必要である。なければ、本体そのものが爆発してしまう。これはまずい。だから、常にごたごたはある。無理にでもつくる。これが国際政治の本体で、常に小規模な爆発があるから、全体として安定するのである。

諸外国からすれば、日本はお人好しで勤勉な、まことに使い勝手の良い「民族」である。日本が今後も、無事に安泰のままでいるわけがない。それほど、世界は甘くない。

それはともかく。
夏が近づくと、子供に紙鶴を折らせて、反省したふり(いったいなにを子供に反省させるのだろう。現在の日本が、社会主義になっていないことの、反省なのか?)をさせる「平和教育ごっこ」は、時代錯誤である。それを承知で、今も続ける教員の発想は、不勉強を通り越して、想像力の欠如、または他国の工作員である。
戦後は、ちっとも終わってない。平和を唱えていれば、鳩が持ってきてくれると、まだ本気で考えている大人がいるのだろうか。

日本では、国の存続や安全への、過度の信頼がある。信頼の上に生活が成り立っている。
信頼が日本人の基本の人生観だ。なぜだかは分からないが、個人の能力に対しての要求がそれほどシビアにならない傾向がある。

聖徳太子が「和を以て尊しとなす」と言ったのは、日本は、一か所に定住して農耕を営む地域限定型社会だから、和が重要だ、ということである。
一方、大陸の移動型社会では、和は必要ない。実力優先の競争社会である。和が入り込む余地はない。一時的な和ができたとしても、利益を共有できる場合だけで、愛想笑いの仮面の下で敵意が剥き出しである。
嫌なことではあるが、これが現実である。
ひとり日本だけが、みんな一緒の仲良しごっこが大好きで、戦うことが嫌である。
こんな根性で、国際社会の競争に勝てるのだろうか。もちろん、外国なんぞに勝ち続けることは至難であり、また常勝の必要も少ないけれども、国家の独立と民族の存続だけは、守っていかなければならない。

不景気が続いたので、「競争」にも、少しばかり、慣れてきた。
再び「能力主義」が見直され、一応、歓迎されるようにはなった。
しかし、日本の国民感情は競争を好まないところにある。教育現場では「みんなで仲良く、みんなで一緒に」の意識が、固い根のように張っている。
日本の社会で、競争原理の「能力主義」が可能だろうか。

諸外国の学校教育では、「競争」を、日本ほどには、嫌っていない。
むしろ、望ましいこととしている。競争のための努力は、善であり、進歩の原動力と考えられている。

実際には、日本の子供も、競争が大好きだ。努力して、自分なりの結果を出す。これは、自然な感情だろう。
競争には1番があれば、2番手3番手があり、当然勝ち負けがある。だからいけない、と自称、「平和主義者」「平等主義者」らは、おっしゃる。
しかしながら、この手の発言には気をつけなければならない。どこか、胡散臭い。嘘がある。自分だけ、高みの見物と決め込む傲慢さがある。

競争、大いにけっこうである。
競争なくして技術の進歩はない。競争なくして、学問の進歩はない。
能力主義」と「競争主義」とは、双子の兄弟である。

子供は、運動でも勉強でも、競争としてとらえている。結果を素直に受け入れる。
勝ち負けに「傷つく」のは、当事者の子供ではない。実は大人たちである。